2016年9月18日日曜日

「ブログを続けてきてよかったです」のダークサイド

内容とは関係ありません
負け惜しみとしか読んでもらえそうにないが、牧師の存在の意味が無くなっているのは「教会的な」価値観が発揮される要素が「意味なし」と見られることと連動していると思う。私の体験ではないが、牧師招聘の際に神学校入学以前の学歴が問われたり、世間に通じる特技を求められたりするのは最たる現象。

字で書いてネットで開示するのはこれで10回目くらいだが、くれぐれも念を押したいのは、私はネットで伝道する気はないということだ。説教原稿を公開する主旨も繰り返し書いてきたとおり、説教後の「言った言わない」の不毛な論争に巻き込まれないための危機管理の一環であって、それ以外の意図はない。

説教者には、みずからの説教によってみずからの身を危険にさらすことを回避できないときがある。その説教者の人事権を握る人々の心地よさを保証するような言葉だけを語る説教者は真の説教者ではない。その人々にとってあからさまに不快な言葉を語ることがありうる。聖書がそう語るように強く促すからだ。

ただ、その場合でも説教者はみずから語った言葉に責任をとる必要があるので、その言葉をできるだけ広い範囲の人々に開示し、その言葉はその説教者の人事権を握る人々にとっては不快な言葉かもしれないが、今こそ語られるべき真理の言葉であることを理解してもらえる人々に共有してもらうことが肝要だ。

そのための現時点で最も有効な方法が説教原稿のブログ公開だ。説教者が密室で絞め殺されないために。「あなたは○月○日の説教でこう言った(我々に不都合な言葉を語った)。我々への当てこすりである」「いえ、そのようなことは申しません。それは誤解です」「いや、言った」。この不毛さよ!!

ブログに書いておけばね、「ブログ読んでください。他の多くの人も読んでますよ。私が本当にあなたがたの言うような意味のことを説教で語ったかどうかはその人々が判断してくれますよ」で済む。実際、ブログに説教を公開するようになって、その種の「哀れなほど不毛な」言った言わない論争が止んだ。

牧師が危機管理してはいけないだろうか。保身かもしれないが、説教原稿を広範囲に開示することで得られる保身なら「良い保身」(?)ではないだろうか。説教者の人事権を握る特定の少数者の歪んだ聴き方だけで説教の真価を判断されては困ることがありうる。真に悔い改めるべきは、あなたがたである。

しかし、このような辛辣なことも、今の私が一時的なのかどうなのか教会担任教師の職務から離れて学校の教務教師になっているゆえに書けることだと思う。50歳で50年教会に通ってきた「教会大好き人間」である私に、ここまでひどいことを書かさないでください、教会さま。よろしくお願いいたします。