2017年6月22日木曜日

三位一体の神は「外向き」に働く

「出かける人」のイラストを描きました
「見送る人」のイラストを描きました

古代由来の神学用語だが、opera Dei trinitatis ad intraとopera Dei trinitatis ad extraが区別される。前者は「三位一体の神の内なるみわざ」、後者は「~の外なるみわざ」。「内なる」の意味は内向きで「外なる」の意味は外向きである。

神が「内向き」であったり「外向き」であったりするとは何を意味するか。「内向き」とは三位一体の父・子・霊がいわば自己完結している状態を指す。神に欠乏はなく、いかなる他者の助けも要らない。世界も人間も、神の欠乏を補う存在ではない。その意味で、神にとって世界と人間の存在に必然性はない。

しかしその「内向き」でもありえた神があえて「外向き」になった。神は世界と人間を創造し、保持することを決意し、実行した。人間は神に逆らう存在になったが、神は人間を見捨てず、世界と人間を罪の中から取り戻すことを決意し、実行した。その神の「外向き」の働きは終末における完成の日まで続く。

おとぎ話のようではあるが、含蓄は深い。まるで神が我々のようだ。あなたが望むなら、他者との交流をすべて断ち切り、自己完結して引きこもってもいられるが、あえて面倒くさい「外」へと出ていく。「外」には争いがあり、傷つきもする。しかし、「外」でこそ世のため人のために貢献できることがある。

神も「外出」する。外で働く。出張もする。どこへでも行く。世のため人のために貢献する。面白い話ではないか。神が「外向き」でこそあるなら、教会が「内向き」であってよいはずがない。そもそも「教会」自体は「神」ではない。教会が自己完結することは「すべきでない」だけでなく「不可能」である。