2017年6月23日金曜日

受肉(じゅにく)とは何か


「エンヒュポスターシス」や「二性一人格」を図解するスライドを作ってみた。ひたすら分かりやすさのみを追求したが、どう書いても差し障りが出てきそうな内容ではある。理解の鍵は、ロゴスが摂取した「肉」になぜ「人格(human person)」があってはならないかという問いにかかっている。

「肉(サルクス)」のイラストとしてあえてこれを選んだのは、「人性(human nature)がある」としながら、たとえば「人の顔」を付したものを選ぶとかえって危険なイメージに誘導してしまうと思ったからであって他意はない。厳しいご批判や叱責は甘受する他ない。あらかじめお詫びしたい。

ふざけているわけではなく真面目な話をしているつもりだが、我々が牛肉や豚肉や鶏肉を食べても、だからといって牛にも豚にも鶏にもならないのは、それらの肉そのものには、各動物の「性質」(味や香りなどいろいろ)はあっても、牛格も豚格も鶏格も(この「格」がペルソナ)、もはやないからである。

「ロゴスがサルクスから人性(human nature)を摂取した」としても「人格(human person)を摂取した」という意味で「人間になった」(became human being)わけではない。荒唐無稽だと言われれば返す言葉に困るばかりだが、イメージ膨らむ話題ではあろう。

こういう話の持って行き方や理屈のこねまわし方がとにかくイヤで、単純に元々ただの普通の人間が宗教的に崇拝される存在になっただけだとか、結局宗教はすべてほぼ妄想の共同幻想だとか言い放ってしまうほうが我々の腹に収まりやすいのはある意味当然でもあるが、そういうのは当然すぎて面白くはない。

ただ、「性」(nature)と「格」(person)の区別の問題は、すでにいろんな場面で直面しているはずだ。献体、臓器移植、サイボーグ。自分もしくは他者の身体の一部あるいは全体をどこまで客観的に「格」(person)なきモノとして見られるか。そもそもそういうのは全くありえないか。