2016年7月18日月曜日

姦通を犯した女性の物語について

記事とは関係ありません
姦通を犯した女性を前にイエスが「あなたがたの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい」と言い、そこにいた人が一人また一人と去ったあと「わたしもあなたを罪に定めない」と言ったのはイエスの思想である以上にイエスの実践だった。考えただけではなく、女性の生命を守るための行動だった。

内容の軽重はともかく罪を犯した者の罪を無条件に赦してしまえば社会の秩序は保てないし、被害者の無念は晴れないので、イエスの思想に反対であるという立場はよく分かる。しかし、イエスはどんなに反対されても姦淫を犯した女性の生命を守る側に立った。それはイエスの思想ではなく実践だったからだ。

イエスはマッチョだった論を展開したいのではない。だけど、頭より口より体が先に動いた人だったのではと思う。論より実践が先。なんだかんだ言っている相手を無視するために(としか言いようがない)地面に何かを書いている姿はユーモラスでさえある。相手の論に乗らない。屁理屈に屁理屈で返さない。

その意味ではイエスは野球部向きかもしれない。もちろんスポーツ全般なんでも。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測、ジャンプしながらキャッチ。スポーツ音痴の私には全く不可能だが、球技の選手はそれをいつもする。立ち止まって考えるヒマなどない。

自分の目の前で今まさに処刑されようとしている人がいて、なおかつ、その人の生命を守らなければならないという判断をした場合、立ち止まって考えるヒマはたぶんない。えっと、法に照らし合わせてどうだろう、論理的整合性はどうだろう、などと考えているうちに、その人の処刑は終わってしまうだろう。

どうするか。野球部作戦だ。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測。ジャンプしながらキャッチ。相手の屁理屈が始まった瞬間にダッシュ。処刑する人とされる人の間に体をはさみながら議論の落下点を予測。話が飛躍していようとお構いなしに逃げ道を確保。

だれかの生命を守り、そのだれかの未来を生み出す努力には、その人の側に立ってその人を守ろうとする人自身の生命が脅かされるという皮肉な側面が絶えずある。その脅威に耐えられるようになることが、人としての成長ではないか。人を生み(狭義の出産に限らず)育てる役割を担いうる大人になるための。

しかしイエスは、だからといって、どんな人でも自分と同じようにできるとは考えていない。人をかばうどころか自分のことも持て余すほど余裕がない我々人間の現実を、イエスは熟知している。だからイエスは我々の屁理屈を無視する。たいていそれは我々の自己弁護にすぎない。傾聴に値しない戯言なのだ。