2016年9月11日日曜日

日曜日の朝につれづれ思うこと

記事とは関係ありません
「ホームページやブログを作ってみたが、顧客は増えないし閲覧者も少ないので作っても意味が無いと分かった。現実は厳しいものだ」という声を最近聴いた。反論はしないが、判断が拙速すぎるとは思う。どんなことでも、せめて10年は続けないと。ネットの特性の問題というより、仕事全般に言えること。

しかし会社はともかく、教会もともかく、牧師個人がせめて10年と、黙々とホームページ、ブログ、SNSを続け、守秘義務は厳格に守りながらも通り一遍のつまらないことでないリアルを書いていると、猛然たる抗議を受け、生活基盤まで失うことになることがあるので、どうしたものかと悩みは尽きない。

過去の経験から言えるのは、少なくとも日本のキリスト教会は外からの批判に弱く、自己批判もできないし耐えられないきわめて脆弱な組織だということ。よく言えば(よく言えば?)「ほめられて伸びるタイプ」なのだと思う。キツイこと言われると「もう教会に行きません」のひとことで済んでしまうもの。

あとは、やはり日本でキリスト教会は少数派なのに過大評価されがちなので、将来的に(何世紀後かは不明)競合関係になりうる人々にとっては早いうちに根絶したい相手かもしれず、キリスト教会の自己批判は「そうだそのとおり、教会なんかやめちまえ」とその人々に言わせる根拠を提供することにもなる。

だから私は、少なくとも日本のキリスト教会は、積極的に自己批判などしないほうがいいと実は考えている。自己批判に耐えられない自らの脆弱さをもっと自己受容すべきだと思う。自分の願いが教会で受け容れてもらえないとかなんとかで吐き出しているような、ただの憂さ晴らしなんか誰も聞いちゃいない。

成人化した教会とか、無宗教的キリスト教とか、「神は死んだ、あたかも神なき者であるかのように生きよ」とか、そういう話が通用することが数世紀の歴史をもつあちらの教会ではあるかもしれないが、日本のキリスト教会はその意味ではまだ嬰兒だ。嬰兒に「しつけのため」とスパルタ教育するのは虐待だ。

さて今日はこれから教会で説教。教会から世へ、世から教会への往復運動(heen en weer beweging; Back-and-forth movement)が重要だとファン・ルーラー先生が繰り返し書いておられる。それを黙々と続けるだけで風穴ができる。澱むのは動かないからだ。