2016年7月18日月曜日

「紙の本」をめぐる心境の変化

自分なりに苦労してきたつもりですが
だめだ、今日もまだ本調子ではないようだ。血圧降下剤は飲んだがまだ高いのか、他の人が書いた「データベース」という字が「ダースベイダー」に見えて見えて仕方がない。胃と肝臓から悲鳴が聞こえる。脇腹がじくじく痛い。あと半日ゆっくりしていよう。明日からの勤務に支障が出ないようにしなくては。

あれほどこだわっていた紙の本の出版(「日本語版ファン・ルーラー著作集」)への関心を失っている自分に気づく。紙の本の数でポイント稼ぎする仕事ではないし、議論の場はネットで事足りる。オランダ語独習者の訳書など不買運動でも起こればたちまちアウト。絶えず新訳を打ち出せるのはネットならでは。

紙の本の需要と供給は、雲上人の「先生」が存在し、なおかつ、きちんとお支払いして「先生」のお言葉を押し頂き、拝読し、反芻したいと願う「読者」がいて成り立つ。だれが雲上人かはともかく、そういう関係性が日本のキリスト教界に見当たらない以上、紙の本は消える。上下関係を嫌忌する文化圏だし。

いつまで経っても「バルト、ティリッヒ、ブルトマン」と言い続けるのは、ふつうにそこいらに佇んでいるおばあさんおじいさんおばさんおじさんおねえさんおにいさんである日本の牧師や神学教師や教務教師がつまらない存在にしか見えず、そういう人の言葉は「研究する」価値がないと感じるからだろう。

前にも書いたが、今年(2016年)20歳の人(1996年生まれ)にとってのバルト(1886年生まれ)は110歳差。バルトにとってのシュライアマハー(1768年生まれ)の118歳差とほぼ同じ。徹底的に批判すべき存在以外の何ものでもありえないほど過去の人だという認識がどれほどあるか。