2008年4月13日日曜日

夜も昼も涙を流して


使徒言行録20・25~38

今日見て行きますのは、使徒パウロがエフェソの長老たちを前にして語った演説の続きの部分です。この演説は、パウロ自身の人生の終わりを意識し覚悟しつつ語られた別れの挨拶です。そのような言葉をわたしたちは遺言(ゆいごん)と呼ぶのです。これはパウロの遺言です。そして、そうであることがはっきり分かるように語られたので、エフェソの長老たちは激しく泣いたのです。

「『そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。』」

この演説を聞いているエフェソの長老たちにとって、パウロが語っている「あなたがたがもう二度とわたしの顔を見ることはない」の意味は、わたしパウロがもう一度この町に帰ってくることはないということだけではないと分かっていました。パウロがエルサレムで待ち受けているであろう事態は、ユダヤ教団当局との対決、逮捕・投獄、そして処刑。そのようにして伝道者パウロの人生が終わりの日を迎えるのです。そのことを、パウロははっきりと自覚し、覚悟していました。

しかしそれにもかかわらず、彼はひるむことがありませんでした。神の御計画のすべてを、ひるむことなく、公衆の面前でも・方々の家でも、ユダヤ人にも・ギリシア人にも、宣べ伝えました。言葉を尽くして、一つ残らず、まさにすべてを語ろうとしました。

そして、そのためにこそ、パウロの説教は長々としたものにもなり、それを聴いているうちに居眠りし、三階の窓から落ちて死んでしまったエウティコのような人を生み出してしまったということまで書かれていました。

人が死ぬという話を冗談めかした調子で語ることは、許されないことかもしれません。しかし見方を換えれば、パウロにはそれくらい一生懸命に、長い時間をかけて徹底的に、神の御計画のすべて、つまり、この世界とこの人間とが救われて生きるために神御自身が御計画された定めの全貌を語って来たことの誇りないし矜持(きょうじ)があったのです。

そして、だからこそパウロははっきりと語ることができました。「だれの血についても、わたしには責任がありません」と。これは不思議な言葉です。しかし、意図は分かります。「だれの血」の「血」とは、殉教者の流す血を指しています。神の教えに従って生きかつ死ぬ者の命そのものです。その血ないし命の責任は、パウロにはない。伝道者ないし説教者にその責任はない。これはある見方をすれば、もちろん冷たく突き放すような言葉です。責任はあなたがた自身にある。自分で責任を取りなさいということです。

しかし、その裏側には教育者的な愛情が満ちています。今やあなたがたは責任を自分で取ることができるほどに成長したではないかということです。あなたがたはもはや子供のままではありませんということです。自分で判断し、決断し、自分の進むべき道をきちんと選び取って生きていく大人になりましたということです。

いろんな言い方ができると思います。あなたがたは大人の信仰者となり、成熟した教会人となりました。そのような者として、自己責任において態度決定することができるようになりましたということです。あなたがたはもはや誰かの指図に従って生きる者ではありません。「パウロ先生がこうおっしゃったからこうしました。パウロ先生が何もおっしゃらなかったから何もしませんでした」というような他人任せの甘えた態度を取ることはもう許されませんということです。

もっと積極的に言いなおすこともできるでしょう。あなたは自分が生きたいように生き、やりたいようにやりなさいということです。このように考えること、つまり、自由と自己責任において生きることを、キリスト者たちは恐れるべきではないのです。

しかしまたこれは、別の言葉で語りなおす必要もあるところです。それは何でしょうか。すべてのことを自己責任において判断し、決断して生きていく大人の信仰者として認めていただけるためにこそ、パウロが言葉を尽くして語った“神の御計画の全貌”を徹底的に学び、受け入れることが必要にもなってくるのだということです。

「神の御計画」とは、世界と人間をお造りになり、救われる神の計画のことです。時間にすれば、世界の初めから終わりまであります。もちろんその中に、人類の歴史の全体が含まれます。

そのすべてを完璧に学び尽くすことは、わたしたちには不可能であるというべきです。完璧である必要はありません。教会は完璧主義的な何かを教えることも求めることもありません。わたしたちに求められることは、全生涯をかけて、ひたすら学び続けることです。わたしたちの学びに卒業式はありません。強いて言うならば人生の終わり、ただそれだけが卒業式なのです。

たとえば、パウロはエフェソの長老たちに「すべてを語った」と言ったかもしれません。しかし、パウロがその言葉を発した直後に神の新しい御計画が始まるのです。ですから、パウロが「神の御計画のすべて」を語ることは、厳密に言えば不可能なことです。わたしたちも同じです。「すべてが分かった」と確信できたその直後にさらに新しい歴史が始まるのです。わたしたちが知っていることは、正確に言えば「すべて」ではありえないのです。

「『どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。』」

繰り返し申せば、この演説は、エフェソの長老たちに向かって語られているものです。長老とは教会全体の責任者です。牧師は長老の一人です。我々の言葉で言い直せば“小会”のメンバーです。

牧師と長老に負わされている務めは、パウロが語っているとおり、教会全体への気配りと世話と監督です。この順序も重要だと思います。三番目に言われている監督という要素だけが独り歩きすると、長老と他の教会員との関係が悪い意味の上下関係のようになってしまうでしょう。

しかし、教会の組織は、そのようなものではありません。長老たちの第一義的任務は、監督的に上に立つことではなく、徹底的に奉仕者として、仕える者として、下に立つことです。牧師も長老の一人であり、他のだれよりも仕える者として、下に立つ者でなければなりません。

しかしそれでも、長老には、あるいは“小会”には特別な権限ないし権能が与えられているし、与えられるべきであるということは認められるべきです。長老には強い力が必要です。問題は、その力を長老は何のために用いるのかということです。パウロの演説の中にその答えがあります。それは何でしょうか。

「『わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。』」

長老に与えられている権限ないし権能、そして力とは、残忍な企みを凝らし、あるいは邪説を唱えることによって教会を荒らす人々から、教会の群れと教会の教えとを守ることです。

長老の力とは第一義的に“守る力”です。「守るべきものを持っている」と言える人は、強いのです。なぜなら、そのために本当に文字どおりの命をささげますから。そのために死ぬことを少しも惜しいとは思いませんから。余計なことは言わないほうがよいかもしれませんが、「守るべきものは何もない」と思っている人は弱いです。だれのためにも、何のためにも死ぬことができない。自分が真っ先に逃げるのです。

しかし問題は、長老たちは何を守るのかという点にあります。教会という組織でしょうか。そのこともとても重要なことです。教会の教えや聖書の知識でしょうか。そのことももちろん重要です。しかしそれだけでしょうかと問うておくべきです。

ここで考えるべきことは、教会という組織、また教会の教えや聖書の知識は、それ自体が目的であるという面を持っていると同時に、それは手段でもあるという面も持っているということです。教会とその教えは、この世界と人間をよりよく生かすためにあります。この世界と人間は、教会の中で、教会と共に、教会の教えに基づいて、よりよく生きることが重要なのです。

ですから、長老たちが守るべきものは、教会とその教えだけではないというべきです。教会とその教えと共に生きるすべての人々の生活ないし人生そのものを守る必要があるのです。そしてもちろん、そのすべての人々の中に、長老自身、また長老の一人である牧師自身が含まれています。わたしたちにとって重要なことは、教えや知識の面だけではなく、いわばそれ以上のこととして、生活と実践の面が重要なのです。

しかしまた、その生活と実践の土台は教会とその教えであるという点も、語りうることです。だからこそ、パウロは「三年間、夜も昼も涙を流して」教え続けたのです。そのことを“守る力”を与えられた長老たちに思い起こさせること、それがパウロの遺言として語られたこの演説の趣旨です。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」
 
教会とその教えは「神とその恵みの言葉」を土台にして立っています。神が存在しなければ、教会はむなしいものであり、宣教もむなしいものです。

しかし、神は存在する!生きておられ、働いておられる!

パウロは「神とその恵みの言葉」“に”エフェソの長老たち“を”ゆだねました。

それは、わたしたち自身にも受け継がれています。わたしたちは、神とその恵みの言葉の上に立っているのです!

(2008年4月13日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年4月11日金曜日

日曜日に救われる(3/3)

本題はここから。この落ちこぼれ高校生は、問うても答えを得られない欲求不満でいらいらムシャクシャしているうちに、「不良」と呼ばれる同級生や先輩たちのカッコイイ服装や頭髪を真似してみたくなり、頭髪の色を染めてみようかとか、へんてこな格好をしてみようかと考えました。しかし、そういうことが結局できませんでした。なぜか。「日曜日に教会に通っていたから」です。牧師の説教は終始ちんぷんかんぷんでした。苦痛以外の何ものでもありませんでした。この牧師が説教し続けるかぎりこの苦痛の日々が終わることはないのかと思うと、どうにかなってしまいそうなくらい憂鬱でした。それが生まれてから高校を卒業する18歳までの私の人生でした。しかし、なぜでしょうか、「教会」は私にとって神聖なる場所でした。染めた頭髪やへんてこな格好のままで「礼拝」に出席することが当時の私にはできませんでした。日曜日が「七日ごとに襲いかかってくる」という感覚を得たのはその頃です。「日曜日には普通の姿でいたい。週日に頭髪を染めてしまったら日曜日に教会に行けなくなる(ような気がする)。みっともなくて恥ずかしい。じゃあ、やめておこう」。こんなことを16歳か17歳の頃に考えていたよなあと、妙に懐かしく思い出します。ギムナジウム時代にはバルトやトゥルンアイゼン、カイパーやバーフィンクの神学書、カントやジンメルの哲学書を耽読していたと伝えられるファン・ルーラーとは大違い。アホな高校生でした。



日曜日に救われる(2/3)

調べるすべがない。でも知りたい!しかし「キリスト教とは何なのか」というこの問いに答えてくれる教師は高校にはいませんでした(求めること自体が間違っていたわけですが)。一家で通っていた教会でしたので単独で別の教会に通うわけに行かず(当時の感覚です)、教会でも学校でも書店でも納得できる答えを教えてもらえない問いの前で、高校の学業そっちのけで(!)ひとり悶絶する日々でした。いわばこれこそが思春期最大の悩みでした。そして、正直なところを言えば、「牧師になりたい。そのために神学校なるものに行きたい」と決心した最初の動機は、まさにこの「キリスト教とは何なのか」という問いの答えを得たいという一点でした。「キリスト教とはこれだ!」と確信を得た「ので」神学校に入学し、牧師になろうとしたわけではありません。その反対でした。大いなる謎と問いと悩みを引っさげて、何の知識もないまま、東京神学大学に駆け込んだ(より正確には「逃げ込んだ」)のです。高校を卒業するまで、神学書など一冊すら読んだことも買ったこともなく、持っていたのは聖書と讃美歌だけでした。その聖書さえほとんど読んだことがありませんでした。また、讃美歌に至っては「待降節」という字の読み方さえ知らない体たらく。東京神学大学の入学試験の結果を言い渡された教授会面接の一部始終を忘れることができません。山内眞先生(当時はたしか助教授。現在は学長)から(私にとってはもちろん初対面の)教授会全員の前で、「まあ他の試験の結果のことはともかくや・・・(しばし間)・・・。そんなことより、聖書(についての知識)の試験のこの結果は、なんじゃいこれ?全く書けてへんやないか!限りなく零点やど。キミどうするつもりや?」と。「は、はい!これから一生懸命勉強します!」とすっとんきょうに裏返る声で答えたところ、教授全員が大爆笑。赤っ恥をかきながらも、内心では「でもなー、この大学は聖書のことを詳しく教えてくれる学校だと思ったから受験する気になったんだけどなあ・・・。公立高校では聖書の『せ』の字もないわけだから、そこを出てこれから大学に入ろうっていう人間が、聖書のことなんか知ってるわけがねーだろうがよー?」と呟いていました。以上は私が「中規模地方都市の公立進学校の落ちこぼれ」だったことの単なる言い訳です。



日曜日に救われる(1/3)

牧師たちに限らずおそらくすべてのキリスト者が「日曜日に救われる」。「日曜日が定期的に襲いかかってくること」が我々の救いとなり助けとなる。このような日曜日の意義ないし機能に最初に気づいた(ような気がした)のは高校生の頃でした。そう言えばそうだったということを、今日ふと思い出しましたので書きとめておきたくなりました。出身高校は岡山市内の公立校の中では「進学校」と呼ばれる伝統校でした(Wikipediaの記事によると「藩校まで遡れば日本で最も古い歴史を有する高校」なのだそうです。在学中にそのような話を教師たちから自慢げに聞かされた記憶はありませんが)。しかしその中で私はいわゆる落ちこぼれでした。落ちこぼれた理由は隠すほどのことではありません。学校で教えられる内容に全く(本当に「全く」!)興味を持つことができなかっただけです。私の頭と心を完全に支配していた問いは、公立学校では決して教えてくれない「キリスト教とは何なのか」(What is the Christianity?)という一点に尽きるものでした。この問いに答えが与えられないことが原因だとはっきり自覚できるフラストレーションがどんどん溜まっていき、居ても立ってもいられないほどストレスを感じ、他の事柄(学校の勉強も含む)に関心を向けることができず、まさに大爆発しそうでした。理由は当時からはっきり知っていました。乳児期から両親に連れて行かれていた教会の牧師の説教が極度に支離滅裂に感じられて、理解も納得もできなかったからです。反論を企てなければならないと思いました。しかし、反論するためにはそれなりの論拠が必要です。ところが、何が正しいキリスト教であるかを調べたいと願っても、岡山市内にキリスト教書店があることを知らず、近所の小さな書店やデパートの本売場の宗教コーナーを探すのですが、そんなところで見つかるのはせいぜいカッパブックス(笑)の『ノストラダムスの大予言』とかそういうのばかりで、まともなものはありませんでした。



2008年4月10日木曜日

人体実験中

最近のことですが体と心から少し力が抜けることがあり、寂しさのような感情にとらわれています。ブログ投稿が週一ペースに落ち込んでしまっていることも無関係とは言えません。家族と教会のみんなが優しいことが助けです。牧師は(×「牧師も」○「牧師は」)人間ですから、当然のことながら一喜一憂の日々です。今週の説教で「キリスト教信仰には感情的な要素があふれています。わたしたちは涙を流してもよいのです。感情的要素を無理に抑え込み、理性的に冷静にふるまうことこそがキリスト教的な態度であるというような考えがあるとしたら、それは間違いなのです」と語ったばかりです。これはファン・ルーラーの受け売りではなく、私自身の(聖書と改革派教義学に基づく)確信です。私はたぶん多くの人の目から見て感情の起伏が少ないというか、平坦(へいたん)というか、冷淡(れいたん)なほうだと見られるような人間であると自覚しています。カモメのジョナサンのような低空飛行人間です。実際に「低血圧、低体温」でもあります。完全に落ちてしまわないが、ほとんど上がらない。「アゲアゲ」とかいう風潮とは正反対。低いところをずーっと水平に長時間どこまでも飛び続けているような感覚があります。幼い頃からスポーツがからっきしダメなのはそのような(平坦・冷淡な)心身の側に原因があるのか、それとも、スポーツをしたことがないからこのような心身になってしまったのかは、調べたことがないので分かりません。しかし、私のような人間が、とくに感情ないし精神の面でいったん不調に陥り(不調というほどの状態まで落ち込んだことはほとんどありませんが!)、感情の起伏が乱高下しはじめると、その後何が起こるかは予想がつかない面があります。上がりも・下がりも急激でないほうがよいと聞かされています。下がっているときは無理に急に上げようとしないで、気持ちが落ち着くのを待つといいのかなと自分の体で人体実験をしてみているところです。しかし、日常的な仕事と生活は上がっていようと・下がっていようと否応なしに襲いかかってきますので、それはそれで安心です。牧師たちは(「牧師たち」だけではないことは分かっているつもりですが!)落ち込んでしまったままで、寝込んでしまったままで、引きこもってしまったままで、7日間以上(水曜日も含めると「3日間以上」)過ごすことができません。陽はまた昇り、日曜日は七日ごとに襲いかかってくるのです。神御自身が牧師たちの尻を叩いてくださり、「こら牧師。引きこもっている場合か。もうすぐ日曜日だ。牧師たちよ、説教に行け!(Dominee, ga uit te preken!)」と叱咤激励してくださるのです。日曜日が「牧師たちを」救ってくれるのです。



2008年4月6日日曜日

試練に遭いながら


使徒言行録20・17~24

使徒言行録の今日の個所に紹介されていますのは、使徒パウロが行った演説です。これを「パウロの説教」と呼ぶことは難しいと思います。性格としてはきわめて個人的なものです。個人的な挨拶です。

事実、これはパウロから教会の人々に対する別れの挨拶でした。牧師たちは、ある教会から他の教会へと転任するとき、また自分の辞職や引退などの際に別れの挨拶をします。しかし、この演説は、ただ単なる転任や辞職や引退の挨拶ではありません。語られていることは、まさにお別れです。自分の死を予見し・自覚し・覚悟した、地上に生きるすべてのキリスト者に対する別れの挨拶。それがこの演説の趣旨です。

自分の死を覚悟している人の言葉は、とても重いものです。パウロも重い言葉を語っています。この演説は使徒言行録の中ではきわめて重要な意味を持つものであり、有名でもあり、多くの人々に愛されてきたものでもあります。そのため私はこれを、今日と来週の二回に分けて解説していくことにします。

「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。」

この別れの挨拶をパウロは、エフェソの教会の長老たちに向かって語りました。パウロがエフェソで体験した出来事の概略は、使徒言行録19章に記されています。内容を詳しく繰り返すことはやめておきます。一つだけ申し上げておきたいことは、エフェソにおいてパウロは大胆に御言葉を語ることができ、それによって多くの人々が信仰の道に入ったことです。エフェソの多くの人々は、パウロの語る言葉に対して聞く耳を持たない人々ではなく、聞く耳を持った人々だったのです。

「『アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。』」

エフェソのキリスト者たちは、パウロの言葉に対して聞く耳を持った人々であっただけではありませんでした。言葉だけではなくパウロの生きざまをよく知っていました。それを彼らは関心をもって見守って来ました。19節には三つの点がそれぞれ短い言葉で述べられています。

事実、伝道者たちに問われることは、彼らの語る言葉だけではありません。生きざまも必ず問われるのです。強いて言うならば、言葉と行いの一致、あるいは信仰と生活の一致という点が問われるのです。

この演説の最初に、パウロの伝道者としての生きざまがどのようなものであったかを、彼自身が語っています。

第一は「自分を取るに足りない者と思い」です。ただしこれは原典から説明される必要があるところです。「取るに足りない者」と訳されている言葉は、より原意に即して訳せば「温厚な者」とか「柔和な者」となります。しかし、わたしたちは通常、日本語で自分を指して「私は温厚な者です」とか「柔和な者です」とは言わないと思います。だから翻訳するのが難しいわけです。

ここで温厚ないし柔和という場合に問題になっていることは、神と人間との前での姿勢ないし態度です。それが温厚ないし柔和であるとは、ちょうど羊が飼い主に対して従順であるのと同じことです。つまり、重要な問題は神と人間に対する従順な態度です。そして従順であるとは、相手を自分よりも上に立つ者とみなし、かつ自分は相手の下に立つ者とみなすということです。

ですから、現在の訳を生かしながら言葉を補って訳すとしたら、「神と人間の前で自分を取るに足りない者と思い」です。そしてその意味は「神と人間の前で、自分を最も小さな者とみなし、相手に対して従順に生きるべき者と思い」ということです。

第二は「涙を流しながら」です。これは文字どおりの涙です。わたしたちの目から出てくるものです。涙とは、いずれにせよ感情的なものです。キリスト教信仰には、感情的な要素があふれています。わたしたちは涙を流してもよいのです。感情的要素を無理に抑え込み、理性的に冷静にふるまうことこそがキリスト教的な態度であるというような考えがあるとしたら、それは間違いなのです。

「パウロ先生はすぐ怒る」と、私はこれまで繰り返し語ってきました。パウロは感情の起伏が激しい人であったと思われてなりません。瞬間湯沸かし器のように腹をたて、感情をむき出しにして闘うようなところがありました。涙には、悔し涙もあれば嬉し涙もあります。心や体の痛みに耐えられなくて流す涙もあれば、この世の不条理や悪の暴力的支配に憤る涙もあります。救いの喜びをあらわす涙もあります。パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12・15)と教えています。パウロ自身がまさにそのような生きざまを示していたからに違いありません。

第三は「試練に遭いながらも主にお仕えしてきました」です。「試練」とはテストです。試されることです。何を試されるのでしょうか。パウロの場合はおもに、伝道者としての資格と自覚が試されたのだと思われます。果してわたしは本当に伝道者としてふさわしい者なのだろうかという点が試されたのだと思われます。

パウロは「試練」を「ユダヤ人の数々の陰謀」と結びつけています。激しいまでの抵抗勢力がパウロの行く手を執拗に阻んできたのです。こちらで築いた山をあちらで崩される。この正しい信仰をまさに命がけで宣べ伝え、それを受け入れた人々が信仰生活を始めることができた。ところがその信仰を奪い去り、信仰生活をやめさせようとする力が働いている。その中で実際に信仰を棄てる人々もあらわれる。

伝道とは、いたちごっこの一種です。その中で伝道者たちは、空しさや失望を必ず体験します。そして、もしかしたらわたしは伝道者にふさわしくないかもしれない、この仕事を今すぐ辞めなければならないのかもしれないという思いにさらされることがあるのです。

それこそがまさに「試練」です。試練の主語は「神」御自身です。そのテストは神御自身が企画され、計画されたものなのです。そして伝道者たちは、そのテストを受け、合格しなければなりません。また、狭い意味での伝道者だけではなく、すべての信仰者たちが、そのテストを受けなければならないのです。

「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。」

20節において語られていることは一つのことです。パウロは「役に立つこと」を多くの人々に教えてきました。この場合の「役に立つこと」の意味は、わたしたちの“救い”にとって、あるいは、わたしたちの“信仰生活”にとって役に立つことです。そしてそれは同時に、わたしたちの“人生”にとって役に立つことでもあります。救いと信仰は、人生そのものと切り離すことができないものだからです。

その内容をパウロは二つに分けています。第一は「神に対する悔い改め」、そして第二は「わたしたちの主イエス(・キリスト)に対する信仰です。悔い改めと信仰の二つです。この順序も重要であると思います。

悔い改めとは“罪の”悔い改めです。悔い改めとは、このわたしは神の御前で罪深い人間であると自覚し、告白しつつ、その罪を二度と犯すまいと決心し、約束することです。しかし、実際の人間は、何度悔い改めてもまた罪を犯してしまいます。「しなければならないことをせず、してはならないことをする」、これこそがわたしたちの姿です。

このことを認めることは、開き直ることではありません。悔い改めによって「わたしはイエス・キリストにおける神の救いが必要な人間である」と強く自覚しつつ、真の信仰に至ることが重要なのです。救い主イエス・キリストを信じるとき、わたしたちのすべての罪は赦されます。キリスト者の人生は、神によって罪赦されて生きる人生なのです。


このことをパウロは「一つ残らず」教えました。この点は先週お話ししました「パウロの説教は長々としたものであった」という点と関連づけて理解できることかもしれません。キリスト教は10分や20分ですべてを語りつくせるようなものではないということです。24時間語り続けても、すべてを語りつくせるわけではありえません。神学校で学んでも、そこで教えることができるほどの知識を得ても、知っていることはほんのわずかです。

キリスト教信仰を「一つ残らず」学びつくすには、まさに文字どおりの“一生”かかるのです。本を2、3冊読んで「キリスト教が分かりました」と言える人はいないのです。

そしてパウロはこれを「公衆の面前でも方々の家でも」、また「ユダヤ人にもギリシア人にも」教えました。「公衆の面前でも」という点は誤解を生みやすい表現かもしれません。パウロが述べている意味は“街頭”ないし“路傍”で説教することではありません。当時でいえばユダヤ教の“会堂”で説教することが「公衆の面前で」教えることを意味していました。

この点は、今日のわたしたちにも本来当てはまることであり、また当てはめるべきことです。わたしたちの教会の“会堂”は、特定の人々が占有してもよいプライベートな空間ではありません。「ユダヤ人」であろうと「ギリシア人」であろうと、だれでも気兼ねなく立ち入ることができる、まさにすべての人が神の言葉を聞くことができる、その意味での公の(パブリックな)空間であり、かつそうあるべきなのです。

そして、それに対して、むしろできるだけプライベートな空間であるべき場所は「方々の家」のほうです。公(パブリック)にも私(プライベート)にも、すなわち、会堂でも各家庭でも、パウロは神の御言葉を大胆に宣べ伝えたのです。

「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。』」

パウロは、これからエルサレムに行きます。エルサレムはパウロがかつて熱心なユダヤ教徒として勉学に励んだ町であり、熱心なキリスト教迫害者として力をふるった町でした。しかしまた、イエス・キリストへの信仰を与えられてからはすべてが逆転し、ユダヤ教を棄てたパウロを執拗に追いかける迫害者たちの本拠地となった町です。

そこへとパウロは向かいます。「霊」すなわち聖霊なる神御自身が促すままに。神の御心を行うために。伝道者としての使命を全うするために。そしてそのために惜しみなく自分の命をささげるために。パウロの決意と覚悟は、重くて固いものです。

(2008年4月6日、松戸小金原教会主日礼拝)

2008年4月3日木曜日

出版物の「訂正表」はネットで公開しましょう

昨年9月よりオランダで刊行が開始されたファン・ルーラーの新しい著作集(Verzameld Werk)の第二巻(Deel 2)が今月中に出版される運びになりました。第二巻のタイトルは「啓示と聖書」(Openbaring en Heilige Schrift)です。予約注文は以下URLのサイト(↓)から可能です。



http://www.aavanruler.nl/index.php?cId=240



なお、このページ(↑)の「Corrigenda deel 1」の下の「Download」をクリックすると、著作集(Verzameld Werk)第一巻の「訂正表」(PDF文書)が出てきます。たとえ小さなパンフレットのようなものであっても、その編集や出版の責任を少しでも負ったことがある人には、それを出版し終わった後に、ありとあらゆる方面の識者たちから「ここが間違っている」だ「あそこが間違っている」だと突かれ・叩かれ、それらの意見を聴取・収集し、「訂正表」を作成して配布するときのイヤ~な気持ちが分かるものです。編者ディルク・ファン・ケーレンさん(Dr. Dirk van Keulen)も、きっと痛い思いをなさったことでしょう(先ほど励ましのメールを送っておきました。ファン・ケーレンさんはただの「メル友」ですが、たった一歳しか違わないんです。私のほうが年下ですが)。ところが、そのような“恥ずかしいもの”を堂々とネットで全世界に公開するとは、いやはや恐れ入りました。このやり方は我々もぜひ倣わなければ、と思いました。



2008年4月2日水曜日

「翻訳は簡単な仕事じゃないんだ」

一年くらい前に見つけた山岡洋一氏のインタビュー記事(以下URL)です。百パーセント納得しながら読むことができました。



http://www.kato.gr.jp/yamaoka.htm



私が山岡氏の存在を知ったのは、近くの古本市場でたまたま見かけ、タイトルに惹かれて購入した『翻訳とは何か 職業としての翻訳』(日外アソシエーツ、2001年)を読んだときです。衝撃と感動を覚え、一晩で読み切りました。「衝撃と感動」の中身は何か。相当口幅ったい言い方ですが、それまで10年近く(「たったの10年」ないし「わずか10年」というべきですが)ファン・ルーラーのオランダ語原典と格闘してきた者として、いろいろと抱き、それをめぐって悩んできた“疑問”や“謎”の正体が、山岡氏の著書によって暴き出され(こちらが「衝撃」)、その“疑問”や“謎”と対決し、克服し、そして“勝利”するための道を示された思いがした(こちらが「感動」)のです。



山岡洋一氏の『翻訳通信』(ネット版) ※私も毎月読んでいます。



http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/



2008年3月30日日曜日

教会の奉仕について(総論)

少し前のことになりましたが、3月16日(日)に松戸小金原教会で毎年恒例の「教会勉強会」の第一回目を行いました。発題は関口康、タイトルは「教会の奉仕について(総論)」でした。



レジュメ(修正版) http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/2008-03-16_Ecclesiologie.pdf



「教会の奉仕について(総論)」目次



 1、「教会の奉仕」とは何のことか



 2、教会の目的は「教会の外」にある



 3、「教会の外」は悪魔の巣窟ではない



 4、「キリスト者の社会奉仕の主体ないし母体としての教会の確立」という課題



 5、具体的な奉仕の基準としての「律法」



※2007年度発題 「主の日と週日」



レジュメ(修正版) http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/2007-03-18_Ecclesiologie.pdf





礼拝と説教の楽しみ


使徒言行録20・1~16

今日は三つの段落を続けて読みました。使徒パウロの第三回伝道旅行の様子の続きです。しかし、何と言えばよいのでしょうか、この個所に取り立てて注目すべき内容を探すのは少し難しい気がしなくもありません。

主に記されていることは、パウロが実際にたどった道順です。また、パウロと共に旅をした人々の名前です。わたしたちの多くにとっては知る由もない外国の地名や人名が並べられるばかりの、実に坦々とした旅行記が残されているだけであるという印象を否むことができません。

しかし、私自身はこの個所をけっこう興味深く読むことができました。ただし、全部ではありません。二個所ほどです。その一つは2節に書かれていることです。マケドニア州でパウロが「言葉を尽くして人々を励ました」と記されている点です。

「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。」

パウロが「言葉を尽くして人々を励ました」と書いていることの、どの点が面白いのでしょうか。原文を見る必要があります。「言葉を尽くして」の原文を直訳すれば「たくさんの言葉(ロゴー・ポロー)を用いて」です。

当然のことですが、「たくさんの言葉」を用いて語るには、それだけの時間が必要です。しかもこの文脈で「言葉」(ロゴス)と呼ばれているのは、ただ単なるおしゃべりや立ち話のことではなく、明らかに説教のことです。それは信仰者たちを励ますことを目的とした説教のことです。説教とは、今ここで私が行っているこれです。聖書に記されていることを解釈し、説明すること。それによって集まっている方々を励ますことです。

これで分かること、それは、パウロが実際に行った説教の様子、ないしスタイルです。それは、ここに書かれていることを見るかぎり「言葉を尽くして」語られたものであり、すなわち、「たくさんの言葉を用いて」語られたものであって、言い方を換えれば、明らかに非常に長い時間をかけて語られたものであり、要するに“長々とした説教”であったということです。

今申し上げました点と関連づけて読むとよく分かるのが、私が面白いと感じたもう一つの点です。それは今日お読みしました二つめの段落に書かれていることです。その内容は実に衝撃的なものです。パウロの長々とした説教がついに“犠牲者”を生んでしまったのです!

「週の初めの日、わたしたちがパンを割くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。『騒ぐな。まだ生きている。』そして、また上に行って、パンを割いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」

「週の初めの日」に「パンを割くために」行われた集会は、今わたしたちが行っている日曜日の朝の礼拝と本質的に同じであると考えてよいものです。礼拝という字そのものは用いられていません。しかし、そのときの集会の目的として言及されている「パンを割く」という行為は、主イエス・キリストがお定めになった“聖餐”を指していると考えるべきでしょう。そして、その集会でパウロが行った「話」(ロゴス)とは、これもまた、礼拝の中で行われる“説教”のことを指していると考えるべきでしょう。わたしたちの信仰理解においては、説教と聖餐というこの二つの要素こそが“礼拝”を成り立たせるものです。

ところが、です。パウロの「話」、すなわち説教は「夜中まで続いた」と言われています。 そしてその話はなんと「夜明けまで」続いたというのです。つまり、考えてよさそうなことは、この日の“礼拝”は、ほとんど丸一日(24時間!)続けられたものであったということです。朝から始まった集会が次の日の明け方まで(!)続けられたというのですから。しかも驚くべきことは、ここに書かれていることを読むかぎり、その間パウロは、一睡もせずに、ずっとしゃべり続けていた(!?)ということです。

ここで第一の点と結びつくわけです。パウロは「言葉を尽くして」、すなわち「たくさんの言葉を用いて」語りました。というと、まだ聞こえが良いものがあるわけですが、実際には“非常に長々とした説教”を行っていたことが、分かってくるわけです。

そして、その歴史的な事実が記録として残されているのが今日読んだ個所の7節以下の記事であると理解することができるわけです。パウロという人は時として“24時間営業”ならぬ“24時間説教”(!?)を行うこともあったということです。しかし、驚くべきことは、それだけではなく、まだあります。

パウロの説教の最中に起こった“事件”とは、エウティコという一人の青年が、礼拝が行われていた三階の部屋の窓に腰かけていたところ、「ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」というものでした。

はっきり言っておきますが、居眠りしたエウティコには罪はありません。罪があるとしたら、24時間も説教し続けたパウロのほうです。私にも他の牧師たちの説教を聴く機会がたくさんありますが、内容によっては30分、いえ、20分の説教でも居眠りすることがあります。24時間も語り続ける説教者がいるなら、部屋の扉を蹴飛ばして出て行ってもよいと私は思います。

そんな私ですから、居眠りしたエウティコには、深く心から同情いたします。そして、エウティコが三階の窓から落ちて死んでしまったという事件の“犯人”はパウロであると言いたくなります。

説教者は、どう考えても、24時間も語り続けてはなりません。それは、その説教を聴く人々への配慮が足りないと言われても仕方がない行為です。あるいは、それを聴く人々は生身の人間であるということを忘れているかのような行為です。手厳しく言えば、「自分のことしか考えていない」と言われても仕方がない、そして「説教者として失格である」と言われても仕方がない説教です。

ところが、です。先ほど「驚くべきことはまだある」と申しました。それは何でしょうか。この個所を読みながら私が驚くことは、エウティコ以外の全員について、すなわち、ほとんど24時間語り続けているパウロについても、またそのパウロの説教を聴いている人々についても、「居眠りした」とも「一時的に仮眠をとった」とも書かれていない点です。要するに、そこにいたほぼ全員が、24時間一睡もせずに(!?)礼拝を行い続け、パウロの説教を聴き続けたように描かれているのです。

私はどこに驚くのでしょうか。ほとんど丸一日、延々と語り続ける説教者パウロも相当なツワモノです。しかし、それを一睡もせずに聴き続ける人々のほうも、十分な意味での敬意に価するということです。

また、パウロのほうも、汲めど尽きせぬ話題というか、内容というか、知識というか、何とかして伝えたい「言葉」(ロゴス)を持っていたからこそ、そのような“24時間説教”ないし“24時間礼拝”(!?)を行うことができたのです。おそらくその説教は、眠らずにでも聴き続けていたいような、魅力的で面白い話だったのです。語るパウロも、聴く人々も、その礼拝とその説教を心から楽しんでいたに違いありません。パウロの“説教力”の凄まじさを感じます。

しかし今日の個所には、ある見方をすれば、ゾッとするようなことも書かれています。エウティコが三階の窓から落ちて死んでしまったとき、パウロは説教を一時的に中断し、階下に降りてエウティコを抱きかかえました。ところがパウロは、この青年の様子を見て「騒ぐな。まだ生きている」と言っただけで、すぐにまた元の部屋に戻り、自分の説教と礼拝を続行したというのです。

松戸小金原教会でも、先日(2008年2月17日)は、礼拝の途中に説教者自身が倒れてしまいましたので(私のことです)、それ以降は通常の礼拝を続行することができなくしてしまいましたことの責任を痛感し、まことに申し訳なく思っています。しかし、その後すぐに祈祷会の形式に切り替えてくださったことに心から感謝しています。礼拝が途中で中止されるということは、教会にとっては大きな出来事であると思います。

これから申し上げますことは、私自身、非常に難しい問題であると感じていることです。それは、もし礼拝中に何か大きな出来事が起こり、その礼拝を中断せざるをえなくなったとき、それ以降の時間をどのように用いるべきだろうかという問題です。特に問題になることは、わたしたちがその礼拝自体を途中でやめてしまうことができるのかという点です。この問題は、説教者自身や教会役員たちだけではなく、その礼拝に出席しているすべての人が悩むに違いないことです。

たとえば、礼拝中に大きな地震や災害が起こる。隣の家が倒れる。会堂まで倒壊する。火事が起こる。教会員や牧師の家族が亡くなる。わたしたちに襲いかかる不慮の事故は、他にもたくさんあるでしょう。あるいは戦争。

エウティコはその礼拝の出席者でした。その人が礼拝の最中に突然、死んでしまった。それは、たいへん大きな出来事です。ところが、そのような非常に大きな事件であったにもかかわらず、そのことをパウロは“その時点以降の礼拝を中止してもよい”とする理由にはせずに、説教と礼拝を続行したのです。もちろん、エウティコが息を吹き返すことを確信しつつ。しかし、生死の境目にいる人を“横に置きながら”、その礼拝は最後まで続けられたのです。

この問題はあまりにも大きすぎて短い時間では語りつくすことができそうもありません。しかし、このパウロの判断の中にはわたしたちに対する重要な問いかけがあると感じます。

礼拝の最中に不幸な出来事が起こった。あるいはもう少し範囲を広げて、わたしたちの信仰生活の途中に不幸な出来事が起こった。そのときに、です。

「もう礼拝どころではない。我々は今、こんなことをしている場合ではない」と考えるべきでしょうか。

それとも「だからこそ神を礼拝しようではないか!だからこそ神の御言葉を聴こうではないか!」と考えるべきでしょうか。

ここに、大きな分かれ道があると思われるのです。

(2008年3月30日、松戸小金原教会主日礼拝)