日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東) |
関口 康(日本基督教団教務教師)
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
今日開いていただきました聖書の箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙の一節です。この手紙はパウロの生涯の最晩年に書かれたものであり、パウロの信仰告白ないし神学の集大成というべき内容が記されています。
パウロの信仰告白、あるいは彼の神学は、時間の経過、また彼自身の伝道者としての体験の中で次第に進化していきました。その進化を経てたどり着いた完成形がこの手紙に見られます。そしてそのパウロの信仰告白における重要なターニングポイントは、彼がユダヤ人に対して直接的に伝道することをやめて、もっぱら異邦人に伝道することを決心したあたりにありました。
パウロ自身はユダヤ人であり、自分の同胞であるユダヤ人たちが救われることを心から願っていました。しかし、ユダヤ人のキリスト教会に対する迫害が激しいうえに、もともとパウロがユダヤ教のラビになることをめざして生きていたことや、パウロ自身もかつてはキリスト教会に対する熱心な迫害者であったことをよく知る人々から激しい妨害を受けました。それでユダヤ人に直接伝道するのを断念することを余儀なくされたのです。
パウロに示された新しい道、それが異邦人伝道でした。それは迂回路(バイパス)作戦でした。それはどういう意味であるかは、11章11節以下に書かれています。
「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:11~13)。
パウロが何を言いたいでしょうか。簡単に言えば、パウロが異邦人に伝道するのは、それによってユダヤ人が救われるためだということです。なぜそうなるのかといえば、異邦人がイエス・キリストを信じる信仰に基づいて祝福された人生を歩き始め、喜びと感謝にあふれる異邦人たちの教会が立ち上がっていけば、それを見たユダヤ人が嫉妬して、うかうかしておれなくなるということです。
ユダヤ人たちにとって異邦人は凄まじいまでの激しい軽蔑の対象でした。その異邦人たちがユダヤ人に勝るとも劣らない信仰深い教会を作り上げる日が来るだろう。それを見るユダヤ人たちが異邦人に負けていられるかと競争心を抱いて、我先にとイエス・キリストを信じる信仰を求めるようになるだろう、とパウロは本気で信じたのです。本気で信じたからこそ、孤独で過酷な世界伝道旅行を3回も行ったのです。
しかし、結果はどうであれ、パウロが思い描いたこの壮大な伝道計画そのものが尊いものであると私は考えます。内容は単純そのものです。異邦人が先に救われることによってそれを見たユダヤ人が後から救われるだろうということです。「後の者が先になり、先の者が後になる」というイエス・キリストの御言葉が実現する。それがパウロの信仰告白であり、神学です。
そして、この使徒パウロの迂回路作戦において重要な鍵となる教えが、今日開いていただいた箇所に記されている「贖罪による罪の赦し」です。
内容的にはかなり難解な面がありますが、ひとことで言えば、ユダヤ人のように律法の教えを守ることによって神の義を得ようとする律法主義の道を通らないで、それとは別の道を通って、すなわちバイパスを通って神の義を得られる道があるという教えです。それが、イエス・キリストによる贖罪の業によって切り開かれた新しい救いの道であるという教えです。
パウロによると、その道は「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて」(21節)示された神の義を得る方法です。律法とは「関係ない」のに律法によって「立証」されるというのは、矛盾しているようでもあります。しかし、新約聖書の中で「律法」と「預言者」が続けて書かれているときは旧約聖書を指します。パウロが言おうとしているのは、ユダヤ教的な律法主義ではない別の迂回路を通って神の義を得る道には旧約聖書的根拠がある、ということです。
そしてその旧約聖書的根拠として代表的な箇所がレビ記4章以下に記されている「贖罪の献げ物」に関する規定です。
油注がれた祭司が罪や過ちを犯した場合と、イスラエル共同体がそうした場合と、共同体の代表者がそうした場合と、一般の人がそうした場合と、貧しい人がそうした場合とで、それぞれ異なる規定が定められていますが、共通している要素は、裕福な人の場合は牛なり羊なり山羊なり鳩なりの動物、貧しい人の場合は小麦粉なりを臨在の幕屋に携えていき、それらを犠牲として主の前に献げることが求められている点です。
動物の場合は屠殺する。小麦粉の場合は燃やす。それによって本来ならば罪や過ちを犯した本人が受けるべき罰を動物や穀物に代わって受けてもらうことで、本人への罰が見逃されるという方法です。
その「贖罪の供え物」そのものにイエス・キリストがなってくださったというのが、今日の箇所に記されているパウロの教えです。イエス・キリストは、まさか牛でも山羊でも羊でも鳩でもありませんし、小麦粉でもありません。教会の信仰によれば、イエス・キリストは神の御子であり、御子なる神であられるお方です。しかし同時に、わたしたちと全く等しい生身の人間でもあられます。
そのわたしたちと全く等しい生身の人間としてのイエス・キリストが地上の生涯において苦しみ抜かれ、最期は十字架上で処刑されて殺害されたことによって、牛でも山羊でも羊でも鳩でもありえないし、小麦粉でもありえないイエス御自身が「贖罪の供え物」として主の御前に献げられたことで、本来は厳しい罰を受けなければならない罪を犯したわたしたち人間に対するその厳しい罰が見逃されたのだというのが、この箇所に書かれているパウロの教えの真意です。
しかしまた、このパウロの教えが成立するためには、イエス・キリストは人間以外の他の動物でもなければ穀物でもない、まさにわたしたちと全く等しい生身の人間であられることを信じつつもなお、もう一つの重要な側面として、イエス・キリストは人類の罪を一身に引き受けてその死をもって贖罪をなし遂げることができる人間以上の存在として、すなわち真の神の御子であり、御子なる神であられる存在として信じられる必要があることをパウロは知っていました。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(22節)と言われていることの意味です。
高校生たちに繰り返し言っていることですが、「イエス・キリストを信じる」と言う場合の「イエス」と「キリスト」の間の中黒(・)の意味は等号(=)です。「イエスはキリストであると信じる」ことです。イエスこそ神の御子であり、御子なる神であり、真の救い主であられることを信じることです。
価値論的にいえばイエスの命は神の命と等しい価値を持つ。その方の命が贖罪の犠牲として献げられるのでなければ全人類の罪を贖うことはできない。ただの人の命が献げられるだけでは贖罪は完成しない。人が罪や過ちを犯すたびに旧約聖書に従って動物なり穀物なりの供え物を献げ続けなければならない。しかし、そのような儀式は異邦人には意味不明であるし、負担が大きいし、事実上不可能である。そのような中でもはや動物や穀物による贖罪の儀式はイエス・キリストの犠牲の死によって廃止されたゆえに不要であるという真理に異邦人伝道者としてのパウロも強く立つ必要がありました。
しかし、イエス・キリストが流した血によって旧約聖書的な意味での贖罪の儀式が廃止されたことを強く訴えているのは、著者の名前が記されていない、教会史のかなり初期の頃からパウロの書簡ではないとされてきたヘブライ人への手紙です。パウロ書簡の中に旧約聖書的贖罪とイエス・キリストの関係について明確に述べている箇所は見当たりません。
私が今日の箇所から皆さんにお話ししたいと願っていることは、すでに述べてきたことの繰り返しですが、イエス・キリストの十字架上の死を「贖罪」としてとらえることの最も大きな意義は、旧約聖書的な意味での動物や穀物としての「贖罪の供え物」を主の御前に献げる儀式はもはや廃止されている、ということに尽きます。
わたしたちが神の御前に献げる供え物は、動物でも穀物でもない。仏壇や神棚を揶揄する意図で言うのではありませんが、仏壇や神棚にお供えする御飯や果物のようなものを教会に携えて来る必要はありません。わたしたちが献げる礼拝に、つぐないやお供えの要素はありません。献金も奉仕活動も同じです。これはお供え物ではありません。償いでもありません。献金はそういう意味で献げるものではありません。
だからこそパウロは次のように宣言しています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)と。
これは「罪を犯した人間は自分の命を神の御前に差し出して、死んで償いなさい」という意味ではありません。全く正反対です。イエス・キリストの命によって贖い取られた者として、罪赦された者として、神が喜んでくださり、その神の喜びに共にあずかり、自分自身も心から喜び、自由かつ大胆に生きていきなさいという勧めです。
それは、旧約の掟からも、「死んで償う」という強迫観念からも解放されて生きることができる自由の道です。今日において贖罪論を説く意義はそのあたりにあります。
(2016年9月11日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会主日礼拝)