2016年9月19日月曜日

私は自由に書きたいことを書くだけだ

うちでマック。まっくのうち。
やっと今日の仕事が終わりました(仕事してたんかい)。三連休最終日は午後イチからずっと書斎に引きこもって仕事。やっぱりダメでした。連休知らずの長年の習慣に勝てませんでした。連休慣れしていない。連休を休みぬくためには連休の特訓をしなくちゃですね。行くぜ連休。根性入れろ。れんきゅ~っ。

ブログのことをあとちょっとだけ。ブログタイトルは試行錯誤を経て「関口康」になった。一時期「関口康日記」だった。説教は「今週の説教」、ファン・ルーラー関係は「日本語版ファン・ルーラー著作集草稿」というブログにそれぞれ分けて管理していた。分けるのが面倒くさくなったので一つにまとめた。

ブログタイトルに自分の名前だけを書くというのはヘンテコな感じかもしれないが、考えてみればツイッターだってフェイスブックだってみなさん自分の名前でやっておられるわけで。ひと昔前っぽい「電脳牧師なんちゃら関口のさわやかブログ」(?)みたいなネーミングは、小っ恥ずかしくて耐えられない。

ブログのアドレス(URL)をかっこいいのにしたいと考えていた時期もあった。有料のドメインを使っていた時期もあった。しかし、グーグルやヤフーで情報を探す人にとってはアドレス(URL)のかっこよさはどうでもいいことだと分かったので、そういうのは基本すべて、自分の名前を使うことにした。

それと、ブログのタイトルでもアドレス(URL)でも自分の名前を使うことにしたのは、ブログの全投稿はいかなる団体や組織をも代表しておらず、すべて個人的な発言であることを明示するためでもある。私はどこの教会の公式ホームページや公式ブログも、いまだかつて作ったことも管理したこともない。

私のセンスだけで言わせてもらえば、教会の公式ホームページであれ、公式ブログであれ、そのようなものに掲載するすべての記事は、定期的ないし随時開催される教会役員会(教派・教団によって呼称が異なる)の議決を経た相当厳密な意味での公式見解でなければならない。そこをスキップしてはならない。

説教はどうなのか。私の考えでは説教は「牧師の個人見解」である。少なくとも教会役員会の議決を経なければ公開できないようなものではない。あえて著作権を言うなら、説教の著作権はすべて牧師個人にあると思う。ただし教会の公式ホームページのようなもので公開した場合は事情が変わってくるだろう。

しかし、今書いているのは、法律上の問題では全くない。私がブログのタイトルやアドレス(URL)に自分の名前を使っているのは、どこの団体も組織も代表していない一個人の発言として書いていることを明示するためにしていることだという点を、いくらか詳しく説明しようとしているだけのことである。

今年4月からブログでもツイッターでもフェイスブックでも「日本基督教団教務教師」をあえて名乗るようにしたが、この肩書きを見て「日本基督教団」という団体を代表する者であると思う人がいれば、それはよほど事情を知らない人である。分かる人には分かる。これは実は何をも代表しない肩書きである。

つまりは、私のブログの書き込みの全責任は「関口康」にある。いま言いたいのは、ただそれだけのことだ。私の発言の責任をだれにも転嫁するつもりはないので、だれひとり私に代わって(勝手に)責任を感じないでほしい。もちろん言葉は慎重に選ぶが、私は自由に書きたいことを書く。ただそれだけだ。