2016年7月16日土曜日

教室の様子

イラストはイメージです
ネットで自分の身近な人たちへの批判や不満や愚痴を書けば、同じ境遇の人はほぼ必ずいるので共感を得やすく、記事として面白くなりやすく、書き手側にとっては手っ取り早く鬱憤の発散ができるかもしれない。でも、みっともないやり方だとは思う。私は、共感を得にくい、面白くない記事を書き続けたい。

仲良くなってくれた生徒が、私の授業が「弱腰だ」と言ってくれた。「そうだよ弱腰だよ。だって、受験生向けの学校案内パンフレットで、押しつけないと約束しちゃってるからね。手もみしながら、あのーみなさま、もしよろしければ興味を持っていただけませんでしょうかと言いたい気持ちだよ」と答えた。

一週間かけて担当クラスの答案返しをしたが、論述問題で私の採点に不服の意思を表わして教壇に詰め寄ってくれた生徒が数名いたので「ちょっと考えさせてほしい。とにかく自分の席に戻ってほしい」と言って考える時間を与えてもらって点の付け直しをした。その不服の意思表示自体が素晴らしいと思った。

見えていないわけでも言えないわけでもなく言わないでいるだけだが、授業中堂々と数学や英語の内職をしている生徒にこれからどう言うか考えている。「そういうことしていると将来社会に出たとき宗教の問題で悩んでいる人から相談を受けても心ここにあらずで内職してるんだろうな」とかイヤミ言おうか。

実際に教壇に立てば分かるが、試験監督の仕事を何度かやらせてもらってはっきり分かるのは、教室内で生徒がしていることはほぼすべて見えるということだ。生徒の目の動きや手の位置がおかしければ瞬時に分かる。授業中に内職している生徒も分かる。動きがおかしいもん。学校の教室とはそういうものだ。

しかし、だからこそ赦しが必要だ。「自分の意見に賛成する者に加点し、反対する者は減点する。それをファシズムという。そういうことを私は絶対にしない。なので、逆に言わせてもらえば、私がきみたちの答案につけたマルは、きみたちの意見への賛同の意思表示ではない」と昨日の授業で言ったばかりだ。