2017年6月25日日曜日

心から神を礼拝しよう(千葉若葉教会)


ヨハネによる福音書4章21~23節

関口 康(日本基督教団教師)

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。』」

ヨハネによる福音書の学びの4回目です。4章に入ります。今日の箇所に登場するのはイエスさまとサマリア人の女性です。

イエスさまの伝道が進展し、多くの人に洗礼を授け、バプテスマのヨハネの弟子の数よりもイエスさまの弟子の数が多くなりました。それがファリサイ派の人々の耳に入りました(1節)。ファリサイ派の人々からすると、彼らに反対し、自分たちの地位を脅かす勢力が増大していることを意味します。それは彼らの側にイエスさまへの迫害の動機が増えているということです。

それでイエスさまはユダヤからいったん退き、ガリラヤへ行かれました(2節)。ガリラヤはイエスさまが伝道活動を開始した地ですので、出発点にお戻りになったことを意味します。そのイエスさまがユダヤからガリラヤへお戻りになる途中に通られた町が今日の箇所の場面です。それがサマリアです。「しかし、サマリアを通らねばならなかった」(4節)と記されています。

ここで「サマリアを通らねばならなかった」と書かれていることには意味があります。ユダヤからガリラヤへ行く道はひとつだけではなかったからです。サマリアを通る道は最短距離ではありました。しかし別の道もありました。多くのユダヤ人は別の道、もっと遠回りの道を通りました。サマリアを避けて通る人々のほうがほとんどでした。なぜならサマリアは当時の特にユダヤ教主流派の人々と対立関係にあったユダヤ教サマリア派ないしサマリア教の人々が住む町だったからです。

ところがイエスさまはそのサマリアを「通らねば」なりませんでした。ご自分がこの町を通ることには必然性があるとお考えになりました。しかしその必然性は地理的な必然性ではありません。地理的な意味で別の道がなかったわけではないのですから。そうではなくて伝道的な必然性です。「わたしはこの町に伝道しなければならない、福音を宣べ伝えなければならない」というイエスさまご自身の伝道的な決心です。その意味での「サマリアを通らねばならない」です。

しかしまたそれは「本当は通りたくないし、全く気乗りがしない。しかしこれが自分の義務であり使命なのだから、私は嫌でもなんでもこの道を通らなければならないのである」というような否定的な消極的な意味で考える必要はありません。もっと肯定的な積極的な意味です。この町に福音を宣べ伝えるのだ、喜びの知らせを告げに行くのだ、私はそうせざるをえないのだというイエスさまの決意表明です。そのようにとらえるのがいちばんよいと思います。

わたしたちはどうでしょうかと、ここでついわたしたち自身のことを考えたくなります。教会に来ること、礼拝をささげること、いろんな集会や活動に参加すること、献金すること。これらのことについてわたしたちは、しなければならないからする、嫌々ながらでもするというような感覚ばかりを持っていないでしょうか。

そういう感覚を持ってはいけないとは私は思いません。信仰生活、教会生活は一生ものですから。長い年月の間に、山あり谷あり、浮き沈み、熱いとき冷たいときがあります。わたしたちは皆そのようなところを通ってきました。しかし、義務だ責任だというだけだとつまらないです。面白くない。

今申し上げているのはイエスさまが「サマリアを通らなければならなかった」と記されていることから出発した連想です。イエスさまは、義務だから責任だから、嫌でもなんでもその町を通らなければならなかったのでしょうか。そのような感覚は、私たちにはあるかもしれませんが、イエスさまにまで押し付けなくてもよいでしょう。

ただひとつはっきりしているのは、イエスさまがサマリアを通った行為は当時のユダヤ人の常識ないし一般的な感覚に対して明確に逆らうことを意味していたということです。ほとんどの人が「行きたくない」と思っているところにあえて突入されました。

だれかがそれをしなければ新しい道が開くことはありえないと思われたからです。その意味でイエスさまは新しい道の開拓者(パイオニア)であり、常識や既存の価値観を打ち破る挑戦者(チャレンジャー)であったと言えます。

さて、イエスさまがサマリアに到着しました。するとイエスさまの前にひとりの女性が現れました。「そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」(4節)と記されています。

当たり前のことを言いますが、イエスさまは「疲れる」体を持っていました。のども乾くし、お腹もすく。わたしたちと同じです。のどが渇いたので井戸のそばに座り、疲れたので休憩しておられました。そうしたら、そのイエスさまの前に井戸から水をくむために来た女性が現れたというのですから、その女性の出現はある意味で必然的です。誰も来ないということはありえませんでした。毎日必ず人が集まるところにイエスさまがおられたのですから。

そしてその女性とイエスさまとの会話が始まりました。初対面の女性に気軽に声をかけるイエスさまが描かれています。「水を飲ませてください」とイエスさまが言いました。すると「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と返ってきました。このやりとりにも必然性があります。それが当時の常識であり一般的な感覚だったからです。

「あなたがたはわたしたちのことを嫌っているのでしょ。わたしたちだって嫌われている相手のことを好きになることなんかできませんよ。はっきり言わせてもらえば、わたしたちもあなたがたのことが嫌いですよ。だってあなたがたはわたしたちを嫌っているのですから。お互いさまですよ。そのユダヤ人であるあなたがどうしてサマリア人である私に『水を飲ませてください』などと言うのですか。けんかを売っているのですか」というような意味です。

するとイエスさまは、これまたものすごい変化球でお返しになる。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。

このイエスさまのお答えを聞いて、女性はいよいよカチンと来たようです。「なんなのあなた、偉そうに」と。ものすごく腹を立てていると思います。「主よ、あなたはくむ物をもお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供も家畜も、この井戸から水を飲んだのです」(11~12節)。

女性が言おうとしていることは2つあります。ひとつは「水を飲ませてください」と言っておきながら私があなたに生きた水を与えるであろうとか、わけの分からないことを言う。それで水をくむものを持ってもいない。飲ませてほしいなら「お願いします」でしょうに。くむものがなければ「貸してください」でしょうに。自分が頭を下げてお願いすることもできないでいて、なんでそんな偉そうなことが言えるのですかということでしょう。

もうひとつはその井戸の由来です。この女性が言っているとおりの歴史的に由緒正しい井戸でした。その井戸を掘り当てたヤコブをあなたは侮辱するつもりですか。この井戸でどれだけの人が助けられ、そこに人が住み、町ができ、歴史が刻まれてきたかを分かっているのですか。もしそれを知らずにいて「私が生きた水を飲ませてやる」というような偉そうなことを言うのであれば、歴史に対する冒瀆であり、侮辱ですよと言っているわけです。猛然たる抗議です。

するとイエスさまは、またお答えになる。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13~14節)と言われました。

だんだん禅問答です。女性としては、ますます腹が立ってくるような、しかし自分がふだん考えているようなこととは全く異なる次元のことへと誘導されているような、不思議な感覚を味わったのではないでしょうか。

「井戸の水は飲んでもまた渇く」。それは確かにそのとおり。「しかし渇かない水がある。それをわたしが飲ませてあげよう」とこの人は言い出した。大丈夫なのかこの人は。おかしい人ではないかと、この女性としてはだんだん心配になってきた可能性があります。

「だったらその水を見せてくださいよ。はいどうぞ、今すぐ。ほらすぐに。見せられるものなら見せなさいよ。そんな水があるわけないでしょ。やっぱり私をばかにしているのではないですか。悪いけどさっさとどこかに行ってください」と言いたくなるような。

しかしまたイエスさまはこの女性の心の中にあるものを言い当てられました。その内容は時間の関係で今日は割愛します。ぜひおうちで読んでみてください。理解するためのヒントとして申し上げられるのは以下の点です。

あなたの心の中に「乾き」がある。それは具体的にこのことではないか、そしてその「渇き」についてはいくら水を飲んでもそれで潤うこともいやされることもない。別の次元の解決が必要であるということを本人が気づくようなことをイエスさまがおっしゃっています。

そしてその意味での人の心の「渇き」の問題に対する解決策として、この女性自身が辿り着いたのが「礼拝」の問題でした。いくら水を飲んでも解決しない「心の乾き」を潤し、いやしてもらえる「礼拝」とは何かという問題に、この二人のやりとりがたどり着きました。

そのようにイエスさまが誘導なさいました。「誘導」という言葉がきつすぎるとしたら、彼女の発想の転換を助けてくださいました。決して押し付けるのではなく、すうっとうまく導いてくださいました。

しかしまだ問題が残っていました。それは「どこで」礼拝をするかという問題でした。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(20節)と女性は言いました。それは、サマリア人である私は「どこで」礼拝すればよいのでしょうかという意味です。

この女性の言葉には、私の心の「渇き」を見抜き、それを潤し、癒してくださる「あなたの説教」はどこで聞けるのでしょうかという意味が含まれていたと私は考えます。どこで行われる礼拝でならば私は救われますか。あなたの御言葉を私はどこで聞けますか。このサマリア人の女性が、自分の目の前にいる、まだ名前すら聞いていないその人のことをやっと信頼することができた、その瞬間に浮かんだ問いが「私はどこで礼拝すべきですか」ということでした。

その彼女の問いに対するイエスさまの答えが今日の朗読箇所に記されていることです。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(21節)。その意味は、場所は関係ないということです。

エルサレムに行かなくては本物の礼拝をささげたことにはならないなどということはありえない。場所はどこも構わない。ヴァチカンに行かなくては、歴史と格式のある伝統教会でなければ、著名な牧師がいる都会の巨大な教会でなければわたしたちの心が満たされることはありえないということはありえない。

そのような有名な場所の礼拝が「本物の礼拝」であって、他はすべて「偽物の礼拝」だなどということはありえない。ひとつひとつの教会の礼拝が「真実の礼拝」です。

バプテスト教会は「各個教会主義」ですので、この点は皆さんが最も強く主張してこられたところでしょう。

そして宗教の対立、教派の対立、民族の対立をすべて乗り越え、みんなで喜んで感謝して父を礼拝する時が来る。それがこの女性に向かって語られたイエスさまの約束です。

この約束は必ず実現するということに大きな希望をもって、わたしたちはこれからも歩んでいくのです。

(2017年6月25日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)