2008年10月5日日曜日

人生の模範はイエス・キリスト


フィリピの信徒への手紙2・1~11

「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

パウロが言おうとしていることは、はっきりしています。私なりの言葉で言い換えますと、次のようになります。

教会に集まるわたしたちは、自分のことしか関心がないような人間であってはならない。教会のみんなが心を合わせて一つにならねばならない。そのために重要なことは、わたしたちがみな、謙遜な人間になることである。

わたしたちに謙遜の模範を示してくださったのが、イエス・キリストである。キリストはわたしたちの人生の模範であり、謙遜の模範である。キリストが示してくださった謙遜の模範に従って生きることは、教会の一致のために重要である。

今私が申し上げたことの中に、今日の個所に限ってパウロが書いていない字があります。それは「教会」という二文字です。しかしここで考えなければならないことは、そもそもこの手紙そのものが、フィリピという町の「教会」に宛てて書かれたものであるということです。この点は繰り返し申し上げてきました。この手紙の中に「あなたがた」という字を見つけたら、それは直接的にはフィリピの教会の人々のことです。加えて当時「教会」に属していたすべての人々のことです。これは「教会に宛てられた手紙」であるという点を無視して読み進めることは不可能なのです。

また、ここで付け加えておきたいもう一つのことがあります。それは、これまでの個所にパウロが書いていることから分かることです。教会は、キリスト者の集まりです。同じ信仰をもって集まっている人々の団体です。しかし、その教会の中にはいろんな考え方や立場の人がいるということです。

パウロが書いていたことは、キリストを宣べ伝えるのに「ねたみと争いの念にかられてする者」もいれば「善意でする者」もいるということでした。「愛の動機」からキリストを宣べ伝える人もいるが、「不純な動機」からする人もいる。「だが、それがなんであろう」とも書かれていました。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と。

しかし、パウロが喜んでいることと、教会の中にいろんな考え方や立場の人がいて分裂や不一致に陥ることは、区別して考えなければならない面があります。てんでばらばら、好き勝手に、各自言いたい放題のことを言って、誰が傷つこうが嫌な思いをしようが関係ないというような状態を放置しておくことが良いことなのかと考えてみれば、いくらなんでもそれは違うだろうと誰でも感じるでしょう。てんでばらばらのままであるよりも一致しているほうが良いに決まっているではありませんか!けんかするよりも仲良くするほうが良いに決まっているではありませんか!

実際、パウロの言葉をじっくり読みますと、不純な動機からキリストを宣べ伝える人がいることをパウロは「喜んでいる」と書いていますが、しかし、喜びと同時に「苦しみ」も感じていたに違いないことが分かります。パウロはなにもへらへら笑っていたわけではありません。他のだれよりも彼自身が深く傷つき、苦しみを感じていました。しかしこの苦しみは「神の恵み」として与えられたものである、そうなのである、そうなのであると、一生懸命、自分自身に言い聞かせていた面があったに違いないのです。

だからこそパウロは、今日の個所においては教会の一致の必要性を力説しているのです。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」と書いています。「幾らかでも」というのは、ちょっと遠慮しすぎです。しかし原文を見ますと、「幾らかでも」(ティス)という字は「キリストによる励まし」の前にも「愛の慰め」の前にも「“霊”による交わり」の前にも「慈しみや憐れみの心」の前にもついています。繰り返されている字には強調があります。「幾らかでも(ほんのちょっとでも!)」という点をパウロは強調しているのです。逆に、そのようなものを全く持っていないならば話は別である。その場合は、あなたがたはもはや「教会」ではない。そのようなニュアンスを読み取ることもできるのです。

しかし、そのようなものをあなたがたが「幾らかでも」(ほんのちょっとでも!)持っているならば、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とあります。「同じ思い」や「同じ愛」と言う場合の「同じ」の意味は、教会に集まっている人々の中での共通性です。わたしパウロと同じ、ということも含んでいるかもしれませんが、それだけではありません。強く勧められていることは、教会内部の一致です。ばらばらでないこと。けんかをしないこと。一致し、協力して伝道に励むことです。それがパウロの喜びにもなると言われているのです。

「幾らかでも」(ほんのちょっとでも!)という点が強調されていることの意図は、よく考えてみる必要があるように思われます。これはまた、あからさまに言うところの教会の現実はいろんな考えや立場の人の集まりであるということに関係してくるでしょう。別の言い方をすれば、教会の中の温度差の問題であると言ってもよいでしょう。

教会のなかには、非常に熱心な人もいるし、少し温度が低い人もいます。願いとしては熱心でありたいのだけれども、今の事情がそれを許さないという人もいます。今のところ熱心である人が、今のところ熱心でない人を裁くこともありえます。ついこのあいだまでは、あるいは何年か前までは熱心であった人が今ではすっかり冷めてしまっているという場合もあります。

そのような事情のすべてをパウロはよく分かっているのです。だからこそ「幾らかでも」と言っているのです。パウロにとっては、伝道の動機が純粋であるか不純であるかは関係ないと書いているのと同様、熱心であるか冷めているかも、実はあまり関係ないことなのです。ほんのちょっとでもあるならば、十分なのです。熱い気持ちが多いか少ないかは、あまり関係ない。少ないことが教会の一致を乱してよい理由にはならないし、多いからと言って少ない人を裁いてもよい理由にもならないのです。

しかしまた、この教会内の温度差というべき問題についてパウロは(これはあくまでも私自身の一つの読み方として申し上げることですが)、今日の個所に限っては、どちらかというと、温度を上げるほうではなく、少し下げるほうのことを勧めているように感じられます。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」とパウロは書いています。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とも書いています。ここでわたしたちが考えてよさそうなことは、パウロが書いていることは、信仰の熱心さに伴いやすい傲慢さに対する戒めであるということです。

このわたしは熱心である。一生懸命がんばっている。誰にも文句を言われることはないくらいに、よくやっている。この思いには、大きな落とし穴もあるのです。他の人がしていることが小さく見えます。自分よりも熱心でない人の存在に苛立ちを覚えます。わたしがこんなにがんばっているのに、誰もついてきてくれないし、理解してくれないと寂しさや孤独感を覚えたりもします。その人々の思いは、理解できないものではありませんが、しかし、一つの大きな落とし穴に通じる道でもあるのです。

もちろんそれは、傲慢の道です。熱心な人を熱心でない人が裁くことは、良くないことです。足を引っ張るようなことはすべきではありません。これもあからさますぎる言い方かもしれませんが、現実の教会は全員が同じ思い、同じ温度で一致協力することができている場合は少ないと言わねばなりません。熱心な人々が熱心でない人々を含む教会全体を支えているという場合が少なくありません。しかし、だからといって、熱心な人が熱心でない人を裁くことは、教会においては決して許されるべきことではありません。そのようなことを許すのは、はっきり言って「教会」ではないのです。教会ではない別の何かです。「わたしはこんなにがんばっている。がんばっていないあなたがたは、間違っている」と言った瞬間に、その人は、このわたしは、教会を破壊する言葉を語っているのです。

教会を破壊する傲慢の道に進んで行かないために、パウロが勧めていることは、イエス・キリストの模範に従うことです。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」とある「それ」が指しているのは「へりくだって」です。謙遜であることです。つまり、「イエス・キリストの模範」とは最初に申し上げましたとおり「謙遜の模範」であるということです。わたしたち人間が謙遜に生きるための模範をイエス・キリストが示してくださったのです。

謙遜とは、傲慢の反対です。矢印の方向が正反対です。「傲慢」とは下から上へとのぼる道であり、「謙遜」とは上から下へとくだる道です。先ほど私が、温度を上げる方ではなく少し下げる方のことをパウロが勧めていると申し上げたのは、この点にかかっています。熱心であること、一生懸命にがんばることは、悪いことではありませんし、誰かから文句を言われたり裁かれたりしなければならないことでもありません。しかし、熱心であることの落とし穴は、他人を裁きはじめることです。他人の存在が小さく見えはじめ、他人のしていることが取るに足りないものに思えることです。知らず知らず、利己心や虚栄心が混ざりはじめることです。相手よりも自分のほうが優れていると考えはじめることです。

イエス・キリストはそうではなかった、ということを、パウロは読者に訴えています。キリストは「神の身分」であられたのに、そのことに「固執」なさらず、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。ここでパウロが描いているのは、キリストがたどった道です。キリストは、人間になられた神であると言っています。神である方が神であることにとどまらずに人間になられたのだと言っているのです。それが上から下へとくだって来る道です。傲慢が示す矢印とは正反対を向いた謙遜の道です。

パウロはそこまでは書いていないことながらこの文脈から読み取ってよさそうなことは、ねたみや争いの念にかられて伝道する人々、自分の利益を求めて教会に集まる人々、利己心や虚栄心を満たすことばかり考え、わたしはあの人よりも優れた人間であると競争心を燃やす人々は、キリストがたどった道とは正反対の道、つまり、「何とかして自分自身が神になろうとする道」を進んでいるのではないかという、一つの冷静な問いかけです。

わたしたちが教会の中で何か傷つくことがあるとしたら、ほとんどの場合、今日の説教で申し上げたようなことに関係しているのではないかと、私は考えております。イエス・キリストの模範、謙遜の模範に従うのが「教会」です。松戸小金原教会は「謙遜な教会」であり続けたいと願っています。

(2008年10月5日、松戸小金原教会主日礼拝)