今の大学生や高校生の親の世代の人が乗っていた自動車のカタログ |
4歳上(1961年生まれ)の牧師から「関口くんすごいね」と言われて「何がですか」と返したら、「ネットネット。ぼくはやろうとしてもなかなか。いつもパソコンの前にいるの?」「いえいえそんなことは」と答えるので精一杯でしたが、私と同期の「1965年生まれ」が分岐線だという自説が強化されました。
そういえば、Windows95(1995年)がちょうど30歳だったのが1965年生まれですね。デジタルネイティヴではありえないけど「デジタル一般人」の最初の世代というところでしょうか。その子どもたちの世代である今の大学生や高校生は本格的なネイティヴです。
それでも気をつけなくてはならないのは、大学生でも高校生でも全員必ず自分のパソコンを持っているわけではないし、必ずネットでつながっているわけでもない、ということです。経済と無関係ではないです。「持たなければならない」という強制力が少しでも働くと、思い詰める生徒は一定いる気がします。
私は理系の実兄(1961年生まれ)から譲られたラップトップにインストールされていたWindows3.1から出発しましたが、そのラップトップがある事情で壊れてしまい、無PC期を1年過ごした後、Windows95は使わずじまいでWindows98のデスクトップを1998年に買いました。
ITの専門知識をほとんど全く持たずにネットを使う「デジタル一般人」の出現とそれ以前の「分岐線」が「1965年生まれ」だろう、というのが自説です。元IT社員だったような方々が「脱サラ」(揶揄や貶める意味ではないです、当時普通に使われていました)で牧師になるという話をよく聞きました。
同時に、牧師にも2種類(皮肉ではないです)のタイプが出現したと思います。初めからITに詳しいとか、かなりのスキルをもって牧師になったという人々と、何の知識もないけどパソコンやネットのほうが「一般化」され、だれでも使えるようになってきた環境を利用しはじめた「デジタル一般人牧師」と。
私は後者の「デジタル一般人牧師」をやってきたつもりです。なので「関口くんはすごくない」です。IT知識ゼロという時点で。東京中心の発想の片鱗にちょっとでもふれると激怒するタイプの地方出身者ですので、東京ご出身の方々の体感判断と私のそれが7、8年ずれるというのは十分ありうることです。
このことを書きながら最も深く考えていることは、「牧師がいつもパソコンの前にいること」(私がそうであった/そうであるという意味ではない!)がまるで「悪いこと」であるかのようにやり玉にあがり、非難されるというこの理不尽な風潮は一体いつになったら終わるのだろうかというあたりのことです。
そういう非難を受けた経験をもつ牧師は少なくないです。定期的に通っておられる病院で長く待たされたうえ、診察室にいれてもらえても自分の顔を見てくれず、パソコンの画面だけ見つめている医師たちが増えたことと関係あるでしょうか。パソコンの画面を見つめる人の横顔がお嫌いになったのでしょうか。
お気持ちは理解できるので、「デジタル一般人牧師」の私は、教会では嫌われることの多い「パソコンの画面を見つめる牧師」の姿を見せないように、すべての人が寝静まった頃、まるで「悪いこと」を隠れてしているかのような理不尽な気分に晒されながらメールを書いたり資料作成をしたりしたものでした。
いま書いていることは「今の高校生が生まれてから小学校を卒業するまでくらいの頃の思い出」です。私の思い出ですが、同様の感覚をもっている同世代の牧師の話を聞いてまとめている面もあります。この当時と今の「教会」は変わったでしょうか。変わっていないなら、高校生たちとのズレは相当深刻です。
「教会から子どもがいなくなった」と嘆き、「中学生や高校生に教会に来てもらいたい」と願う思いは私も同じです。しかし、教会と今の学生・生徒・児童の生活感覚がズレまくっている状態では、お互いに居たたまれなくなるだけであることは目に見えています。それぞれ居心地の良い所にとどまるでしょう。
それでいいという意味で書いているわけではありませんが、なにごとも無理強いするのは危険です。教会が態度を変えられないなら、今の学生・生徒・児童が自分の方向を変えることは、もっと無理です。自分は変わる気がなく相手だけを変えてやろうと思っている人たちの腹の中は、すぐに見破りますからね。