2008年2月17日日曜日

主の道を受け入れる


使徒言行録18・12~28

今日読みました個所(使徒言行録18・12~28)の22節のところで、使徒パウロの第二回伝道旅行が終了いたします。そしてパウロはすぐに第三回目の伝道旅行に出かけています。この時期のパウロの身に起こったいくつかの出来事を、今日は見ていきます。
 
「ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。『ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。』そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。」

最初の段落に紹介されているのは、パウロがまだコリントに滞在している間に起こった出来事です。ガリオンという名の「アカイア州の地方総督」はローマ人でした。つまり、ガリオンはユダヤ人にとっての異邦人であり、かつユダヤ教にとっての異教徒であったということです。このガリオンのもとに、ユダヤ人たちが、パウロを捕まえて連れて行ったのです。そして彼らは、パウロを裁判にかけてほしいとガリオンに申し立てます。ところが、ガリオンはユダヤ人たちの言い分を聞き入れませんでした。異邦人ガリオンにとってユダヤ人たちの言っていることは、ユダヤ教という一宗教内部の論争であると感じられたからです。要するにガリオンは、ユダヤ教とキリスト教の違いだの、そういう種類の話には全く興味がないし、そのような問題に関わる立場にはないと言っているのです。

ガリオンがユダヤ人たちに向かって語っている言葉の中で注目すべき点は、彼の言葉の冒頭部分です。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理する」。しかし、パウロがしていることはそのようなものには見えない。そのようにガリオンは言っているのです。

パウロは、コリントに「一年六か月」滞在して、神の言葉を教えました(18・11)。そのパウロの伝道がコリントの人々に少なからざる影響を及ぼし始めていたことをガリオンも知っていたに違いありません。つまり、コリントの人々は、パウロたちのしていることは不正な行為でも悪質な犯罪でもないということを分かっていました。しかし、ガリオンがユダヤ人たちの前で示した判断を直接的な意味でパウロの伝道の成果であると見ることができるかどうかは微妙です。もしかしたらガリオンはいいかげんな人であり、宗教のような面倒な事柄には一切関わりたくないと逃げたのだと見るほうがよいのかもしれません。

しかし、たとえそうであっても構わないと私は考えます。重要なことは、ガリオンの目から見て、またコリントの人々の目から見ても、キリスト教信仰は「不正な行為とか悪質な犯罪」のようなものには見えないと判断してもらえたことです。キリスト教会は、市民生活を脅かす存在ではないと、一般社会の人々に良い意味で信頼してもらえたことです。それどころか、むしろ、ユダヤ人たちがしていることのほうが、よほど不正な行為であり悪質な犯罪であると見えたのではないでしょうか。一般的な常識を持っている人の目から見れば、それくらいのことは当然分かるのです。人前で暴力を働く人々が同情を得ることができるケースは、ほとんどないと言ってよいのではないでしょうか。

たとえば、17節には、「群衆が会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた」とあります。会堂長、つまりシナゴーグのリーダーはもちろんユダヤ人です。なぜユダヤ人であるソステネが他のユダヤ人たちから殴りつけられなければならなかったのでしょうか。全く理解に苦しみます。理由の一つは、おそらくソステネがパウロの伝道を助けたからだろうと思われますし、もう一つの理由として考えられるのは、無関心を決め込むガリオンにユダヤ人たちが腹を立て、何とか関心を引こうと暴力事件でも起こしてやれという動機が働いたのではないかということです。いずれにせよ、ソステネにとって、またコリントの町の人々にとって、きわめて不愉快な出来事であったであろうことは間違いありません。

小さな疑問点があります。ユダヤ人群衆の暴行を受けた会堂長が「ソステネ」であると紹介されていることと、18・8に紹介されているコリントの会堂長が「クリスポ」と紹介されていたこととの関係です。解決策は、コリントには複数の会堂があり、一つの会堂のリーダーがソステネであり、他の会堂のリーダーがクリスポであったと考えることができます。また、一つの会堂に複数のリーダーがいて、ソステネもクリスポも同じ一つの会堂に仕えていた人々であったと考えることもできます。どちらが正しいかは分かりません。

「パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶するためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガリラヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。」

二番目の段落に紹介されているのは、パウロが一年六カ月滞在したコリントの町に別れを告げ、他のいくつかの町を経由して、使徒ペトロたちがいるエルサレム教会、そして、パウロの伝道旅行の出発点であるアンティオキア教会に戻った場面です。アンティオキアに戻った時点で第二回伝道旅行が終了したということになるわけです。

この段落にもいくつかの注目すべき内容があります。しかし、その中で最も重要と思われる点についてだけお話ししたいと思います。それは、次の三番目の段落にも登場します「プリスキラとアキラ」の夫婦がパウロの旅行に同行したという点です。

この夫婦は先週お話ししたとおり、テサロニケやベレアの町で起こったユダヤ人たちの暴動から逃れて一人でアテネにたどり着いたパウロ、あるいはまた、アテネ伝道においてあまり思わしい成果を見ることができず意気消沈したままコリントにたどり着いたパウロを自分たちの家にかくまった家庭です。パウロからすれば、まさに命からがらの逃亡生活の中で居候(いそうろう)させていただいた家庭である、ということになるでしょう。

私が大切であると考える点は、この夫婦がパウロの伝道旅行に同行することによって、パウロをまさに命がけで助ける存在になったということです。

現代の牧師たちが時々、いやしばしば陥る罠は、「私は伝道のために命をささげているのだ。命がけで伝道しているのだ」と、まるで自分一人だけがこのために命をささげている人間であるかのように感じたり、考えたり、言い張ったりすることがあるという点です。しかし、それは本当に間違った認識であり、罠です。牧師は一人で伝道しているわけではありません!自分一人が命がけで戦っているわけではありません!そのように思い込んでいる牧師たちがいるならば、顔をあげて自分の周りを見るべきです。そこにはあなた以上に命がけで戦っている教会員がいるということに気づくべきです。伝道は教会のみんなで行うべきことです。キリスト者全員が伝道者なのです。

パウロがコリントで得た最も大きな収穫の一つは、プリスキラとアキラというこの夫婦との出会いを通して、そのこと(命がけで戦っているのは自分だけではないということ!)に気づくことができた点ではなかったかと思われるのです。

なお、この夫婦は、アキラが夫であり、プリスキラが妻です(18・2)。しかし興味深いことは、使徒言行録の中でも(18・18、18・26)、ローマの信徒への手紙の中でも(16・3)でも一貫して「プリスキラ(プリスカ)とアキラ」、つまり、妻が先、夫が後という順序で紹介されている点です。

以前私は、第一回伝道旅行の際にパウロとバルナバの名前の順序が逆転していく意味をお話ししたことがあります。名前の呼ばれる順序には意味があると申しました。プリスキラとアキラというこの名前の順序にも意味があると考えることができるのです。この順序には、16世紀の宗教改革者カルヴァンがすでに注目しています。妻プリスキラ(プリスカ)は偉大で活発な女性であったが、夫アキラは少しおとなしい感じの人だったのではないかというようなことを、カルヴァンが書いています。

パウロは、この夫婦について、ローマの信徒への手紙の中に、次のように書いています。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっているプリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」(ローマの信徒への手紙16・3~4)。

「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」

第三番目の段落においても、プリスキラとアキラの働きについてのみ触れておくことにします。ここに紹介されている出来事は、パウロの第三回伝道旅行がすでに始まっている時期に起こったものです。アポロという伝道者が登場します。この人が、エフェソの町で伝道を始めました。ところが、アポロの説教の内容は信仰理解の点において必ずしも正確なものではなかったのです。正確でない教えを語る説教者を放置しておきますと、やがて必ず非常に大きな影響が生じます。困ったことです。

そのような事態に接して大きな働きをなしたのがプリスキラとアキラであったというのです。彼らが信じていたキリスト教はパウロから教えられたものであると言って間違いありません。つまり、この夫婦がアポロに「もっと正確に神の道を説明した」とは、アポロの間違いをパウロから教えられたことをもって訂正したのだということを意味しているのです。

伝道者はそのような場面でこそ喜びを感じます。パウロとしては、自分が伝えた教えが自分のいないところで「正しい神の道」として語り継がれているということになります。伝道の目的は、自分自身を宣伝することではなく、正しい教えが宣べ伝えられることです。そしてその教えに忠実に従って生きる人々、すなわち「主の道を受け入れる」人々を生み出すことです。この点においてパウロの伝道は間違いなく成果を生み出したのです。伝道者の真価は、その本人が去った後に測られるものなのです。

パウロの伝道には非常に大きな苦労がありました。見るからに華々しい成果があったとは言えないかもしれません。しかし、まさに少しずつ少しずつその影響が表れて行ったのです。ガリオンの判断、そしてまたプリスキラとアキラという強い味方の登場。これらの出来事は、決して過小評価されるべきではありません。

(2008年2月17日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年2月16日土曜日

私とオランダ語(付記)

ここから先は、ただの悪口です。カール・バルトは、九千頁もの(退屈な)大著『教会教義学』を書きました。その分量たるや、あの『ブリタニカ大百科事典』にも匹敵するほどです。そしてバルトは「私の著書を読まないで私の神学を批判する者たち」を批判しました。この神学者の言い分は、ごもっともなものです。しかし、その言い分を聞き入れた神学徒たちの多くが「彼の著書を読み切れないゆえに」彼の神学を批判できなくなりました。著書の分量の多さが、彼自身を守る盾になりました。そして、「この中にすべての答えがある」と信じてバルトの著書を“所有”していることだけで安心し、満足してしまっている神学徒のいかに多いことか!かたや、ファン・ルーラーは、いかにも言葉足らずの、隔靴掻痒の感が深い、実に謎めいた(しかし極めて刺激的な!)神学を提示しました。しかし、この“謎”こそが少なくともこの私を猛烈な勉学に駆り立てる力になりました。善い教師とは「答えを与える人」ではなく「問いを不断に投げかける人」ではないでしょうか。



私とオランダ語(5/5)

しかし、です。「ハズレくじ」という言葉を二回も繰り返して書きました。それは「ファン・ルーラー研究」というコンテキストの中でのハズレくじという意味です。つまり、ファン・ルーラーへの直接的な言及や関係があるのではと期待して購入してみたら、言及がなかったり全く無関係だったりしたという意味です。けれども、明記しておくべきことは、それらもまた学術的に優れた書物ばかりであるということです。別のコンテキストにおいては宝物のような書物ばかりです!それが私にとって大きな収穫となりました。私の眼前の思想世界がどんどんどんどん(広範かつ加速度的に)広がっていきました。それがむしろ「ハズレくじ」であればあるほど、私にとって全く未知であった領域、あるいはそれまで一度も考えたことがなかったような新しい問題が見えてきました。別の言い方をするなら、私にとって、日本基督教団でも日本キリスト改革派教会でも、東京神学大学でも神戸改革派神学校でも、いまだかつて見たことも聞いたこともなかったような全く新しい事柄に出会うことができました。手前味噌で負け惜しみ的な言い方かもしれませんが、私にとってそれは、オランダ現地に居なかったからこそ得ることができた収穫であったという気がしてならないのです。これまで私は「この本を読め、あの本を買え」というたぐいの指示を、(牧田先生を含めて)どなたからも受けたことはありません。すべてを自分で選び、しょっちゅう「ハズレくじ」を引きながらも、しかしまた、すべてを自分のものとしてきました。これが結果的に良いことであったと感じています。自負をこめて申し上げるなら、「自立して神学すること」(zelfstandige theologisering)とはこういうことではないかと思うのです。我が家の二人の子供たち(中一男、小四女)に常に言い聞かせていることは「分からないことがあったら辞書を引け」です。「幸か不幸か、我々人間はインプットしたことしかアウトプットできないのである。漢字にせよ、外国語にせよ、数式にせよ、自分独りで勉強したことしか覚えていないし、使えない。ピアノにせよ、トランペットにせよ、練習したことしか演奏できない。年齢を重ねれば(勉強せずとも)自動的に漢字が書けるようになるわけではないし、時間が経てば(練習せずとも)自動的にピアノを弾けるようになるわけではない。外国に行けば(レッスンを受けずとも)自動的に外国語を使えるようになるわけではないのだ。すべては血の滲むような努力の結果である。分からないことがあったら辞書を引け。辞書を引いた回数だけ、確信をもって言葉を語れるようになるはずだ」。こんなエラそうなことを我が子らに語れるようになったのも、11年間(いまだに!)“パッチワーク”を続けてきた自負(?)ゆえです。



私とオランダ語(4/5)

今日は「東関東中会女性の会総会」(会場 日本キリスト改革派勝田台教会)に行ってきました。もめるような議題は一つもなく、あっと言う間に終了しました。とても幸いで平和な会議でした。ところで。「私とオランダ語」にもう少し付け加えておきます。私の夢(というか妄想)は実現しませんでしたが、どなたかの参考になるかもしれません。ファン・ルーラーを読んでいるうちに、当然のことながら、彼の周りに多くの同時代人たちがいたことが分かりはじめました。そして、ファン・ルーラーもまた、その人々との対話や議論の中で自分自身の神学を形成していった人であることが少しずつながら見えてきました。またそれと同時に気づかされたことは、ファン・ルーラーという人の性格も関係しているのではないかと思われるのですが、自分が対話ないし議論している相手の実名を明示している個所は極めて少ないということです。この点で私はかなり苦労しました。明らかに、だれかの文章や思想を引き合いに出して批判しているように感じられる。しかし、だれのことを言っているのかが全く分からない。それがだれであり、どの書物ないしどの論文からの引用であるかを知るためには、「たぶんあの著者、あの書物、あの論文ではないか」と想像を巡らし、狙いを定めて購入してみるしかありません。具体的に言えば、インターネットの検索エンジンを利用して「たぶんこの著者、この書物、この論文ではないか」と思うものを手当たり次第にピックアップして購入してみるということです。しかし、このやり方だと「ハズレくじ」を引くことも少なくありません。現地に留学している人ならば、実際の古書店に通い、現物を手にし、ページをめくってみて、内容を確認した上で購入できます。あるいは、留学先の図書館で探して借りることができる。そういうことが、現地に居ない者には不可能なのです。そのため、ファン・ルーラーがだれかから引用しているらしきたった一行の文章の出典を調べることだけのためにも、何万円というお金をつぎこまざるをえませんでした。実際私は、それだけあれば単身ならば二、三年でも留学できるのではないかと思うほどの大金を、(ハズレくじを含む)古書の購入のために費やしてきました。これが、ファン・ルーラーを研究しはじめて約11年の間に、最も苦労してきた点です。



2008年2月15日金曜日

私とオランダ語(3/5)

しかし、そこでも威力を発揮しはじめたのはインターネットでした。いろいろ調べていくうちに、インターネット経由でオランダ語のラジオ放送を聞くことができることが分かりました。もちろん最初は全くちんぷんかんぷんでした。それでも何度も繰り返し聞いているうちに、ほんの少しくらいは聴き取れるようになりました。ところが、欲は深まるばかりでした。さらに感じはじめた限界は、「現地に行ったことのない人間に語りうる言葉は、『だそうです』以上ではありえない」ということでした。「オランダの教会では・・・だそうです」、「ファン・ルーラーの神学は・・・だそうです」。これでは何の説得力もありません。「です」と言い切れるようになりたい。そのためにはやはり現地に行かなければならない。そのような思いが募りはじめました。しかし、です。私に“留学”は無理だと悟るのに、それほど時間はかかりませんでした。お金と条件が整いません(私の頭の中身の問題は、この際、横に置いておきます)。二人の子供たちも大きくなってきました。自分の留学などに注ぎうるお金があるなら、それを子供たちの教育費に注ぐべきです。また何より日本キリスト改革派教会に加入させていただいて間もない人間が力を注ぐべきは、この教派の人々からの信頼を獲得することです。そのために、「この男は牧師の仕事をきちんとできる人間である」と認めていただくことです。中会(プレスビテリ)や大会(ジェネラル・アセンブリ)の仕事にも誠実に取り組まなくては、だれも信用してくれません。移籍して早々に海外などをウロチョロしている場合ではありません。それで現在42歳です。おそらくスタートが遅すぎたのです。今願っていることは(かなりおこがましい言い方ですが)私の代わりにオランダに留学してファン・ルーラーを研究してくださる方が起こされることです。その方を、心から応援させていただきます。私にできることなら何でもいたします。無謀にも“留学”の二文字を思い詰めていた時期のことは、「いい夢を見せていただきました」と感謝するばかりです。妄想も、ほどほどにしなければなりません。



私とオランダ語(2/5)

そのようにして始まった組織神学セミナーで、牧田先生はオランダ語テキストを、そして私や宮平先生、また他数名の神学生は英語版テキストを読みはじめました。まもなく講談社の『オランダ語辞典』を購入しました。そして私もオランダ語テキストを読んでみたくなり、牧田先生所有のファン・ルーラー『神学論文集』(Theologisch werk)の全六巻をコピーさせていただきました。当時の神戸改革派神学校図書館には、ファン・ルーラーの『神学論文集』が一冊もなかったのです。ファン・ルーラーを読みたい。ただそれだけの動機で、私はオランダ語を学びはじめました。最初はひたすら“パッチワーク”でした。in (英語のin)とかtussen (between)などをはじめすべての単語に『オランダ語辞典』に記されている訳語を当てていき、意味不明な日本語の文章をとにかくでっち上げ(まさに「でっち上げ」)、それをじっと睨んで意味を考えるという作業を、連日連夜、続けました。神学校卒業後も、しばらくの間はその状態でした。それでも、五年くらい経つと、少しは理解可能な日本語の文章に仕上げることができるようになりました。しかし、決定的に足りないと痛感しはじめた問題は、「私はオランダ語の音声を聞いたことがない」ということでした。どのように発音するのかも分からないオランダ語の各単語にただ辞書的な意味を当てはめていくだけの作業に、限界を感じました。“留学”の二文字を意識しはじめたのは、そのころです。



私とオランダ語(1/5)

先週、埼玉県在住の後輩牧師から電話をいただきました。「関口さんはどうやってオランダ語を勉強されたのでしょうか」。私は次のように答えました。「神戸改革派神学校在学中に牧田吉和先生から少し手ほどきを受けましたが、あとは独学です」。「へえ」と驚かれました。牧田先生のもとでオランダ語を学びはじめたのは1997年4月、神戸改革派神学校の二年次に編入学させていただくことになったときからです。卒業までのわずか一年三ヶ月の間に取り組むべき研究テーマを何にするかを、牧田先生と相談しました。「ファン・ルーラーに関心があるのですが」と言いましたところ、「でも、オランダ語だよ?」とのお返事をいただき、言葉に詰まりました。「じゃあ、英語版のあるヘルマン・バーフィンクにします」と小さな声で言いました。その日からバーフィンクの『改革派教義学』の予定論の部分を、英語版から翻訳しはじめました。それなりに興味深い内容があることが分かりました。が、物足りません。バーフィンクの予定論を支配しているのは、哲学的因果律でした。これではカール・バルトの「キリスト論的予定論」の問題性を克服できそうもないと分かりました。やはりファン・ルーラーに取り組む必要がある。そう確信し、再度牧田先生に「ファン・ルーラーを教えてください」と申し入れました。了解してくださいました。すると、予期せぬことが起こりました。関西学院大学などで経済学の講師をしておられた宮平光庸先生(のちに神戸改革派神学校に入学され、現在は信徒伝道者)がファン・ルーラーの英語版論文集(ジョン・ボルト訳)のコピーを抱えて牧田先生の研究室にやってこられ、「ぜひ、これの読書会を開いてください」と願い入れられました。「じゃあ、関口くんも一緒に」という話になり、神学校の正規の「組織神学セミナー」としてファン・ルーラーを取り上げていただけることになったのです。



2008年2月14日木曜日

私が説教をインターネットで公開している理由 続き

2月8日(金)の「私が説教をインターネットで公開している理由(1/2)」の中に書きました、第一の動機は「日曜日『にも』こういう仕事をしています」と知ってほしい人々に私の現実を伝えることでした、という点に補足しておきます。第一の動機は「ファン・ルーラー研究会を続けたかったから」でした。私自ら呼びかけ人となって結成した「ファン・ルーラー研究会」と称するメーリングリストに、連日連夜、大量のメールを送っていた頃、「あの関口という日本基督教団から移って来たばかりの男は、ファン・ルーラー、ファン・ルーラーと一事にのめり込んでいるようだが、教会の牧師としての仕事はちゃんとやっているのだろうか。あいつの説教は、牧会は、どうなっているんだ?」と心配(あるいは憤怒?)してくださる方々がおられました。私がファン・ルーラーの文章を読むこと、すなわち、この神学者の文章をオランダ語から日本語に翻訳することはマニア的趣味でも教養の涵養でもなく、まして新奇な知識のひけらかしなどではありえず、ここを通らなければ牧師の仕事を続けることはできないと感じられるほどの重要な事柄でした。そうでもなければ、私はオランダ語など何も無理して読みたいわけではないのです。私はオランダマニアになりたいわけではありません。日本で牧師をしたいだけです。神の言葉の説教によって日本のキリスト者を励ましつつ、日本に福音を告げ知らせたいだけです。ファン・ルーラー研究会にメンバーとして参加してくださっている方々も、この思いにおいては同じです。私自身は誰からどのように思われても構わないような人間なのですが、ファン・ルーラー研究会の存在やファン・ルーラーの神学思想そのものが、「ファン・ルーラー研究会代表」を名乗っている人間のせいで悪く思われることには、とても我慢ができません。また、私は神学校や神学大学といったものから地理的に遠い地域で働いてきましたので、そのような場所で教えたり関わったりしたことはありませんが、「神学研究と説教や牧会との両者は密接不可分の関係にある」と先輩たちから教えられてきたことは真実であると確信してきただけです(この確信そのものが間違っていたのでしょうか。もし間違っていたのであれば、それはそれで重大な問題として認識します)。ところが、人の目には、私の姿がどうも私の願っているのとは違ったように映っているらしいと分かりました。「関口は説教や牧会をサボって(←ここがカチンと来る)、ファン・ルーラーの翻訳なんぞにのめり込んでいるようだ」と見えているらしいと。「これは困った事態になってしまった。このままではファン・ルーラー研究(会)を続行することが不可能になるだろう」と気づき、どうしたらよいかと悩んだ挙げ句、「そうだ、すべての説教をインターネットで公開していこう。そうすれば、日曜日『にも』関口はちゃんと仕事をしているらしいと安心していただけるのではないか」と思いつくに至ったのです。つい最近のことですが、私も尊敬している非常に著名な組織神学者の方(東京在住)から、「学問には面倒な世事もつきものです」との重い一言をメールで頂戴し、たいへん恐縮・感謝したばかりです。



「今週の説教メールマガジン」の紹介文を更新しました

今週の説教メールマガジン 編集・発行/関口 康



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日本キリスト改革派松戸小金原教会の礼拝で実際に語られた関口康牧師の説教を、メールマガジン形式で配信しています(メーリングリストではありません)。無料でどなたでも登録していただけます。どうぞお気軽にご登録ください。なお、配信者は、どなたがこのメールマガジンの購読登録をしてくださっているかを全く把握しておりません(配信作業はすべて関口康本人が行っています。第三者の手は一切介しておりません)。ご登録いただいたメールアドレスにはメールマガジン以外を配信することはありません。登録していただいた方々に、当方から私信をお送りすることもありません(私信のやりとりをご希望の方には、ご連絡に応じて別途お送りしております)。また、ご登録いただいたメールアドレスを別の目的に流用したり、第三者(松戸小金原教会の会員や役員を含んでいます)に公開したりするようなことは決してありません。どうかご安心くださいますようお願いいたします。



「今週の説教メールマガジン」第200号感謝号を発行しました

何事もコツコツと続けていると少しくらいは良いことがあるようです。2004年9月5日(日)以来、毎週の説教を「今週の説教メールマガジン」と銘打って、希望してくださる方々にメールで配信してきました。それがこのたび、ついに第200号を迎えました。ただの数字の問題にすぎないものの、とにかく一つの区切り目に達することができたことを、うれしく思っています。メールマガジンの内容はブログで公開しているのと同一の説教です。日曜日の説教は、一回につき30分程度。そのために用意する原稿の字数は約4,800字~5,000字(四百字詰原稿用紙で12枚程度)です。あれもこれも語りたいという気持ちを抑えるために、字数の総量制限を設けて、それを超えないように心がけています。とにかく時間を守りたいとの一心から、話の途中でも「今日はここまでにします」と言って説教を強制終了すること、しばしばです。それでよいと思っています。私の座右の銘の一つは「時は金なり」(Time is money)です(これは大真面目な話です)。18世紀アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンが語ったとされる言葉です。牧師といえども、説教といえども、他人の時間を不当に過度に束縛することは強盗行為に限りなく近いと、私は考えております。たとえどんなに美しい内容であっても、長大な説教は犯罪的です。それはともかく。考えてみれば、たったの三年半たらずで200号です。私は現在42歳。日本キリスト改革派教会の「牧師」の定年規定は70歳。あと28年ほど牧師を続けることができます。その間に私は何回の説教を行うのでしょうか。単純計算すると、日曜日の朝だけで28年間×52週=1,456回は、最低でも行うのではないでしょうか。メールマガジンは、定年後も続けることができるでしょう。私が死ぬか説教をやめるかするまでもし続けることができたら(「もし続けることができたら」です)、1700号くらいにはなるかもしれません(「関口よ、お前はいつまで生きるつもりなのだ?」という声が聞こえます)。ちなみに、私は25歳からほぼ毎週日曜日の説教を行ってきました(神戸改革派神学校在学中も、毎週ではありませんでしたが一ヶ月に二、三回のペースで礼拝説教を行っていました)。25歳から70歳までの45年間に私が行なうかもしれなかった日曜日の礼拝説教回数は(これも単純計算ですが)45年間×52週=2,340回になります。回数だけでしたら、現在までの放送回数が2,102回を数えている毎週日曜日の人気落語番組「笑点」に第一回目から出演しておられるあの桂歌丸さんと勝負できそうです。もちろん私だけではなく多くの牧師たちが一生の間にそれくらいの回数の説教を行うのだということを多くの人々に認識してもらいたいです。私には不可能でしたが(私がパソコンやインターネットを使いこなせるようになり、またプロバイダ会社が提供してくれるブログやメールマガジンのサービスが使用に耐えうるレベルになったのは、つい最近です)これから牧師になる方々にはぜひ、説教を開始した日からおやめになる日までの全説教をブログやメールマガジンで公開していただきたいです。公開作業そのものは、いとも簡単です。本日発行しました「第200号感謝号」には高瀬一夫先生(日本キリスト改革派千城台教会牧師)に記念巻頭言を執筆していただきました。いつもお世話になっている、尊敬すべき先輩牧師です。