2008年9月14日日曜日

福音のために苦しむことは惨めではない


フィリピの信徒への手紙1・12~20

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」

先週から使徒パウロのフィリピの信徒への手紙を学びはじめました。先週学びましたのは、手紙の書き出しの部分でした。パウロは、祈りのなかでフィリピのキリスト者のことを思い起こしながらこの手紙を書いています。

パウロが神に感謝していることは、彼らが「最初の日から今日まで福音にあずかっている」(5節)という点でした。「福音にあずかっていたのは最初のうちだけでした。しかし、そのうち福音から離れてしまいました」と、そのような道を彼らが辿っていないことをパウロは神に感謝しています。月並みな言い方ですが「継続は力」なのです。教会生活は続けることに意義があります。途中でやめないこと、人生の最期まで続けることが重要なのです。

しかしまた、先週の個所で私がやや強調気味にお話ししましたことは、この手紙のなかにはフィリピの教会に属していたであろう人々の名前が全く出てこないという点でした。個人情報はどこにも記されていません。ともかくはっきりしていることは、パウロがこの手紙を書き送り、呼びかけている相手は「あなた」ではなく「あなたがた」であるということです。

その意味を考えました。結論は、この手紙のなかでパウロは「最初の日から今日まで」福音にあずかってきたと言いうる人々と、必ずしもそうとは言えない人々、すなわち教会生活を途中でやめてしまった人々とを明確に区別していないように見えるということです。

教会生活を途中でやめてしまってもよいという話には決してなりません。しかしパウロはそのことをこの手紙の中では問題にしていません。教会がとにかく存続し続けてきたこと。個人的な出たり入ったりはあったかもしれない。しかし、それでも、とにかく教会の灯は絶やされることなく輝き続けてきたこと。そのことを、パウロは神に感謝しているのです。

そのようなパウロの姿勢ないし態度は、はたして本当に正しいものなのだろうかという点は別の問題として扱う必要があるかもしれません。私が考えさせられることは、今申し上げているようなパウロの態度は、現代人の感覚とはかなりずれるだろうということです。何が言いたいか、お分かりいただけるでしょうか。

現代人とはわたしたちです。わたしたちの多くは、「教会」を重んじるべきか、それとも「個人」を重んじるべきかと問われるならば、迷わず「個人」を選ぶはずです。そして、最優先事項はおそらく「自分自身」です。「教会が存続していけるかどうか」という点よりも、教会の中のあの人この人が教会生活を続けているかどうか、「個人」の生き方がどうか。また誰よりも自分自身、つまり「このわたし」の生き方がどうかのほうがはるかに重要であると考えるでしょう。「個人」より「教会」を優先するというようなことは、わたしたちにとっては、ほとんどありえないことであり、奇異な感覚を持つだけでしょう。

私が今このようなことを申し上げていることには、もちろん理由があります。これから学ぼうとしている今日の個所にも、方向性において同じ、あるいは少なくとも「似ている」と言いうる言葉が書かれているからです。その点に話を進めて行きたいからです。

今日の個所にパウロが書いている言葉は、多くの人々に衝撃を与えてきたものであると言ってよいでしょう。第一に分かる衝撃の事実は、この手紙を書いているときのパウロは、監禁されていたということです。ただし、どこに監禁されているかは記されていませんし、はっきりとは分かりません。それが分からないということは、この手紙がどこでいつごろ書かれたものであるかもはっきりとは分からないということを意味しています。諸説あり、定説はありません。私はパウロがローマに監禁されていた頃に書かれたものではないかと考えていますが、別の答えもありうるでしょう。

衝撃を感じる第二点は、監禁されていたパウロは、しかしそのことを彼自身は、「福音の前進に役に立った」と書いている点です。パウロは監禁されているのです。彼は明らかに苦しみを感じています。監禁されても苦しくないということはありません。苦しいのです。しかしパウロは、自分自身が今まさに感じている苦しみを、否定的にではなく、肯定的にとらえていたのです。少なくともそのように読める言葉を書いています。

しかし、自分の苦しみを肯定的にとらえるとは、どういうことでしょうか。負け惜しみでしょうか。開き直りでしょうか。当てこすりとか皮肉のたぐいでしょうか。そのような可能性を全く否定することはできないかもしれません。パウロもまた人間だったわけですから、周りの人々に愚痴をこぼしたくなることもあったでしょうし、誰かに向かって痛烈な当てこすりを言いたくなるときもあったでしょう。しかし、注意すべきことは、わたしたちの手元にあるのは彼が書いた言葉だけであるということです。言葉の裏側を読み取ることには限界があります。詮索しすぎることは控えなければなりません。

そして、よくよく考えてみれば、パウロが言っていることはたしかな真実であることが分かります。パウロが監禁されていることによって、その監禁は「キリストのためである」ということが多くの人に分かる。これは事実です。

使徒言行録の説教のなかで何度かお話ししたことは、迫害をやめてもらう最も手っ取り早い方法は、信仰を捨てることであるということです。迫害者たちの目的は、信仰を捨てさせることなのですから。信仰者が信仰を捨てた時点で、迫害者たちの目的は達成するのです。

しかし、パウロは監禁されている。彼が信仰を捨てないからです。どんな目にあっても、激しい苦しみのなかに置かれても、このわたしの救い主イエス・キリストから離れることができない。その信仰を貫いているがゆえに、パウロは監禁されている。彼が監禁されているのは彼が信仰を捨てていない証拠であるということが、多くの人々に分かる。そのことを信じることができたので、パウロは、自分の苦しみ、不幸な境遇を肯定的にとらえることができたのです。

第三に分かることは、私自身は今日の個所全体の中で上から二番目に衝撃を感じることです。パウロによると、自分が監禁されているこのとき、福音の伝道をしている人々の中には「不純な動機」で取り組んでいる人々がいるということです。読むたびに、ええーっと驚かされます。

パウロから見ると、その人々は「ねたみと争いの念にかられている」(15節)のであり、「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようとしている」(17節)のです。これが何を意味するかを特定することはできません。しかし、ある程度想像がつきます。福音を宣べ伝えること、つまり「伝道」を、純粋に商売のようなものとしてとらえていた人々がいたのではないでしょうか(「商売」をおとしめる意図はありません)。

あの教会には、人が何人集まっているか。財政規模はどれくらいか。そのようなことが重要でないわけではありません。しかしそのことばかりに関心があり、他のことにはまるで関心が向かないというのでは困ります。そういう感覚をもった人々から見ると、パウロの姿がまるで商売敵(がたき)のように見えていたのではないでしょうか。

「パウロの伝道集会、パウロの教会には、いつもたくさんの人が集まる。でも、うちの教会にはちっとも集まらない。あいつが捕まってくれた。今がうちの教会にとって絶好のチャンスである」………想像するだけで、なんだかだんだん馬鹿馬鹿しくなってきます。

パウロは、教会というものに属している、いろんな種類の人々のことを熟知していた人です。そしてまた、パウロは、教会のなかの光の部分だけではなく、陰の部分、あるいは闇の部分をも熟知しており、またそのことを率直に言葉にし、書き残した人なのです。

キリストを宣べ伝えていた人は、もちろんキリスト者です。不純な動機のキリスト者がいるとパウロは言っているのです。わたしはユダヤ人や異邦人から苦しめられているだけではない。キリスト者たち、教会員たちからも苦しめられているのだと言っているのです。

しかし、第四に分かること、これが私にとっては今日の個所で最も大きな衝撃を受けた点です。18節の言葉です。「だが、それがなんであろう」(!)と記されています。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」。

伝道を商売のようなものととらえ、パウロの存在を商売敵のように見て、あいつが監禁されている今こそ我々のチャンスであると、ここぞとばかりに奮闘しはじめた人々がいた。しかし、動機が不純かどうかはどうでもよいことだと言っているのです。「喜んでいる」と書いています。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから」と。

ここで今日最初のほうでお話しした点に戻ります。パウロの考えは、現代人の感覚とはずれるだろうというあの話です。現代人の多くは「教会」か「個人」かどちらかを選べと言われたら、迷わず「個人」を選ぶでしょう。しかしパウロは違います。パウロならば、迷わず「教会」を選んだでしょう。そのことは今日の個所、とくに今問題にしている個所からも明らかにすることができると思われるのです。

わたしは迫害者たち、なかでもユダヤ人たち、あるいは異邦人たちからこんなに苦しい目に遭わされているけれども、自分の苦しみがキリストのため、福音のため、教会のために役に立っていることを「喜びます」と語ることができたパウロ。

そしてまた、本来は迫害者などではありえない、むしろパウロにとっては仲間であり、味方であるはずのキリスト者たち、しかも、福音の伝道に携わる伝道者たちが「ねたみや争いの念」から福音を宣べ伝えている。そのことをなんとも言えない気持ちで見てはいる。しかし、そのこともまた、キリストのため、福音のため、教会のために役立っていることを「喜びます」と語ることができたパウロ。

このパウロにとっての優先順位はどうであったかを考えさせられます。何よりも「教会」、次に「個人」。自分自身のことなどは最後の最後だったのではないでしょうか。そのようなパウロの姿を思うとき、「わたしたちが弱音を吐いている場合ではない!」と思わされます。

「このわたし」を犠牲にし、「個人」を犠牲にしてでも「教会」を優先するという選択肢を選ぶことは極めて困難な時代に生きているわたしたちです。しかし、キリストのために、福音のために、教会のために苦しむことは惨めなことではありません。キリスト教信仰は「自分のことしか考えないこと」の正反対です。自分のことはいちばん後回しにすることが求められる場面があります。そこにこそ、つまずきがあるかもしれません。しかし報いも必ずあります。わたしたちの人生に、神の恵み、救いの喜びが豊かに降り注ぐでしょう。そのように信じようではありませんか。

(2008年9月14日、松戸小金原教会主日礼拝)