(左から 田上雅徳 芳賀力 野村信 関口康) |
序
事前に芳賀力先生と野村信先生の講演レジュメを読ませていただく機会を得た。何を語るべきか考えあぐねていたが、ようやく心が定まった。
カルヴァンの学会でファン・ルーラーの神学についての研究発表をすることは「欄外注」以上ではありえない。問題は、カルヴァン学会の関心とファン・ルーラーの神学の接合点はどこにあるのかということであった。
しかし、芳賀先生は「カルヴァンの中にあった被造世界の肯定という萌芽はやがて一般恩恵論という形で大規模に開花することになる」という重要な命題を提示してくださった。そして一般恩恵論の弱点を克服する鍵は「三位一体論的創造理解」にあることを示唆してくださった。
また、野村信先生は、被造世界についてカルヴァンが、必ずしも明瞭に神の栄光を見ることはできないが、それをおぼろげには映していると見ていたことを「カルヴァンの自然神学」という言葉で表現してくださった。そしてカルヴァンが被造世界を「神の栄光の劇場」(theatrum gloriae Dei)として肯定的に見ていたことを紹介してくださった。
これらの問題についてファン・ルーラーはどのように考えていたのだろうか。この問いに光を当てることで「欄外注」の務めに仕えることにした。そのうえで表題に掲げたとおり、ファン・ルーラーの三位一体論的神学における創造論の意義を明らかにしてみたい。
Ⅰ 一般恩恵論の問題
一般恩恵論、とくにカイパーのそれに対しては、ファン・ルーラーの見解は明確に提示されている[1]。ファン・ルーラーは1939年に『カイパーのキリスト教文化の理念』[2]を著した。これは、ファン・ルーラーがユトレヒト大学神学部教授になる前に出版した彼の学界デビュー作である。その内容はカイパーの『一般恩恵論』(De gemeene gratie)に対する痛烈な批判であった。こうして彼はカイパー批判者として広く知られるようになった。彼の問題意識は終生失われなかった。
ファン・ルーラーはカイパーの一般恩恵論の背景である彼の特別恩恵論に注目する。カイパーにとって特別恩恵とは、個人的に与えられる、直接的な「再生」(wedergeboorte)の恵みである。しかも、再生とは「人間の最も内なるものの転換」であり、信仰者の魂における永遠の命に関係し、原理的に時間的なるものの外部にある。したがって、現在という時においては、特別恩恵は「魂のより内的な、また霊的な、そして神秘的な生」として引きこもった位置にある。
カイパーのスピリテュアリスティッシュな特別恩恵理解は、彼の思想に必然的に二元論的傾向をもたらすことになった。なぜなら、特別恩恵は個人的で霊的で神秘的なものであるが、文化は個人的なものではありえず、共同的な性格を持つからである。文化は内面的なものだけではありえず、常に外面的なものに関係する。神秘主義と文化は相容れない関係にある。
したがって、カイパーの一般恩恵論にとっては、文化の評価は結果であっても動機ではない。カイパーの関心は、生の全領域において「キリスト教的な」(Christelijke)活動を展開することにあった。それを可能にするためにスピリテュアリスティッシュな内容を持つ特別恩恵が時間的世界と関係を持つ一般恩恵を必然化した。特別恩恵が現世に姿を現わす場と領域を、一般恩恵が提供する。一般恩恵とは、特別恩恵と現世の生との靱帯であり、特別恩恵と文化をつなぐ媒体(medium)である。
カイパーによると、一般恩恵には二つの目的がある。第一は「結合点」(aanknopingspunt)を提供することであり、第二は「始原的な創造の諸力」(de oorsprokelijke scheppingspotenties)を発展させることである。しかし、この第二の目的が十分に果たされるためには特別恩恵が必要である。
このようにカイパーは一般恩恵の二つの目的を示すことによって、一般恩恵と特別恩恵とを緊密に結合させた。しかし、実際に機能するところではカイパーの恩恵論はたびたび二元論的であり、結果的には一般恩恵の独り歩きに至る、とファン・ルーラーは批判する。
カイパーの一般恩恵論の問題点は、彼が教会と文化の関係をどのようにとらえたかを見れば、よく分かる。ファン・ルーラーによると、カイパーにとって制度としての教会は特別恩恵の領域なので、教会自体の中に文化が築かれることはない。文化形成のためには別の素材が必要になるのであり、その素材は教会の外なる世界としての一般恩恵の領域に存在する。
しかも、その素材がキリスト教的な文化になるためには特別恩恵を必要とする。キリスト教信仰の灯が制度としての教会の中に光り輝き、その光が窓から教会の外の世界に遠く達し、人々の生活の諸関連に影響を及ぼす。また、教会員の一般恩恵の世界での存在と活動が影響を及ぼす。そして、その影響は主の民が社会に与える「きよめ」としての倫理的意味を持っている。
しかし、そうなると、特別恩恵の一般恩恵への影響、すなわち教会が文化に与える影響の結果そのものは特別恩恵なのかそれとも一般恩恵なのかは、どのように説明できるのだろうか。この問いかけに対してカイパーは「二種類のキリスト教文化」を語らざるをえなくなる。
第一は、特別恩恵によって強化され、推進され、特別恩恵の影響のもとで全き発展に至る一般恩恵による文化である。これは広義のキリスト教文化である。第二は、一般恩恵からではなく、特別恩恵から生み出される文化であり、「再生の文化」(een cultuur der wedergeboorte)である。これは狭義のキリスト教文化である。
そしてカイパーは、特別恩恵と一般恩恵の関係とのかかわりで、世界を四つの領域に分ける。第一の領域は、特別恩恵の影響が存在しない一般恩恵の領域である。
第二の領域は、特別恩恵からだけ姿をあらわす制度的教会の領域である。
第三の領域は、特別恩恵の灯によって光を当てられる一般恩恵の領域である。
第四の領域は、一般恩恵によってもたらされたものが用いられる特別恩恵の領域である。
この四つの中の第三の領域が広義のキリスト教文化であり、第四の領域の文化は「集中化したキリスト教文化」(de geconcentreerde-christelijke cultuur)である。これは「有機体としての教会」(de kerk als organisme)が可見的に顕在する領域であり、イエスはキリストであると告白する者たちが固有な領域で啓示の原理によって一般恩恵の生を支配する領域を意味する。
そして、カイパーは狭義と広義の二種類のキリスト教文化の関係を二つの同心円で理解する。内円は集中化したキリスト教文化としての「再生の文化としてのキリスト教文化」であり、外円は一般的なキリスト教文化としての「一般恩恵の発展としてのキリスト教文化」である。
狭義の集中化したキリスト教文化の活動は、広義の一般的キリスト教文化のために必要とされる。この意味でカイパーによるアムステルダム自由大学の設立目的は、ヨーロッパ・アメリカという文化世界の再キリスト教化の中心であり、中核であり、起点を作ることにあった。
しかしファン・ルーラーにとっては、このカイパーの「二種類のキリスト教文化」という理念が問題であった。カイパーにおいては、一方では、特別恩恵の十分に発展することの目的は一般恩恵のキリスト教化にあるとされ、他方では、特別恩恵が十分に発展するために特別恩恵が必要であると考えられている。もしそうであるならば、二種類の間の質的差異は原理的に存在しないとファン・ルーラーは考えた。
広義のキリスト教文化と狭義のキリスト教文化との間に「対立」(antithese)は原理的に存在しない。特別恩恵の一般恩恵に対する働きの意義は一般恩恵の発展における倫理的・信仰的堕落を矯正することにあるというにすぎない。
アムステルダム自由大学が必要とされたのは、不信仰な諸大学の営みによって倫理的・信仰的な点で世論やキリスト教的諸活動までも致命的な影響を受けてしまわないようにするためという点にあった。つまり倫理的・信仰的な堕落の矯正という役割である。
しかし、この意味でのキリスト教文化は非常に狭い場所で特別恩恵であることを求めることになる。矯正という点からは、なんら固有の文化は成立しえないからである。
アムステルダム自由大学の存在意義は矯正だけにあるのではなく、キリスト者としての彼らの学問的営為を護るという実際的な必要性があったと言える。さらに「信仰的確信のプロパガンダの手段」でもあった。それによって一般恩恵の世界に対して影響力を行使する。
しかし、その場合でも結局問われることは「集中化したキリスト教文化」とは何を意味するのかという点にある。それは「文化」(cultuur)なのかそれとも「伝道」(zending)なのかという問いが残る。ファン・ルーラーは、これらの議論を経て、「アムステルダム自由大学は、孤立したキリスト教的ゲットーで秘教学(esoterische wetenschap)を営む学府になり終わる」と結論づける。
ファン・ルーラーの問題意識は、カイパーのスピリテュアリスティッシュな特別恩恵理解が、キリスト教文化の問題に関して、結果的に二元論的構造をもたらすことになるという点にある。この二元論的構造が一方で教会を宗教的ゲットーに押しこみ、他方でこの世界はそれ自体で自立した世界であるとみなすことになる。それがこの世界を世俗化に導くことになる[3]。
ファン・ルーラーは一般恩恵と特別恩恵を区別しない。特別恩恵が直接的に、文化が営まれる生のすべての現実にかかわることになる。それを彼は「セオクラシー」(theocratie)と呼ぶ[4]。
牧田吉和先生によると、「特殊」から「一般」に向かう点で、ファン・ルーラーは、カール・バルトの神学的道筋の上にある。
Ⅱ 三位一体論的神学
しかし、ファン・ルーラーはカール・バルトの神学を克服することに人生をかけた人である[5]。彼はバルトの著書を徹底的に読み、心酔することから自らの神学を始めた。「私は純血のバルト主義者(spur sang Bartiaan)として出発した」[6]と述べたことがある。
しかしその後、バルトを批判しはじめた。「三位一体論的神学」とはファン・ルーラー自身が用いた表現である。その最も中心的な意図は、カール・バルトの「キリスト論的集中の神学」への批判であった。ファン・ルーラーによると、バルトの神学は「キリスト一元論」(christomonisme)である。
ファン・ルーラーの「三位一体論的神学」の根本命題は「正しく考えられた三位一体論的思考様式の内部に二重の運動がある」[7]というものである。「二重の運動」とは、複数の異なる神学的諸視点を「互いに引き寄せ合う」(op-elkaar-betrekken)運動と「互いに引き離し合う」(uit- elkaar-houden)運動である。「三位一体の教義はこの二重の運動を神学的につなぎあわせる方法によって我々の思考を鍛えてくれる」[8]と彼は述べている。
この二重の運動は内在的三位一体(immanent triniteit)の思考様式の中にもあるし、経綸的三位一体(economische triniteit)の思考様式の中にもある。内在的三位一体の教説の根本命題は、「三位一体の神の内なるみわざは区別される」(opera Dei trinitatis ad intra sunt divisa)である。
父なる神と子なる神と聖霊なる神は、ひとりの神の内部で互いに引き寄せ合い、永遠に交流している。それが「神的位格の相互交流」(communio personarum divinarum)である。しかし、この教説を保持するためには、神的位格の区別性(distinctio personarum divinarum)を確保する必要がある。
三つの位格は、互いに区別されているからこそ、互いに交流することができる。三つの位格の区別性は「論理的な(logische)区別以上」のものである。それは「本体論的な(ontologische)区別」であり、「神的・本体論的(goddelijk-ontlogische)な区別」である。
父なる神は、子なる神ではないし、聖霊なる神でもない。父なる神のみわざは「子を産み、聖霊を発出すること」である。しかし、子なる神に「子を産むこと」は不可能である。子なる神のみわざについては、主語と述語を入れ替えて(換位して)「父から産まれること」と言わなければならない。そして子なる神もまた「聖霊を発出する」。聖霊なる神のみわざは「父と子から発出されること」である。
このように、父なる神の視点と子なる神の視点と聖霊なる神の視点は区別されなければならない。そして異なる各視点は「思考の技法」(denktecnische)としてではなく、最も根源的な次元において引き寄せ合っている。
経綸的三位一体の教説を支える根本命題は、「三位一体の神の外なるみわざは区別されない(opera Dei trinitatis ad extra sunt indivisa)である。経綸的三位一体とは、神の外なるみわざとしての創造(creatio)・贖い(redemptio)・聖化と完成(sanctificatio et perfectio)の関係を扱う教説である。ファン・ルーラーは次のように述べている。
「神のみわざは、父・子・聖霊のいずれかひとつの位格(persona, zijnswijze)だけで行われるのではなく、三つの位格がそれぞれの役割を分担する仕方で、三位一体的に行われる。それゆえ我々は、神の外なるみわざ(創造・贖い・聖化と完成)の一つ一つを、父なる神の視点からも、子なる神の視点からも、聖霊なる神の視点からも見つめなければならない。それによって、互いに引き寄せ合う運動と互いに引き離し合う運動という二重の運動を、相互関係的に形成していかなければならない」[9]。
ハイデルベルク信仰問答の問24とその答えを見ると、「父なる神」と「創造」の関係、「子なる神」と「贖い」の関係、「聖霊なる神」と「聖化」の関係が見える[10]。これで3本の線を引くことができる。しかし、ファン・ルーラーの理解に立てば、線はもっと多く引かなくてはならない。
内在的三位一体の三つの位格(父・子・聖霊)と経綸的三位一体(創造・贖い・聖化と完成)の三つのみわざを掛ければ(3x3)、線は9本である。創造のみわざは父なる神の視点からだけではなく、子なる神の視点からも、聖霊なる神の視点からも見つめなくてはならないからである。
贖いのみわざは、子なる神の視点からだけではなく、父なる神の視点からも、聖霊なる神の視点からも見つめなくてはならない。聖化(と完成)のみわざは聖霊なる神の視点からだけではなく、父なる神の視点からも、子なる神の視点からも見つめなくてはならない。
しかし、引くべき線はまだある。「聖化」と「完成(または終末)」を区別して、三つの位格と4つのみわざを掛ければ(3x4)、線は12本になる。また、三つの位格どうしの関係や三つもしくは4つの経綸どうしの関係も加わる。「父なる神」と「子なる神」の関係、「父なる神」と「聖霊なる神」の関係、「子なる神」と「聖霊なる神」の関係についての議論は、従来の教義学も扱ってきた。これで3本加わる。
しかし、まだある。ファン・ルーラーは「聖化」と「完成」を区別した上で、「創造」と「贖い」の関係、「創造」と「聖化」の関係、「創造」と「完成」の関係、「贖い」と「聖化」の関係、「贖い」と「完成」の関係、「聖化」と「完成」の関係についてそれぞれ興味深い命題を提示している。これでさらに線は6本加わる。以上で21本の線が見えてくる。
しかも、それら21本の線(まだあるかもしれない)は、どれも静止していない。すべての線は、一つの視点と他の視点との「互いに引き寄せ合う運動」と「互いに引き離し合う運動」との両面を持っているので、各線上にあって我々の思考は、主語と述語を入れ替えながら不断の往復運動を続けている。このように、「神の内部の運動」(beweging in God)[11]を徹底的に考え抜くことが「三位一体論的神学」の本質である。
ファン・ルーラーは、その神学の完成形を「全面的に展開された三位一体論的神学」(een ten volle ontwikkelde trinitarische theologie)[12]と呼ぶ。
このような構造を持つ神学は、最終的にはあらゆる問題を「子なる神」と「贖い」との関連へと集中させていく「キリスト論的集中の神学」が見落としてしまう問題に目を向けることになる。「父なる神」と「創造」の問題が視野にあるかぎり、そして「聖化と完成」の問題が三位一体論的・聖霊論的にとらえられているかぎり、教会の外なる世界の問題、存在の問題、自然の問題、科学の問題、一般の問題、社会の問題、政治の問題、文化の問題が必ず神学の課題になる。
特に、キリスト論から(相対的に)自立した聖霊論が、創造の問題(私の存在の根拠は何かを問うこと)と贖いの問題(私の救いの根拠は何かを問うこと)を統合する鍵となる。
Ⅲ 創造論の意義
このようなファン・ルーラーの神学思想において「創造論」はどのような意義を持っていたのだろうか。
彼は一巻の組織神学や教義学を遺さなかった。神学体系の一章としての「創造論」(De creatione)が見当たらない。そのため、彼が遺した無数の論文や説教の中から彼の未刊の教義学を構成することになったであろう素材を拾い上げていくしかない。
しかし、この関連で最も重要な論文の一つが、1960年に発表された「地上の生の評価」[13]であることは確実である。
その冒頭でファン・ルーラーは「地上の生」を構成する七つの要素について説明する。第一は物質性、第二は身体性、第三は個別性、第四はセクシュアリティ、第五は時間性、第六は共同性、第七は歴史性である。これらの構成要素を持つ「地上の生」を我々はどのように評価しうるのかを、彼は問うている。
次に、評価の可能性を八つ挙げている。
第一は「地上の生は存在しない(実体がない)」(色即是空)という評価である。
第二は「それは悪しき仮象であり、幻想である」という評価である。
第三は「それは悪くはないが、ヴェール(被膜)であり、真の存在の上に覆い広げられている」という評価である。
第四は「地上の生とは真実で永遠の存在のイメージ(像)であり、影であり、反映であると理解する」評価である。
ファン・ルーラーによると、それは「我々自身は真実な存在に対して背を向けて立っているが、その我々が地上の生という鏡のなかに不完全で漠然としたイメージを見る」というような評価の仕方である。それは地上の生を「段階的手段」としてとらえることでもある。
第五は「地上の生とは刑罰である」というオリゲネスの評価である。
第六は「地上の生は浄化である」という評価である。
そして第七の評価は「地上の生とは通過点であり、表面的なものであり、目標に至るための単なる手段に過ぎない。それは訓練であり、序章であり、準備である」というイレナエウスの評価である。
この評価は「我々にとって馴染み深いもの」であると彼は述べる。それは、地上の生を「暫定的な何かとして見ること」である。そのような神学体系と生活感覚が「キリスト教の路線を長きにわたって決定づけてきた」と彼は指摘する。
第八の可能性は「地上の生は本質的かつ唯一のものである」という評価である。
人生は一度であり、かつ不可解なものであり続ける。私は人生を考えつくすことはできないし、生き尽すこともできない。「私はそれをただ生きることができるだけだ」。ファン・ルーラー自身はこの立場に立っている。
彼はこのことをキリスト教信仰に基づいて語ることを試みる。地上の生は本質的で唯一のものであると語るためのキリスト教的根拠として、六つの点を挙げている。
その第一から第三までが創造論に関する教説である。厳密にいえば第一は三位一体論に関することであり、第三は予定論に関することであるが、広義の創造論の枠組みの中でとらえることもできる。第四はキリスト教的歴史哲学であり、第五はキリスト論であり、第六は終末論である。
彼が挙げている第一の根拠は、可視的・可触的な現実としての地上の生は「不必要であるが、善きものである(niet noodzakelijk, maar wel goed is)」という教説である。
これは善き創造(erant valde bona)の教理と呼ばれる。ファン・ルーラーによると、キリスト教信仰の範囲内では厳密な意味での世界の存在の必要性(noodzakelijkheid)を主張することはできない。「神は御自身の愛の対象として世界を必要とされている」という思想は、三位一体の教義によって行く手を遮られている。父と子と聖霊は御自身において最も完璧な愛の交わりであるゆえに、世界を必要とされるわけではないからである。
そしてファン・ルーラーにとって「世界は不必要である」と語ることは愉快なことである。「なぜならそれは、我々は存在しないこともありうるということを意味するからである。宇宙と世界史には不足もありうるのだ」[14]。
しかし、世界は不必要であるにもかかわらず、無ではなく、存在している。その理由は何か。そこに神の喜びに満ちた御心(het welbehagen van God)がある。神は自分の喜びのために世界を創造したのだ。
第二の根拠は、この世界自体はなんら神的なものではないということである。
また同時に世界そのものの本質が悪魔的であるわけでもない。創造者と被造物の区別性が明確に保持されているところでは、この主張の正当性は明白である。被造物は、創造者なる神の本質の放射でも流出でもない。すべての存在は、無から有へと呼び出された。これは無からの創造(creatio ex nihilo)の教理と呼ばれる。
人間は天から舞い降りたものではなく、別次元から出現したものでもなく、神の本質の流出や派生でもなく、あくまでも地に属するものである。我々は、神によって地から採られたものである。
第三の根拠は、世界と人類の存在は、地上の生において十分に現実的な存在であるということである。
我々は創造者なる神によって造られた被造物として、十分に真実な存在であり、その意味で「本物」である。神は影絵遊びをしておられるわけではない。
色即是空、仮象、ヴェール、イメージなど。それらの概念は「キリスト教的生活感覚の中に一瞬たりとも入りこむ余地はない」とファン・ルーラーは主張する。「キリスト者とは、いわばマテリアリストである。神が創造した世界の物質性をそのすべての個別性と共に真剣に受けとめることにおいて、我々は唯物論者なのである」[15]。
次のようにも述べている。
「キリスト教は存在の本質や、キリスト教の構造の中にもしかしたら輝いているかもしれない永遠の合理性などに決して満足することはなかった。キリスト教は常に実存に魅了されてきた。実存主義などが現れるずっと以前から、キリスト教は、実存において、存在する物事の現実の事柄において根本的な合理性が見いだされることはありえないと、公然と語って来た。存在の不条理を嘆くからといって我々が未熟であるということにはならない。存在の不条理などは、神の御心の中にいくらでも見つかる。それらの問題のすべては予定論の教義に集約される」[16]。
評価
このような創造論に立つファン・ルーラーの神学思想は、我々にとてどのような意義があるだろうか。さまざまな評価を下すことができるだろう。
牧田吉和先生はファン・ルーラーの神学の中にアブラハム・カイパーや他のオランダ改革派神学の伝統を継承する人々との共通点を見出す。それは「グノーシス的・アナバプティスト的二元論の克服」という特色である[17]。
この牧田先生の評価に対して私は特に異存があるわけではない。そのとおりだと思っている。しかしまた、もう少し我々自身の現実、日本の教会の現実に引き寄せて考えてみるのも悪くないだろう。
ファン・ルーラーの「地上の生の評価」は私にとっては思い出深い論文である。これは1999年2月に結成したファン・ルーラー研究会のメーリングリストで、清弘剛生先生と私の二人で最初に訳読したものである。当時私は33歳になったばかりであった。オランダ語の辞書と首っ引きで読んだファン・ルーラーの言葉の一つ一つに驚き、興奮し、感動した。
しかし、ちょっと待て。なぜ私はファン・ルーラーの言葉に驚き、興奮し、感動したのだろうか。当時33歳の私は、33年間、教会に通い続けた。両親が信徒の家庭に生まれ、高校卒業直後に東京神学大学に進学し、25歳で日本基督教団の教師になり、その後、日本キリスト改革派教会に加入し、神戸改革派神学校を卒業し、1999年2月には山梨県の日本キリスト改革派教会の牧師だった。
その私がファン・ルーラーの言葉に驚いた。その日そのときまで聞いたことも読んだこともなかったような新鮮で解放的な言葉を目の当たりにしたからだった。
それでは、いったい私は、その日そのときまで、何を学び、何を聞いてきたのだろうか。私は日本の教会を悪く言うようなことを、なるべくしたくない。しかし、黙っているわけにいかないこともある。
聞けば聞くほど自分の命の力を刈り取られていくのが分かるような説教やキリスト教的言説を耳にすることがある。「救いの喜び」や「天国の喜び」を強調する勢いで、人間的なるもの(humanum)をあまりにも否定的に語りすぎることや、地上の生をあまりにも暫定的なものとして語りすぎることが、人を絶望に追いやることがある。“敬虔な”言葉であればあるほど、人の心を傷つけることがある。
それはレトリックや話法の問題だろうか。説教分析のような方法で改善しうることだろうか。私にはそのように思えなかった。
だからファン・ルーラーを読み続けることにした。「キリスト論的集中の神学」の上位互換(backward compatibility)としての「全面的に展開された三位一体論的神学」が日本の教会に広く知られる日を待ち望むようになった。
アメリカ改革派教会の教師であり、ファン・ルーラー研究者であるアラン・ジャンセン博士が同教会の機関紙『パースペクティヴ』に、「改革派神学の多くの部分にバルト主義の支配力が残存しているかぎり、ファン・ルーラーの声が聞かれる必要がある」[18]と書いている。「改革派神学の」を「日本の神学の」に置き換えると、ちょうど私の意見になる。それはいつまで続くのだろうか。
(アジアカルヴァン学会・日本カルヴァン研究会合同講演会、於 立教大学、2013年3月11日)
[1] 牧田吉和「A.ファン・ルーラーの神学的文化論の中心点――文化論におけるカイパー批判に関連して――」『改革派神学』第29号(神戸改革派神学校、2002年)、3~27ページ。本研究の「Ⅰ」の論述に関しては、多くの部分を牧田先生のこの論文に負っている。
[2] A. A. van Ruler, Kuypers idee eener christelijke cultuur, Nummer 12 en 13 uit serie “Onze Tijd” onder redactir van ds. J. P. van Bruggen, dr. J. Eijkman en dr. K. H. Miskotte, G. F. Callenbach N. V. – Nijkerk, 1939.
[3] 牧田吉和、前掲書、12ページ。
[4] ファン・ルーラーは「セオクラシー」を次のように定義している。「セオクラシーとはキリストと福音と神の言葉に基づく国民生活の秩序であり形態である。セオクラシー、より厳密にいえばプロテスタント的セオクラシー(reformatorischen Theokratie)においては、聖書が国家の霊的土台である。その意味は、我々が聖書に基づくセオクラティックな国家論を生み出すことではないし、そのような政治綱領を生み出すことですらない。しかしそれは、なるほどたしかに我々が統治機構全体(立法・行政・司法)の中で仕事と社会と人生を聖書の存在理解に基づいて理解することを意味している」(A. A. van Ruler, Gestaltung Christi in der Welt, über das Verhältnis von Kirche und Kultuur. Bekennen uns Bekenntnis, Anregungen aus ökumenischen Gesprek, Heft 3, Verlag der Buchhandlung des Erziehungsvereins, Neukirchen Kr. Moers, 1956, S. 24.)
[5] ファン・ルーラーとカール・バルトの神学の関係については、ディルク・ファン・ケウレンの下記の論文(拙訳)を参照していただきたい。ファン・ケウレン「『主人の声』から敬意を込めた批判へ(上・下)」関口康訳、『季刊 教会』日本基督教団改革長老教会協議会、第79号(2010年夏季号)、58~64ページ、第81号(2010年冬季号)、31~38ページ。
[6] A. A. van Ruler, ‘Kritisch commentaar op de K. D.’, in: Van Ruler Archief, inventarisnummer I, 684, 1. ファン・ルーラーのこの文書は現時点では未公開であるが、新訂版『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld Werk)第7巻(未刊)に収録予定。1965年から1967年まで、という日付がある。
[7] A. A. van Ruler, ‘De noodzakelijkheid van een trinitarische theologie (1956)’, in: Verzameld Werk 1, Boekencentrum, 2007, p. 262. “een echt trinitarische denkwijze gekenmerkt zal zijn door twee bewegingen.”
[8] Ibid.
[9] Ibid.
[10] 『ハイデルベルク信仰問答』吉田隆訳、新教新書252、新教出版社、25~26ページ。
[11] 「神は、御自身において、その本質において運動である」(Hij is in zichzelf, in zijn wezen beweging.)という名言もある。Vgl. A. A. van Ruler, ‘De leer van de drie-eenheid (1956)’, in: Verzameld Werk, deel 3, Boekencentrum, 2009, p. 69.
[12] A. A. van Ruler, Ibid.
[13] A. A. van Ruler, ‘De waardering van het aardse leven (1957-1960)’, in: Verzameld Werk deel 3, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, p. 406-424.
[14] Ibid. p. 411.
[15] Ibid.
[16] Ibid.
[17] 牧田吉和、前掲書、24ページ。これ以外にも次の論文において同様の主張をしている。
牧田吉和「終末と事物性――A. ファン・ルーラーの終末論の一つの神学的意図――」
『改革派神学』第30号特別号、2003年、3~27ページ。
牧田吉和「ファン・ルーラーにおける三位一体論的・終末論的神の国神学と聖霊論」
『改革派神学』第32号、2005年、3~31ページ。
[18] Allan Janssen, ‘Joyful Theology’, Perspectives, The Journal of Reformed Thought, Reformed Church in America, December 2009. Internet Version.
(http://www.rca.org/page.aspx?pid=6184)