息子のオレゴンの友人から贈られた大切な置時計 |
言わずもがな書かずもがなだが、私には恥ずかしい過去はないし、私は自分の過去を恥としない。私が恥じられることはあるだろう。存在してごめんなさい。しかし多くの人に支えられてきた。私が自分の過去を恥じるとは、私を支えてくださった方々を恥じることを意味してしまうので、それはありえない。
私には、人生の始まりと共に教会があったからだ。教会に支えられ、教会を軸として生きてきた。生活や働きの場が定点にとどまっていたわけではない。しかし、同じひとつの教会であると信じることができたし、事実そうだった。私が過去を恥じるとは教会を恥じることを意味してしまうので、それはありえない。
もちろん、家族「にも」友人「にも」社会「にも」支えられてきた。そのこと「にも」感謝している。と思っているところがあるので、どうやらこのあたりが嫌がられる。優先順位がおかしいぞと非難されてしまうところがある。そうかもしれないが、反省が難しい。私から「教会」を引いたら何も残らないから。
遺書を書いているわけではないのでご心配なく。明日ジェットに乗る。飛行機に乗る前に遺書を書くという方は一定数おられるようだ。真似をしているわけではない。まだ終わるわけにはいかない。日本の教会が今のままでよいわけがない。どうすればよいかを神に祈りつつ考え、決意を新たにしているだけだ。
昨日の昼、冷たいうどんが食べたくなって、ひとりで近所のうどん屋で食べた。その夜、家族が職場や学校からそれぞれ帰宅し、妻が作ってくれた夕食は、冷たいうどんだった。とても冷たくて、とてもおいしかった。私が注文したわけではない。30年一緒に生きたら黙っていてもこうなる。ありがたいことだ。
さて原稿だ。タイムリミットは近い。「斯く我が走るは目標(めあて)なきが如きにあらず、我が拳闘するは空を撃つ如きにあらず。わが體(からだ)を打ち擲(たた)きて之を服従せしむ。恐らくは他人に宣傳(のべつた)へて自ら棄てらるる事あらん」(コリント前書第九章二十六、二十七節)の心境なり。
またしても日付が変わるころを迎えてしまった。明後日の説教原稿をただいま脱稿。これから休んで明朝のフライトに備える。ジェットだジェット。飛行機はキライではない。宇宙に行きたい。いや、行きたくない。おうちがいいや。いちばん安心する。冒険心ゼロだ。だめだこりゃ。伝道しろ伝道。マッチョ。
コリント前書も超訳しとくか。「ゴールくらい分かって走ってるわ。パンチもエアじゃねーつの。ちゃんと当てますから。倒すぜ。自分が言ってることを自分ができてないってんじゃ最悪じゃんね。先生とか名乗ってんじゃねーよと言われてもごもっとも。自分の体をタコ殴りしてがんばるから。応援してね。」