2016年9月8日木曜日

組織神学の存在ゆえに安心して聖書を「過去の書物」と呼べる

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教員が一方的に話すだけの授業だと寝落ち続出であることをも鑑み、夏休み明けから授業を参加型にして、チームでプレゼンをしてもらうことにした。イラストもオッケーとしたら私の似顔絵を書いてくれるチームが複数出現したが、どれも「それ森永卓郎さんの似顔絵ですよね」と言いたくなる作品だった。

ネタバレはしないでおくが、新しい試みによって新しい課題が見えてきた。「聖書」に描かれている世界の始まりの様子がそのまま「キリスト教」の考え方であるわけではない。「聖書」と「キリスト教」と「現代社会」を結ぶ帯の一つが(遠慮して「の一つが」と書いておく)組織神学であり、教義学である。

それは「帯」であり、あるいは「架け橋」であり「緩衝材」でもある。分かりやすいところを書けば「キリスト教の人は七日間で世界が造られたと思ってるんでしょ」と言われることがあるが、「いいえ違いますよ」と何の躊躇もなく応えることができる。その論理の仕組みの中で重要な要素が組織神学である。

ネタバレしないように書いているので、曖昧なことしか今はまだ言えないが、我々が安心して聖書を「過去の書物」と呼ぶことができるのは「組織神学」が言葉の正しい意味で「現代思想」である/になるときである。もし組織神学がなければ、そのような恐ろしい言い方も判断も行為も、とてもできはしない。

しかし、たとえば「世界の始まり」をどう考えるのかという問いそのものが組織神学の問いである。「聖書にこう書いてある」と「私は聖書に書いてあることを信じる」と「だから私は世界の始まりをこのようなものとしてとらえる」との間に「帯」も「架け橋」も「緩衝材」もないようなら、ほぼ暴力に近い。

このように言うと「そうだ。教会は組織神学(教義学)の名のもとに現代社会に暴力を働いてきた」というようなことを言われることもある。しかしそれは、ある意味で誤解である。私の言い方をお許しいただくなら事情は正反対だ。むしろ、教会に組織神学が足りないからそのような暴力を働いてしまうのだ。