2016年2月15日月曜日

ゼカリヤ書14章1~9節についての説教(日本基督教団教師転入試験回答)

(以下は日本基督教団教師転入試験「旧約聖書説教」に私が回答した内容です。提出期限が2016年2月15日でした)

「見よ、主の日が来る。かすめ取られたあなたのものが、あなたの中で分けられる日が。わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となって行く。しかし、民の残りの者が都から全く断たれることはない。戦いの日が来て、戦わねばならぬとき、主は進み出て、これらの国々と戦われる。その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの谷はアツァルにまで達している。ユダの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる。その日には光がなく、冷えて、凍てつくばかりである。しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある。その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」

いまお読みしましたのは、みなさんのうちの多くの方々にとって、おそらくは必ずしも馴染み深いとは言いがたいと思われる旧約聖書のゼカリヤ書の一節です。内容的に決して平易であるとは言えませんので、どのようにお話しすればよいか迷うばかりです。しかし、じっくり読んでいくと味わい深い内容が記されていることが分かりますので、お付き合いいただきたくお願いいたします。

この個所に記されていることをひとことでまとめて言えば、「世界の終わり」を意味する終末の時にエルサレムがどうなるかということです。つまり、これは過去の歴史の出来事を描写しているものではなく、将来起こるであろうことについての預言です。そのことについて預言者ゼカリヤが、まさに預言しています。

しかも、この預言は、実在する地名で知られる、現在のイスラエル国の首都エルサレムがどうなるのかという関心事に終始するものではなく、もっと広い視野を持っています。まさに「世界の終わり」について語られている個所であり、その関心事は世界がどうなるのかということにあります。その意味では、語弊を恐れずいえば、この個所に言及されるエルサレムという地名は一種の比喩であると考えるほうがこの個所の理解としては正しいと思われます。

つまり、重要な問題は「世界はどうなるのか」です。その結論については、わたしたちキリスト教会は、ある意味でよく知っています。神が創造されたこの世界は、いつの日か必ず終わりの日を迎えるというのが聖書の教えであり、かつキリスト教信仰における重要なポイントでもあります。恐怖心を煽る意図から申し上げるのではありませんが、わたしたちの人生がいつか必ず終わりを迎えるのと同じように、わたしたちが今生きているこの世界もまた、いつか必ず終わるのです。それは命あるものの定めです。

しかしそれは、神を信じる者たちにとっては恐ろしいことではありません。先ほどから私は世界が終わる終わると申しておりますが、それは、たとえていえば、長く苦しい旅を続けてきた人が目標としてきたゴールにたどり着くことを意味します。あるいは、一つの大きな作品をゼロから苦労して作り上げていくアーチストのような人々にとって、その作品がやっと完成したと、喜び、感謝する日を迎えることを意味します。

わたしたちの人生も、わたしたちが生きているこの世界も、神がお造りになった創造物です。わたしたちは自分で自分の命を造ることはできませんし、この世界を私がひとりで造りましたと言える人はいません。言うのは自由かもしれませんが、それは事実ではありません。

もしかしたら、ふだんのわたしたちはそういうことを考えもしないようなことかもしれませんが、今日はぜひお付き合いいただきたいのは、わたしたち自身の人生とこの世界を、これを造ってくださり、わたしたちに与えてくださった神御自身の視点に立って見つめてみることです。そういうことが実際にできるかどうかはともかく、みなさんの意識を少し変えていただき、自分の側の視点、あるいは、もっと厳しい言い方をお許しいただけば、わたしたちの自己中心的な視点から自由になって、神の視点に立って考えればどのようなことになるのかを思い巡らしながら、先ほどお読みしましたゼカリヤ書の個所を見つめていただきたいのです。

逆の言い方をすれば、今申し上げたようなことを強く意識してでもなければ、この個所に書かれていることの意味を理解することはほとんど不可能だと言えるとも私には感じられます。ここに書かれていることは、何を言っているのかが分からないということもさることながら、これをそのまま信じろと言われても、とてもではないが受け容れがたいと、多くの人が感じるかもしれないことなのです。しかしそれは、あらかじめやや結論めいたことを申しておきますが、わたしたちが自己中心的な視点から自由になれていない証拠かもしれません。以上、前置きが長くなりましたが、このあたりから内容に入っていきたいと思います。

預言者ゼカリヤがこの個所に書いていることの要点は、世界を創造された主なる神が、世界の終わりの日に、全世界の支配者になられるということに尽きます。

「見よ、主の日が来る」の「見よ」は、これからまもなく起こる出来事を予測しつつ、一緒に期待して待とうではないかという呼びかけを意味しています。「主の日」とは、これがまさに世界の終わりの日です。

教会では毎週日曜日を「主の日」と呼ぶならわしがありますが、ゼカリヤが描いている「主の日」は、七日ごとに定期的に訪れる日曜日のことではありません。むしろ、それはたった一度だけ世界に訪れる日です。それは繰り返されません。そしてまた、それはまだ来ていません。まだ誰も体験したことがない将来の出来事です。主なる神御自身が全世界の支配者になられる日です。それはすでにそのとおりのことが実現しているのではないかとお考えになる方もおられるかもしれませんが、今申し上げている意味で主なる神が全世界の支配者になられるとは、全世界の人々がそのことを認め、信じ、告白することを含んでいなくてはなりません。なぜなら、聖書に登場するわたしたちの神は、一方的な支配者ではないからです。悪い意味での専制君主ではありません。わたしたち人間の信仰と信頼をお求めになる方です。

しかし、主なる神御自身が良い意味での全世界の支配者になられるために、驚くべきことが行われることをゼカリヤは預言します。「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる」というのです。この「わたし」は主なる神御自身です。そして、先ほど私は、語弊を恐れず言えばとお断りしながらやや語弊を恐れていますが、この個所に登場する「エルサレム」という地名はある意味で比喩であると申し上げたわけですが、何の比喩であるかといえば、神を信じる人々をたとえていると、考えることができます。その人々に対して、「わたし」と称される神御自身が、諸国の民をことごとく集めて戦いを挑ませるというのです。

何のことかお分かりでしょうか。ここで言われていることの趣旨は、神が、神を信じる人々の側ではなく、その正反対の人々の側に立って、その人々を集めて、神を信じる人々と戦わせるということです。そんなことがあってよいのでしょうか。神は、神を信じる人々の常に味方になってくださるのではないのでしょうか。そうではないということがここで語られているのです。

なぜ神がそのようなことをなさるのか、その理由や動機については、何も記されていませんが、なんとなく想像はつきます。「しかし、民の残りの者が、都から全く断たれることはない」と記されています。その戦いの中で、厳しい言い方かもしれませんが、民の中に残ることができる人と残ることができない人が出てくるということです。つまり、ふるいにかけられるのです。それを「試練」と表現することができるかもしれません。

その意味では、神は厳しい方であるというべきです。神を信じる者たちをこそ、厳しい試練にあわせる方です。あなたの信仰は本物ですか偽物ですかと試される方です。

しかし、神は冷たい方ではありません。神を信じる者をお見捨てになりません。戦いに敗れたかのように、神の民のシンボルであるエルサレムが陥落した後に、主なる神御自身がいわば姿を現してくださり、「進み出てくださり」、民の先頭に立って戦ってくださる方です。そのことをゼカリヤは預言しています。

他人事のような言い方をすべきではないかもしれませんが、わたしたちは、戦いに負けなければ自分自身の限界や弱さを自覚することができないところがあります。自分自身の限界や弱さを自覚できないということは、自分のほんとうの姿を知らないということです。そして、それと同時に言えることは、わたしたち人間は、神の助けなしには生きることも立つこともできない存在であることを知らないということです。そのことをわたしたちに自覚させることが、神がわたしたちに厳しい試練を与えることの理由ではないでしょうか。その意味では、わたしたちは負けてもいいのです。いえ、負けるべきなのです。逃げてもよいのです。いえ、逃げるべきなのです。

そのことをゼカリヤは熟知しています。「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。山あいの他にはアツァルにまで達している。ユダヤの王ウジヤの時代に地震を避けて逃れたように逃げるがよい。わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」と書いてあるとおりです。神がオリーブ山を真っ二つに引き裂いて、神を信じる者たちの逃げ道を造ってくださる。そのようなとんでもないことをなさる神の姿が描かれています。

このような描写を荒唐無稽だと言ってしまえばそれまでです。しかし、わたしたちは、ここに書かれていることの意味は何なのかをよく考えなくてはなりません。

今日開いていただいている個所でもう一つ重要な点としては、終わりの日に主なる神が世界に対してなさることとして、地上の大自然を大きく変化させてくださるということがあります。「その日には、光がなく、冷えて、凍てつくばかりである」と記されています。ただし、この「光」は、ゼファニア書3章5節、ヨブ記24章13節などで用いられているのと同じ言葉が用いられています。それらの個所を見ると自然的・物理的な「光」という意味というよりも心理的・内面的な事柄を描写する比喩的表現としての「光」であることが分かります。ゼカリヤが述べている「光」も、それと同じかもしれません。

またゼカリヤによると、終わりの日には泉としてのエルサレムから命の水が湧き出ます。その水が二つの川に分かれ、東と西に流れます。これも比喩であると考えるべきではありますが、しかしまた、単なる空想や想像の産物だと言うだけで片付けることができない、むしろ、きわめて具体的で現実的な情景を思い描くことができる描写でもあります。

世界地図というのは、それを作る国によって中心地が異なる場合が多々あります。日本で作られる世界地図の真ん中には日本列島が描かれます。他の国の場合もそれと同じです。エルサレムで作られた世界地図を私は見たことがありませんが、真ん中に描かれるのは、おそらくエルサレムではないでしょうか。

こういうことを言いますと各国のエゴイズムだというような批判が飛び交うことになるのかもしれません。しかし、ゼカリヤが描いているのは、まさにそのような世界地図です。エルサレムが中心です。しかし今申し上げたことは正確ではありません。ゼカリヤの描く世界地図の中心は神御自身です。神が全世界の支配者になられる日が来る。それは、神が全世界の頭を押さえつけて恐怖政治を行う日ではありません。神の救いの恵みが全世界に満ちあふれる日です。