「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」
今お読みしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。
テトスはクレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある最も美しい島です。そこでテトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。
そのことが分かるように書いているのが次の言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」(5節)。
どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。「教会が新しく生まれる」という言葉を聞いて多くの人々が思い浮かべることといえば、やはりなんといっても新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができるということも、大切なことです。しかし、実はもっと大切なことがあります。
そこに教師ではないという意味での信徒の中から教会役員となる人々が選ばれることが重要です。今お読みしました個所で「長老」と呼ばれている教会役員(教会の伝統の違いによって教会役員の呼称が異なる場合があります)が選ばれる必要があります。教師と役員が一人ずつというのでは、けんかになったときに収拾がつきませんので、なるべくなら役員は2名以上いることが望ましいです。
もちろん教会役員が選ばれ、役員会が組織されさえすれば、はい、それで終わり、教会ひとつ出来上がり、というわけではありません。さらに教会全体が組織化され、現実的・実際的に運営されていく必要があります。
なぜなら、「教会」とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それが教会です。
当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教との接点がなかった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。
しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から役員となるべき人を選ぶこと、そしてその人々を推進力とする教会組織を作り上げて行くことでした。
そのような状況の中でパウロはテトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々はやはり、それまでとは異なる「生き方」をしなければならないということです。
「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いと感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。
そのような変化が、人生の中にもたらされた。そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、頭の中だけの変化にすぎないのか。体全体の変化も伴うのか。
パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。
「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、私個人の生き方や立ち居振る舞いまで干渉され、こうしろ、ああしろと、とやかく言われるのは、勘弁してもらいたい」と即刻反発されるかもしれません。
あるいは、「私は大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれません。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。そのようなことを求められるようであれば、私は教会に近づくことすらできません」と言われてしまう理由になるかもしれません。
そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。
パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(15節)。
キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。
その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生がそのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。
また、今申し上げたこととの関連でぜひ注目していただきたいのは、今お読みしました個所にひとこと出てくる「この世で」という言葉です。
教会が宣べ伝えている内容が宗教であることは間違いありませんが、宗教といえばこの世のことではなく、この世とは次元の異なる天国のことを教えるものではないかと、どうしても考えられがちです。しかし、今開いていただいている個所に記されている「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」は、本質的にこの世のものです。生きている間に味わうことができるものです。地上の人生を終えて天国に行かなければ決して味わうことができないというようなものではないのです。
実際問題として、神の恵みによって生活の変化が起こりますよという話は、生きている間に聴かなければ意味がありません。「現世的な欲望を捨てる」のは「この世」ですることです。死ねば自動的に欲望がなくなるかもしれません。しかし、わたしたちは、その日そのときまでは欲望に任せて傍若無人に生きてもよいわけではないのです。
そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえないということです。
パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。
ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなどです。このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が次第に作りかえられて行くのです。
もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。わたしたち自身が教会になるのです。それは、わたしたち自身がイエス・キリストの体になることを意味しています。
日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょうといった感じのことです。言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては人生の大問題になりうるのです。
「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。それに加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているとおり、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」ということまでのすべてを含んでいます。神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。
それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。
イエス・キリストを通して神の恵みが現れたことの目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。
教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここには、わたしたちの心を真に満たしてくれるものがあります。「神の恵み」があります。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。