2017年6月11日日曜日
その門の中に入ろう(千葉若葉教会)
ヨハネによる福音書3章4~5節
関口 康(日本基督教団教師)
「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』」
ヨハネによる福音書の学びの3回目です。3章に入ります。今日の箇所に登場するのは、ニコデモという人です。そしてイエス・キリスト。2人の会話が記されています。
ニコデモはヨハネによる福音書の中に今日の箇所を含めて3回登場します。しかも、かなり重要な場面で登場します。しかし、他の福音書には登場しません。その意味でニコデモは「色濃くヨハネによる福音書的な存在」であり、「この福音書を読み解くためのキーパーソン」です。
そこで、今日の箇所に入る前に、この福音書の中にニコデモが出てくる場面をすべて見ておきます。この人の個人情報を集めておきます。
まず最初に登場するのが3章です。今日の箇所です。「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」(1節)。
これで分かるのは、ニコデモはユダヤ教の教師(ラビ)であり、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員であったということです。最高法院とは70人の議員と議長・副議長で構成されたユダヤの最高権力者会議です。少数精鋭のスーパーエリート集団です。ニコデモはその一員でした。
しかもニコデモは「ファリサイ派」の人でした。パウロも回心前はファリサイ派に属していました。最高法院の与党です。強い権力をもっていました。自分たちの意思決定が国民全体を支配するだけの力を持っていました。その一人のニコデモは世間的に偉い人でした。大物でした。今で言えばテレビ的有名人のような存在だったと想像できます。
ニコデモが2回目に登場するのは7章50節以下です。「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」
7章には、最高法院の人々同士の会話が記されています。そこにニコデモの発言が記されているということは、彼は最高法院の議員たちの中で発言力を持っていたし、実際に発言していた人であるということです。
そして、この福音書の中での3回目、最後にニコデモが登場するのが19章39節です。それはイエスさまが十字架から引き下ろされ、墓に葬られる場面です。そこにニコデモが登場します。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことがあるニコデモも、没薬と乳香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきた」(19章39節)。
1リトラ326グラム。100リトラはその百倍。32.6キロ。米俵1俵60キロの半分以上です。それをニコデモがイエスさまの埋葬のときに、おそらく自分で抱えて持ってきたというのです。それを運ぶ姿がとても目立つというほどではなかったかもしれませんが、ニコデモ自身がそれをイエスさまの体に塗ったりかけたりしていたとすれば、その姿が目立たなかったというのは、ありえないことです。
ヨハネによる福音書の中でニコデモが登場する場面は、以上の3箇所です。はっきり分かるのは、彼の態度が少しずつ変化していることです。それはイエスさまと自分自身の関係についての態度決定の変化です。最初がどうだったのかは今日これからお話しします。はっきり言えば、隠していました。だれにも知られたくないと思っていました。
しかし、2回目に登場するときは、最高法院の中で事実上イエスさまをかばう発言をしました。ただし「律法にはこう書いてある」と法律論議に終始しました。あくまでも自分自身は中立の立場に立っているという装いをもって。
しかし、そういうのは見抜く人はすぐに見抜くわけです。他の議員たちから即座に反発を食らっています。「あなたもガリラヤの出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(7章52節)。イエスをかばう理由でもあるのかと疑われています。それにニコデモは何も答えることができません。
そして3回目。イエスさまの埋葬の場面でした。ニコデモはもはや誰はばかることなくイエスさまの前に立ちました。ただし、そのときはすでにイエスさまは息を引き取られた後でした。
そろそろ今日の箇所に入ります。「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。
この文章の中で重要な言葉は「ある夜」です。このようなことを言うために、ニコデモがイエスさまのもとに「夜」に来た、というのが最も大事なことです。誰にも見つからないように、夜の闇に隠れて、こっそり来たのです。
「臆病者だ!」と思われるでしょうか。「イエスさまのことを信じる気があったのなら、どうしてただちに公の場で堂々と信仰を告白しなかったのか」と思われるでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。
ニコデモの立場をよく考える必要があります。もしニコデモがイエスさまに会いに行ったことが世間に知られたら、その時点で議員資格を剥奪され、地位も権力も失い、その立場でしかできないことができなくなったでしょう。それだけで済まず、ニコデモ自身が殺害された可能性があります。そのほうが良かったでしょうか。すべてを捨てて命を捨てることが信仰でしょうか。
私は別の可能性を考えます。だれでもなれるわけではない特別な立場にとどまりながら、あえて隠れてイエスさまから指導を受けるという選択肢もありうるのではないでしょうか。そのほうが現実的に賢明であり、多くの人々に貢献できる道ではないでしょうか。
そのニコデモに対してイエスさまは言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」(3節)。
そのようにイエスさまが「はっきり」言われましたが、ニコデモには意味が分かりませんでした。それで彼は聴き返しました。「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」(4節)。
これはニコデモの勘違いというより、イエスさまの側の言葉足らずです。こういう誤解をされることをイエスさまが言われたのです。ニコデモは、「新たに生まれる」というのは、お母さんのおなかの中に戻ってまた出てくることでしょうか、そういうことは現実的に不可能ですよねと言っているわけです。現実的で常識的な考え方の持ち主であることが分かります。
イエスさまも決してそういう意味で言われたわけではありません。全く別の意味です。「イエスがお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』」(5節)。
ここは簡単に言っておきます。これは「洗礼を受けなさい」という勧めです。なぜ「水」なのか「霊」なのかの説明は長くなるのでやめておきます。イエスさまが水で洗礼を授けられたのはバプテスマのヨハネから受け継いだものです。しかし、ヨハネの洗礼とイエスさまの洗礼は本質的に違います。どこが違うかの説明を始めると、これも長くなりますのでやめておきます。
今確認する必要があるのは、ニコデモへのイエスさまのお答えの「水と霊とによって生まれること」が「新たに生まれること」の意味であり、それは「洗礼を受けること」を意味するということだけです。それで十分です。
それでは「神の国に入ること」のほうの意味は何でしょうか。これも説明が難しいです。しかし、これを「それは天国に行くことです」と言えば、話が分かりやすくなるかもしれませんが、逆にかなりの注意が必要になります。
なぜなら「それは天国に行くことです」と聞けば、わたしたちの多くがほとんどただちに「死ぬこと」を連想することになるからです。「天国」とは「死後の世界」を意味すると多くの人が思い込んでいます。それを含まないわけではありませんが、それはいわば「天国」の狭い意味です。
「天国」と「神の国」は同じです。それは「死後の世界」などよりはるかに広い意味です。聖書の意味での「天国」または「神の国」は「神の支配」を意味しています。それは生きている間に十分に味わうことができます。
「神の支配」とは天地創造の初めから神の被造物すべてが神の支配下に置かれていることを意味していますので、その意味での「神の国」は死後の世界どころか神が創造された天地万物のすべてです。イエスさまがニコデモに求めた「神の国に入ること」も天地万物が神の支配のもとにあることを信じつつ生きることを意味していると考えるべきです。
それは「洗礼を受けなければ天国に行けません。だから洗礼を受けなさい」という話とは次元が違うことです。そのような単純な説明には人を傷つける要素があります。洗礼に脅迫の要素が混ざりはじめます。「洗礼を受けないと地獄に堕ちますよ」と脅迫しているのと同じですから。
イエスさまが言われているのは、そういうことではありません。あえていえば、パラダイムシフトです。「新たに生まれる」と聞けば「母の胎内に戻って再び生まれなおすこと」しか連想できないその発想そのものを根本的に変えることが求められています。
何度母の胎に戻って生まれなおしても、生まれたままの人間は「罪」から逃れることができません。そのわたしたちが生まれながらに持っている「罪」の性質が根本的に造りかえられないかぎり、地上の世界は「罪」の闇に被われたままです。
その「罪」から救い出されることが「新たに生まれること」の意味です。そして、そのわたしたちの「罪」の中からの救い出しのしるしが「水と霊の」洗礼です。イエスさまが言おうとしておられるのは、そのようなことです。
しかし、ニコデモはそのときすぐに洗礼を受けることはできませんでした。イエスさまの埋葬の日に至るまで、彼が洗礼を受けた形跡はありません。その後どうなったかはヨハネによる福音書だけでは分かりません。
しかし、少しずつ変化していった人であることは確認できます。自分の立場や生活を考えるとこの思いを公にすることはできない。しかし「洗礼を受けたい、イエス・キリストの弟子になりたい」という願いを内心に秘めている。ニコデモは「間に合いませんでした!ごめんなさい!」と人目をはばからず泣きながら、イエスさまの体に没薬を塗っていたかもしれません。
そういう方は大勢おられます。私もそのことを存じています。自慢で言うのではありませんが、これまでの私の牧師としての働きの中で、70歳を越えられてから洗礼を受けられた方が7人おられます。
その方々が一様におっしゃったのが、「本当はもっと早く洗礼を受けたかったのです」ということでした。ある方は法務省の元官僚。ある方は東京都庁の元職員。ある方は東京都立中学校の元校長。ある方は元会社社長夫人。ある方は全国新聞の元記者。
「子どもの頃に教会に行っていました」という方や「家族の中にキリスト者がいました」という方もおられました。「しかし、職務の性質上、厳しい制約があり、中立を求められました。だから、今の今まで洗礼を受けることができませんでした。申し訳ありません」とおっしゃいました。
その方々は私の親と同じ世代でしたから、私のことを子どものようにかわいがってくださった面もあります。その方々に私が繰り返し申し上げたのは、「洗礼に『遅い』ということはありませんから、大丈夫ですよ。安心してくださいね」ということでした。
教会は「ニコデモさん」を歓迎いたします。「遅い」ということはありません。どうぞ安心して、その門の中にお入りください。
(2017年6月11日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)