2016年7月25日月曜日

本当に「君の名は希望」なのか

4年2ヶ月使用してきた私のケータイ(まだまだ使える)
ぎゃあああ。仕事終わって借家に帰って書斎の座椅子に座ったら、後ろからカール・バルトの教会教義学の原著第三巻第二分冊のぶっといのがすううっと滑り落ちて来て、背中にぶつかって来たああ。八百頁もあるうう。嘘八百かああ。八百万のなんとかかあああ。痛てええ。血が出るうう(血は出てません)。

大げさにいえば18世紀啓蒙主義以降「信仰と理性」だ「神学と学問」だと抽象的に表現されてきたことを学校界で実体的に認識させられている。否定的な意味ではない。学業成績を保つことと聖書をポジティヴに学ぶことは「両立」するかどうかという問いだと思えばよい。ナニ両立するに決まってるじゃん。

ぜひ次は「ドラクエGO」をお願いしたいです。なんといっても「教会」がありますからね。物入れ小怪獣探しでうろうろされるよりは「よみがえり」のために来てもらえるほうが、教会としては歓迎ムードかも(謎

そりゃ私は日本がキリスト教国になるまでがんばるに決まってるわけで、そこを言わずにむにゃむにゃ言ってカムフラージュして人畜無害のふりする意味が分からないわけで。しかもそれを「洗脳」なんていう非道な手段を用いずにやるという。電極埋め込みとかすることですよ「洗脳」。するわけないじゃん。

お友達から教えていただいた「ポケストップGO」サイトによると、今のうち(借家)の向かいのマンションや最寄りの特定郵便局がポケストップになっているらしい。そういえばクチ半開きで歩きスマホしてる人いるいる。うちが7階建ての6階なので、上から見ると笑える。これがホントの「上から目線」。

自分にとっては文字通り死ぬか生きるかで恥も外聞もブライドも捨てて必死に得たし守ろうとしているものを、自己都合でひょいと捨てようとしているように見える人がいると、けっこう心理的にダメージ受けるものだなと思った。いやまあ、ありもしないことまで詮索されても困るので、一般論として書くが。

衝動的に入札ボタンを押してしまった本を、ライバルがひとりも現れぬまま今夜落札した。エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(深井智朗訳、春秋社、2015年)。この論文の白水社版(森田・高野訳)はコピーしか持っていなかった。ああまた背後から滑り落ちてくる物体が増える。

昨夜から今日にかけて何度となく思い浮かぶメロディが何の曲かを思い出せず、ミドミ(http://www.midomi.co.jp/ )に鼻歌を吹き込んでも判明せず、一日考え込んでいたが、それが今やっと分かった。なんのことはない、なんとか46(また思い出せない)の「君の名は希望」だった。

ふだん社会的な発言が多く、人権やジェンダーに鋭い感覚を持っているように見える人が、牧師家族の話になり、なかでも牧師が夫側にいる妻の立場にいる人のことになると「それは別の話」のようになっていくのは歯がゆいし、不可解でならない。そういうところで、なんちゃって社会派であることがバレる。