2017年6月1日木曜日

説教は「新しい言葉」である(ランゲ)

J. H. ファン・デア・ラーン『エルンスト・ランゲと説教』(1989年)

明後日土曜はジェットで移動する日で、ラップトップを持っていないので、説教原稿は明日金曜までに仕上げなくてはならないが、どうにもまとまらず心理的に追い詰められている。6月から急に怒涛の忙しさになることは自分で求めたことでもあり、もちろんあらかじめ分かっていた。うれしい悲鳴ではある。

「何を今さら」とか「当たり前だろ」とか言われそうだが、心理的に追い詰められて頭を掻きむしりたいときこそギリシア語新約聖書を開いてひとつひとつの語や文の意味を辞書で調べることの大切さを実感する。そこで気づいたことや考えたことをそのまま字にしていくと「新しい言葉」の土台が見えてくる。

説教とは「新しい言葉」であると私がとらえるようになったのは、オランダの説教学者J. H. ファン・デア・ラーン(van der Laan)の博士論文『エルンスト・ランゲと説教』(Ernst Lange en de Prediking, 1989)を何年か前に手に入れたときからだ。

エルンスト・ランゲ(Ernst Lange)は1927年に生まれ1974年に亡くなったドイツの牧師であり実践神学者である。経歴がウィキペディア(ドイツ語)で紹介されている。写真もネットで検索すれば出てくるが、かなりのイケメンである。

このランゲの説教と説教理論(説教学)を研究して博士論文を書いたのがオランダ人のファン・デア・ラーン(Jaap H. van der Laan)である。その博士論文の指導教授は「オランダ神学の三巨頭」のひとりと名指されるG. C. ベルカウワーの弟子であるクラース・ルーニアである。

このファン・デア・ラーンの博士論文の中に「新しい言葉」(Neues Wort)というタイトルのサブセクションがある(J. H. van der Laan, ebd, 1989, 118v)。そこで「新しい言葉」こそがランゲの説教学を理解するための鍵となる概念であると言われている。

そしてファン・デア・ラーンは、ランゲが説教をどのような意味で「新しい言葉」であるととらえていたかを次のように要約している。

「聖書テキストから我々の状況へ、そしてまた我々の状況から聖書テキストへというこの往復運動の末にたどり着く答えは『新しい言葉』(Neues  Wort)である。我々はそれを根本的にとらえるべきである。説教が『神の新しい言葉』(neues Wort Gottes)であるかどうかは問われていない。しかし『教会の新しい言葉』(neues Wort der Kirche)であるかどうかは問われているのだ。」(Van der Laan, 120)

今書いていることは知ったかぶりのつもりはない。私は本当に感動し、慰められたのだ。我が意を得たりとも思った。教会の牧師として毎週毎週、たった1回しか使うことなくただ廃棄するしかない原稿を何時間もかけて書いてきた。これが「新しい言葉」でないなら何の意味があるだろうと何度思ったことか。

「それは奇をてらう言葉なのか」とか「最新流行を追う言葉なのか」とか問われることになるのだろうか。そのようなことを私が言いたいのではないし、ランゲもそのようなことは言っていない。ああ言えばこう言う式の面倒なやりとりは望まない。「新しい言葉」は読んだ字のとおりだ。他に言いようがない。

私が言いたいのは、聖書テキストと我々の状況との間の「ギャップの橋渡し」(bridging the Gap)を担うのが説教の役割であることは明白であり、かつ我々の状況のほうが絶えず変化している以上、毎週の説教が「同語反復」であることはありえないし、あってはならないということである。

なんだのかんだの考えているうちに日付が変わる時刻になったので、これにて終了。説教ではなく説教論に時間を費やすことになった。まあよい。これも大事なことだ。視座が定まらないと論旨も定まらない。