2017年6月21日水曜日

教会が「内向き」になりすぎている

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25年私の説教だけ聴いてきた人(妻)から、たしか5年ほど前、「あなたの説教は学校向きかもね」と言われたことがある。教会にはやや不向きかもというニュアンスを含んでいた気はするが、批判的な意味ではなく、説教者しての私の長年の問題意識を肯定的に評価してくれる言葉だったことは間違いない。

遠い過去のことなのでそろそろ書かせていただくが、ある教会で「教会の奉仕」について牧師から話してほしいと依頼されたので、「教会の、世界に対する奉仕」について話したら、依頼者から不評を買った。「教会の受付当番や掃除当番などの役割分担」について話すことが、どうやら求められていたらしい。

正直に言えば、依頼者の意図は初めから分かっていた。「教会の受付当番や掃除当番など」の意味での「教会の奉仕」なしに教会は立ち行かないと言われれば、そうかもしれない。しかし私は、「教会が世界に対して奉仕する」という意味でないような「教会の奉仕」に意味はないと考えてきたし、今も変わらない。

使徒たちが「御言葉」に専念するために「奉仕者」(「執事」と訳す伝統もある)を選出したという使徒言行録の記事は有名だが、「奉仕者」の役割は狭い意味の「教会内のいろいろ」にもっぱら限定されることだっただろうか。その「奉仕者」に最初の殉教者ステファノが含まれていたことを忘れてはなるまい。

「教会の奉仕」が「外」に向かうものでないようなら、それは何だろう。同じことが「教会の伝道」にも当てはまる。「外」に向かうのでなければ、何が「伝道」だろうか。他の教会で十分に訓練を受けてきた人に来てもらえれば百人力だ、などと考えないほうがよいだろう。それだと差し引きゼロではないか。

「それは伝道ではない」で思い出したが、かつて近隣教会との講壇交換のとき「日曜日はうちの教会に来ないでください」と説教後の挨拶で言ったら、1年後、その教会の方から、自分の教会に不満を持っていたのでそちらに移る気でいたが先生の言葉で思いとどまったと言われた。ぜひ思いとどまってほしい。

「教会での奉仕」なしには「教会の、世界に対する奉仕」はありえないという貴重なご意見をいただいた。どちらが「大事」でどちらが「小事」かは難しいが、「小事に忠実な者は大事に忠実である」という教えの線でいえばご指摘のとおりである。ただ、その場合、「キリスト者とは誰か」という問題がある。

「キリスト者」とは「教会員」であり「教会で活動している人」を指すというのはひとつの立場だが、たとえば幼児洗礼を行う教会は「教会で活動している人」と「キリスト者」を同一視できない。また高齢者はじめ「教会で活動が困難な人」や「活動実態がない人」も「キリスト者」であり「教会員」である。

少し心配になったので日本基督教団教憲教規を確かめた。教規135条「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない」。幼児洗礼を受けて信仰告白をしていない人は「未陪餐」の「会員」、つまり「教会員」であり「キリスト者」であるという点は日本基督教団の定めに合致している。

教規140条「信徒が次の各号の一つに該当するときは、役員会の議決を経て、会員別帳に移すことができる。(1)3年以上住所が不明であるとき(2)理由なく3年以上教会に出席せず、かつ献金その他の義務を怠ったとき」。教会での活動実態がない人でも「別帳」の「会員」、つまり「教会員」である。

活動実態のない「教会員」を必ず含む「教会」が「世界に対して」何の「奉仕」ができるのか、現実問題として不可能ではないかという問いは当然出てこよう。だからこそそこから先が我々の考えどころなのだ。活動実態がないからといって「教会員」である人を「教会」自身が切り捨てることはできないのだ。

「未陪餐会員」も「別帳会員」も「教会員」であり「キリスト者」であると書いているのは詭弁を弄しているのでも教会統計をごまかしたいのでもない。この問題で現実に苦しんでいる人々がいる。日曜朝の数時間を教会活動に費やせる人々だけが「教会員」ではない。「教会」はもっと広く大きい存在である。

牧師が同じ教会にずっといるのでなく、いくつかの教会を経験することには良い面がある。どの教会も必ず直面する様々な問題について具体的な事例を挙げて話すことができる。しかし、牧師が同じ教会にずっといると、その具体例が「あの人のことだ」「あのことだ」とすぐに分かり、該当者の居場所を奪う。

「未陪餐会員」「別帳会員」について書いたのは自明といえば自明だが、あえて主張したいのは「全教会員の同等性」である。やっぱり優劣で考えてしまうし、「幽霊会員」だのと言い出される。日本だけではないと思うが日本の教会は、悪い意味でのアクティヴィズム(行為主義)に陥りすぎのところがある。

「礼拝に来た」か「来なかった」かが、すべてのすべて。何回か来なかったら「どうしたどうした」。心配するのはいいと思うが、いろんな詮索や中傷誹謗に近い話まで出てきたりして。何年か来なかったら「信仰を捨てた」。コミュニケーションが難しい人だったりすると「せいせいした」。どうかしている。

もっとはっきり言えば、目の前に「いる」か「いない」かがすべてのすべて。「いれば」求道者でも新来者でも「教会員」扱い。「いない」となると70年80年教会に通ってきた人でも無視、全否定。いくらなんでもまずい。指摘される前に気付いてほしいと思うが、指摘されても故意にしている場合もある。