2025年3月15日土曜日

ファン・ルーラーの文章に魅了される日々を送っている

ファン・ルーラー研究文献

【ファン・ルーラーの文章に魅了される日々を送っている】

誤解を避けたいと思ってはいる。実は最近、会議や訪問で外出しているときや礼拝の説教や週報を準備しているとき以外の多くの時間をファン・ルーラーの訳読に注ぎ込んでいる。その意味でサボっていない。だってこれほどの正論はないと思うほどなので。ゆがんだ心がまっすぐになる。炎上するタイプかも。

そもそもファン・ルーラーは自分の所属するオランダ改革派教会(NHK)の人々に読んでもらうためにほとんどの文章を書いた。それをたとえば日本基督教団の我々が読んでも理解できるはずがない。互換デバイスが必要だ。それとファン・ルーラーはジョークが多い。真面目な人が読むとカチンと来るだろう。

扱いに困る言い回しもある。たとえば、今夜読んでいる箇所で、改革派教会の「長老」(de ouderling)の役割を「美容師が女性の髪を整えるように(zoals de kapper de haartooi van dames styleert)、神の栄光のために人間の生を整えること」と表現している。私はこういうのは気になって仕方がない。

そのまま紹介したいと思える感動的な文章もある。改革派教会に「長老」がいるおかげで、強制の面が強くなりがちなビショップ中心の教会より「心を込めて」(hartelijkheid)という性格を教会に与えるという。「長老」は真理を強制せず、話し合って説得しようとする。その分、話が長いという。確かに。

重要な問題提起の宝が次々見つかる。ファン・ルーラーの「教会外のもの」(de buitenkerkelijke)と「教会的でないもの」(het buitenkerkelijke)の区別を私は25年前から重要だと考えて来たが説明が難しい。「教会外のものは教会外にとどまり続けるべきだ」と彼は言うが、あっという間に誤解される。

25年前、ある青年キャンプで主題講演を依頼され、その中でこの話をしたら、怪訝な顔をされた。その場で意見は出なかったが、冷たさや差別のような意味で受け取られた可能性がある。ファン・ルーラーの意図は「神が創造された世界の中にはキリスト教化される必要がない領域がある」ということなのだが。

1969年12月6日付け新聞記事(ファン・ルーラーが62歳で亡くなる1970年12月15日のほぼ1年前)にも「牛の搾乳、畑仕事(lit.穀物の収穫)、商売、機械操作、美の体験、善行」は「教会外のものだ」と記している。「キリスト教化されたバイク」が存在するかどうかという問いに置き換えることができるかも。

長くなったので、そろそろやめる。「長老は話が長い」とファン・ルーラーが書いていることは教師(牧師)にも当てはまる。彼のオランダ語を日本語に訳すよりも、彼の神学を学んだ者たちが自分の言葉で書くなり語るなりするほうが、誤解が少なくて済むと思う。私がいま言おうとしているのはそれだけだ。