2017年6月22日木曜日

ファン・ルーラーの「人間尊重」の神学

アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(1908-1970)

これも古代由来の神学用語だが、「エンヒュポスターシス」と「アンヒュポスターシス」がある。両者共にキリスト論の用語であり、三位一体の第二位格が非人格的人間性を摂取することを指す。しかし両者の違いもある。前者は、人間としてのイエスの存在は神的「我」における我として見いだされるとする。

後者は、人間としてのイエスの存在はいかなる固有の人間的な我をも有しないとする。両者は、キリストの「二性一人格」の教理、すなわちイエス・キリストは真の人性と真の神性との二つの性質を持ちながら、二重人格者ではなく統一人格を持っている、という教理の説明についての異なる2つの説明である。

前者(エンヒュポスターシス論)は、神の言(ロゴス)がマリアから人性(サルクス)を摂取した(humana natura assumpta)とき、その人性(サルクス=肉)には自立した固有の「人格」はないとする。そうでないとイエス・キリストが二重人格者になり、ネストリウス主義になる。

後者(アンヒュポスターシス論)も、言ってみれば論理的によく似ている気もするが、神の言(ロゴス)の「受肉」(incarnatio)という論理は後退し、イエス・キリストの存在においては「人間的な我」としての人間的な人格(ペルソナ)は存在せず、もっぱら神としてのペルソナがあるとする。

つまり両者に共通しているのは、要するにイエス・キリストの「二性一人格」を言いたいだけであるということだ。神としてのペルソナと人間としてのペルソナの両方を自らの存在の内部に抱え込む仕方で内的に葛藤するイエス・キリストではなく、あくまでも統一人格の持ち主であると言いたがっている。

しかし、ここから先が「現代の論争点」である。このイエス・キリストの「二性一人格の教理」(エンヒュポスターシス論であれアンヒュポスターシス論であれ)を中核とする「キリスト論の論理」と「聖霊論の論理」を混同するとキリスト教の信仰も神学もめちゃくちゃに破壊されてしまうと言った人がいる。

ファン・ルーラーである。たとえば教会や信仰について考える場合、イエス・キリストにおける「二性一人格」の論理をそのまま当てはめると、教会や信仰において機能すべき「人間性」について、それ自体において自立した人格性はなく、非人格的なサルクス(肉)があるだけだと言わなくてはならなくなる。

そんなのはめちゃくちゃだとファン・ルーラーは主張した。教会や信仰には必ず「葛藤」がある。神のみこころと人間の思いとの激突がある。ファン・ルーラーは「葛藤こそが聖霊の働きの特徴である」というような言い方をした。聖霊論については「二性二人格」(ネストリウス主義)で構わないと言った。

この「キリスト論の視点」と「聖霊論の視点」の構造的な違いについての主張が、ファン・ルーラーを最も有名にした。ボーレンやモルトマンに影響を与え、「バルト後の神学」の道を開いた。この議論の中で「エンヒュポスターシス」や「アンヒュポスターシス」という古代の神学用語が繰り返し用いられた。

エンは英語のin(中に)。アンは「無い」。エンヒュポスターシスを「位格内」、アンヒュポスターシスを「非位格」と訳す人がいる。前者は「神的ロゴスのペルソナ(位格)の中に非人格的サルクスが摂取される」で、後者は「神としてのペルソナ(位格)には人間としてのペルソナ(位格)はない」。

ファン・ルーラーのこの議論は、カール・バルトの「キリスト論的集中の神学」への明確なアンチテーゼとして提示されたものである。ファン・ルーラーはバルトの神学を「キリスト一元論」(Christomonisme)と呼んだ。それは「キリスト一辺倒の神学」などと呼びかえることもできるだろう。

精密に書くと「ワケワカラン」の一言で封殺されてしまうので、最後に簡単にまとめておく。ファン・ルーラーの主張はいとも単純だ。教会と信仰における「人間性」(humanity)と「人間的なるもの」(Human beings)を侮辱するな、と言っているだけだ。「モノじゃねえよ人間だ」と。