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ファン・ルーラーの教授就任講演「神の国と歴史」(1947年)を収録した論文集(右) |
【ファン・ルーラーの教授就任講演(1947年)の「パプア」の意味】
グーグルで日本円に換算して「34,094円」と表示されて天を見上げる。名門Brill社のA History of Christianity in Indonesia (2008)。インドネシア・キリスト教史。一部をネットで読むことができた。本当は現物が欲しい。高額すぎて手が出ない。しかしファン・ルーラーの文章の意味がやっと分かった。
ファン・ルーラーが1947年11月3日に「ユトレヒト大学オランダ改革派教会担当教授(hoogleraar vanwege de Nederlandse Hervormde Kerk aan de rijksuniversiteit te Utrecht)就任講演」を行った。その冒頭で「パプア」(de Papoea)の話が出る。それをまるでジョークであるかのように面白がった人がいる。
ファン・ルーラーの意図を正確に読み取りたい。直前までは地方教会で牧師をしていた。教員として大学で教えるのは初めて。最初に任された担当科目は「聖書神学」(bijbelse theologie)、「オランダ(lit. 祖国)教会史」(vaderlandse kerkgeschiedenis)、「宣教学」(zendingswetenschap)の3科目。
講義準備で苦心したのは、3つの科目をどうしたら調和的に一致(harmonisch geheel verenigen)させるかであり、具体的に言うと「信仰の父アブラハム」と「この名門大学でオランダ神学の中心人物になったフーティウス(Voetius)」と「宣教地パプア」を同時に統一的に見る視点を得ることだったという。
これを面白がった人が「こうした表現の仕方の中にわれわれはファン・リューラーの意表を突いたファンタスティックな表現の自由さを見ることができるであろう」とコメントした。私はどう理解すべきか長年分からなかった。しかし「インドネシア・キリスト教史」がこの謎を解明してくれそうだと分かった。
ほんの少し読めた部分によると、パプアへのキリスト教宣教の開始は1855年。それ以前に公式の宣教がなされた証拠はないが、1520年以降、ポルトガルやスペインのフランシスコ会宣教師がモルッカ諸島で活動したが、パプアと貿易関係にあったので、間接的にパプアの宗教に影響を与えた可能性があるという。
興味深いことがたくさん書かれている。1550年のイエズス会の報告書にパプア諸島にキリスト信者がいると記されているとか、1931年から1962年まで活動したオランダ改革派教会の宣教師が、パプアのシャーマンが占いの道具として使用していたトマス・アクィナスの『神学大全』を発見したとも書かれている。
そのパプアで最初にキリスト教宣教を始めたのはゴスナー(Gossner)というドイツ人だったが、オランダ人牧師が援助したという。そのオランダ人牧師が、19世紀のオランダの信仰復興運動「レベイユ」の流れの人で、その教えが、現在のパプアのキリスト教の人たちの考えに非常に近いという。
そして、1855年に恒久的な伝道所(教会)が西ニューギニアに設立され、宣教師カール・オットー(Carl Ottow)とヨハン・ガイスラー(Johann Geissler)が活動開始。しかし、パプア人側はしばらく様子見。宣教師たちが最初に取り組んだのは現地の言葉を習得すること。単語帳や文法書を作成したという。
しかし、第二次大戦が始まる。1941年5月、ドイツ軍オランダ占領。オランダの宣教本部とパプアの通信遮断。1942年4月、日本軍パプア上陸、大部分制圧。ドイツ国籍所持者以外のすべてのヨーロッパ人宣教師とヨーロッパ人が抑留、東インドネシアの収容所に強制移送。1942年7月、日本軍が宣教師15人処刑。
1944年9月から1945年3月までマッカーサー司令部パプア設置。1944年7月までに日本軍パプア撤退。インドネシアの残りの地域は1945年8月15日まで日本軍占領下。オランダ政府は1946年初頭までパプアに戻れなかった。翌年1947年のファン・ルーラーの「パプア」発言が「ファンタスティックな表現」だろうか。
「信仰の父アブラハム」と「ユトレヒト大学神学部創設者フーティウス(Voetius)」と、第二次大戦で深い傷を負うた「パプア」を「同時に統一的に見る神学的視点」を得る苦労についての表明が「意表を突いたファンタスティックな表現の自由さ」のあらわれだろうか。違うのではないかと思えてならない。