2016年7月31日日曜日

本日ブログで公開した神学系拙文リスト

記事とは関係ありません
昨夜から今朝にかけて過去に雑誌に掲載された神学系拙文をいくつかブログで公開しました。本日公開分リストを作りました。下記の各タイトルをクリックすると各記事にジャンプします。

【本日ブログで公開した神学系拙文リスト(2016年7月31日)】

ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加的思惟(1998年)

今なぜファン・ルーラーか(2002年)

オランダ改革派の伝統と日本の教会(2002年)

書評 大木英夫著『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(2003年)

地上における神のみわざとしての教会―A. A. ファン・ルーラーの教会論の核心(2007年)

改革派神学・長老主義・喜びの人生―ファン・ルーラーから学びうること(2007年)

オランダの戦後復興を支えた声―プロテスタント神学者A. A. ファン・ルーラーの「ラジオ説教」(2009年)

書評 渡辺信夫著『カルヴァンの教会論』増補改訂版(2010年)

新約聖書は旧約聖書の「巻末用語小辞典」か―旧約聖書と新約聖書の関係についてのA. A. ファン・ルーラーの理解(2012年)

『改革派教会信仰告白集』を絶賛する(2012年)

豊島岡教会南花島集会所の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月31日日曜日)は日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)の主日礼拝(開始13時30分)に出席させていただきました。説教者は豊島岡教会の濱田美也子先生でした。素晴らしいご説教ありがとうございました。

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)

今夜は親しい友人が遊びに来てくれたので、久しぶりにラーメン横綱松戸店(千葉県松戸市)に行き、ラーメンをいただきました。サイゼリヤ柏6丁目店(千葉県柏市)に移動し、ドリンクバーを注文して歓談しました。夏休みらしいことをやっとしました。

ラーメン横綱松戸店(千葉県松戸市)の美味しいラーメン

2016年7月30日土曜日

どのみち大言壮語なら

世界一うまかったマンゴー
受け取り方によっては負け惜しみのように響く可能性があることを書くが、自分の家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係と、国や世界など「大きな」文脈の人間関係との間に、もう一段階、ある意味で「中間的な規模の」人間関係をしっかり築ける「どこか」がないと、人は大言壮語しやすくなると思う。

ご想像のとおり、いま考えているのはインターネットへの苦言の一種だ。インターネットは「中間的な規模の」人間関係を築く手続きを割愛し、あるいはその手続きを破壊してまで、家族や親戚など「小さな」文脈の人間関係から、いきなり国や世界など「大きな」文脈の人間関係へとジャンプする性質をもつ。

なぜ負け惜しみのように響くかもしれないと思うかといえば、「大きな」人間関係に対して昨年まであれほどあれだったのに、今年はさっぱりあれでないと自覚しているからだ。変節したわけではない。新しい「中間的な規模」の人間関係をしっかり築くことなしに「大きな」あれは無理だと思っているだけだ。

しかし、「小さな」人間関係から「大きな」人間関係へジャンプできるのは画期的で素晴らしいことではある。「私の妻は世界一美しい」と躊躇なく書くことができるし、「いま食べたマンゴーは世界一うまかった」と画像付きで見せびらかすことができる。

つまらない話を長く続けるつもりはない。大言壮語しやすいのはインターネットの特質だと思うので、ある程度はやむをえないし、そういうものだと受け容れるしかない。ただ、私が思うのは、どのみち大言壮語なら他の人が楽しくなるような話のほうがいいよねというくらいのことだ。ガチの大言壮語は引く。

2016年7月29日金曜日

「聖書の授業」と「学校礼拝」のハイブリッド関係

借家から見える夕陽
聖書の歴史的批評的研究は当然必要であると私は考えているが、それによって「歴史の真実」が分かるとは考えていない。理性の場である学校教育において聖書宗教をもし「単なる理性の限界内の宗教」(カント)へと切り詰めて提示するとしたらこういう感じになるというモデルを考案しているだけだと思う。

一つ思い当たる問題は国公立学校と私立学校の違いにある。国公立学校で聖書を「単なる理性の限界内の宗教」へと切り詰めて教えても問題はない。しかし、私立でキリスト教主義を掲げる学校の場合は「学校礼拝」が行われる。その礼拝の説教や賛美や祈祷においては「理性を超える」言葉が必ず用いられる。

つまり、私立のキリスト教主義学校においては、授業では「理性の限界内の宗教」として聖書を教え、学校礼拝(単位としては「授業」)では「理性を超える」言葉を語ることになる。それが悪いわけではない。このハイブリッド感をうまく伝えられるかどうかが教員の力量にかかっていると思っているだけだ。

2016年7月27日水曜日

読解力の問題

教務教師現況報告在中
話の勢いだかなんだか「だったら新しい教会作ればいいじゃん」みたいなことを言われた。いやいやいや。あのねそゆこと急に言わないでくださる心臓止まるからね。こういう軽薄なノリで書いていいようなことですらないし。そんな教会だれもこないし。軽薄派教会だよねそれ。ケイハクハキョウカイ。あっ。

昨夜「日本基督教団教務教師現況報告」をやっと書きおえた。教団年鑑の基礎資料になるらしい。今日投函した。教団事務局総務部教務係の担当者様、ご査収いただきたく、どうかよろしくお願いいたします。

そこに「ドグマ」があって初めて「ドグマ」を解体し、無効化するための「批判」の意義と役割が遺憾なく現れると思うのだが、そもそもそこに「ドグマ」はもはや存在していないのに、それがまるで存在するかのように「仮想敵」として想定する「批判」が独り歩きし、跋扈する状態は、いかがなものだろう。

人生に「リセット」はないという言説はまあ正しいと思うが、私の現実を言わせていただけば、学校教員歴1年目、日本基督教団教師復帰後歴1年目の「新入り」50歳だったりするので、感覚的には「ほぼリセット」に限りなく近い。「右も左も分からぬペーペーでございます。よろしくお願いしまっす」感。

「あのー私関口と申します。歳とりすぎて、高校生のみなさまのお気持ちをさっぱり理解できなくて悩んでいまっす。高校生のみなさま本当に申し訳ありません。初心にたちかえって勉強しなおしますので、夏休み明けはせめて授業中は目を覚ましていただきたく、なにとぞどうかよろしくお願いします」。

教員が100パーセント低姿勢という「土下座教育」というのを新しい教育理論として採用してもらえないだろうかと思ったりしなくもない。

「あのー私関口と申します。19年も離れてしまい、日本基督教団のみなさまのお気持ちをさっぱり理解できなくて悩んでいまっす。日本基督教団のみなさま本当に申し訳ありません。初心にたちかえって勉強しなおしますので、なにとぞどうかよろしくお願いします」。

牧師が100パーセント低姿勢という「土下座伝道」というのは、新しい伝道理論でもなんでもない。ややもすれば「アタマの下げ方が足りない」みたいなことを暗に言われる。

べつに書いていいと思うし、文句でも批判でもないが(断じて)、今年6月に行われたはずの「日本基督教団新任教師オリエンテーション」の案内が、私には届かなかった。転入者は参加することになっているはずだが、「2回めの参加はない」という判断だったのだろうか。もし案内くれば有給とる気でいたが。

そうだ、思い出した。今日、職員室隣席の英語の先生から「関口先生、今日は毒気が強いですね。ポイズンが」と言われた。なんで分かったの。笑。

2016年7月25日月曜日

本当に「君の名は希望」なのか

4年2ヶ月使用してきた私のケータイ(まだまだ使える)
ぎゃあああ。仕事終わって借家に帰って書斎の座椅子に座ったら、後ろからカール・バルトの教会教義学の原著第三巻第二分冊のぶっといのがすううっと滑り落ちて来て、背中にぶつかって来たああ。八百頁もあるうう。嘘八百かああ。八百万のなんとかかあああ。痛てええ。血が出るうう(血は出てません)。

大げさにいえば18世紀啓蒙主義以降「信仰と理性」だ「神学と学問」だと抽象的に表現されてきたことを学校界で実体的に認識させられている。否定的な意味ではない。学業成績を保つことと聖書をポジティヴに学ぶことは「両立」するかどうかという問いだと思えばよい。ナニ両立するに決まってるじゃん。

ぜひ次は「ドラクエGO」をお願いしたいです。なんといっても「教会」がありますからね。物入れ小怪獣探しでうろうろされるよりは「よみがえり」のために来てもらえるほうが、教会としては歓迎ムードかも(謎

そりゃ私は日本がキリスト教国になるまでがんばるに決まってるわけで、そこを言わずにむにゃむにゃ言ってカムフラージュして人畜無害のふりする意味が分からないわけで。しかもそれを「洗脳」なんていう非道な手段を用いずにやるという。電極埋め込みとかすることですよ「洗脳」。するわけないじゃん。

お友達から教えていただいた「ポケストップGO」サイトによると、今のうち(借家)の向かいのマンションや最寄りの特定郵便局がポケストップになっているらしい。そういえばクチ半開きで歩きスマホしてる人いるいる。うちが7階建ての6階なので、上から見ると笑える。これがホントの「上から目線」。

自分にとっては文字通り死ぬか生きるかで恥も外聞もブライドも捨てて必死に得たし守ろうとしているものを、自己都合でひょいと捨てようとしているように見える人がいると、けっこう心理的にダメージ受けるものだなと思った。いやまあ、ありもしないことまで詮索されても困るので、一般論として書くが。

衝動的に入札ボタンを押してしまった本を、ライバルがひとりも現れぬまま今夜落札した。エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(深井智朗訳、春秋社、2015年)。この論文の白水社版(森田・高野訳)はコピーしか持っていなかった。ああまた背後から滑り落ちてくる物体が増える。

昨夜から今日にかけて何度となく思い浮かぶメロディが何の曲かを思い出せず、ミドミ(http://www.midomi.co.jp/ )に鼻歌を吹き込んでも判明せず、一日考え込んでいたが、それが今やっと分かった。なんのことはない、なんとか46(また思い出せない)の「君の名は希望」だった。

ふだん社会的な発言が多く、人権やジェンダーに鋭い感覚を持っているように見える人が、牧師家族の話になり、なかでも牧師が夫側にいる妻の立場にいる人のことになると「それは別の話」のようになっていくのは歯がゆいし、不可解でならない。そういうところで、なんちゃって社会派であることがバレる。

教会を求める祈り


不遜な意味ではないつもりですが、私の心の奥底に押しても引いても、自分でも他人にも動かすことができないチャーチマンシップのようなものがどんと腰を据えてしまっているので、どんなに忙しくてもたとえやや死にそうでも、なんとかして教会に行きたいし、御言葉の奉仕をしたいという願いがあります。

就寝前の祈り。私にいくらチャーチマンシップがあるといっても、他に誰もいない「ひとり教会」を言い張るつもりはない。二人三人のいるところに、と言われても、たとえば家族だけで「教会」を言い張るつもりもない。それは「教会」ではない。ネット越しで。違う。教会を。教会を。教会を。笑うでない。

2016年7月24日日曜日

主日礼拝(出席/説教)についての今後の予定


親愛なる各位

私は現在「日本基督教団教務教師」の立場にあり、担任教会がありません。そのため、松戸市内の日本基督教団の教会を中心にいろんな教会の礼拝に出席しています。

依頼に応じて教派を超えて説教奉仕をさせていただいています。今後の予定は下記のとおりです。説教予定のない日曜日はすべてフリーです。貴教会の主日礼拝の説教者として小さなしもべを用いていただけますと幸いです。

2016年7月24日

日本基督教団教務教師 関口 康(yasushi.sekiguchi@gmail.com

-------------------------------------------------------

主日礼拝(出席/説教)についての今後の予定(関口 康)

【2016年】

 7月31日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
 8月 7日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 8月14日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 8月21日(日) 日本基督教団阿佐ヶ谷東教会(説教)
 8月28日(日) 日本基督教団千葉北総教会(説教)
 9月 4日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 9月11日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 9月18日(日) 未定
 9月25日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
10月 2日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
10月 9日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
10月16日(日) 未定
10月23日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
10月30日(日) 未定
11月 6日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
11月13日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
11月20日(日) 未定
11月27日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)
12月 4日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
12月11日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
12月18日(日) 未定
12月25日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)

【2017年】

 1月 1日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 1月 8日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(説教)
 1月15日(日) 未定
 1月22日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 1月29日(日) 未定
 2月 5日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 2月12日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(説教)
 2月19日(日) 未定
 2月26日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 3月 5日(日) 日本基督教団小金教会(出席)
 3月12日(日) 日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(説教)
 3月19日(日) 未定
 3月26日(日) 日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(出席)

【参考リンク】

関口 康 2016年度礼拝説教予定
関口 康 2016年度教会出席記録

千葉北総教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月24日日曜日)は日本基督教団千葉北総教会(印西市)の主日礼拝に出席させていただきました。大串眞牧師のいつもながら丁寧な説教で心満たされました。千葉英和高校の生徒たちが教会訪問に来ていました。ありがとうございます。


午後は千葉英和高校軽音楽部の引退ライブに駆けつけました。会場はチャペル。3年生部員たちにとっての最後のステージ。プロ並みの大迫力の生演奏を堪能しました。けいおん部のみなさん、ありがとうございます。

2016年7月18日月曜日

姦通を犯した女性の物語について

記事とは関係ありません
姦通を犯した女性を前にイエスが「あなたがたの中で罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい」と言い、そこにいた人が一人また一人と去ったあと「わたしもあなたを罪に定めない」と言ったのはイエスの思想である以上にイエスの実践だった。考えただけではなく、女性の生命を守るための行動だった。

内容の軽重はともかく罪を犯した者の罪を無条件に赦してしまえば社会の秩序は保てないし、被害者の無念は晴れないので、イエスの思想に反対であるという立場はよく分かる。しかし、イエスはどんなに反対されても姦淫を犯した女性の生命を守る側に立った。それはイエスの思想ではなく実践だったからだ。

イエスはマッチョだった論を展開したいのではない。だけど、頭より口より体が先に動いた人だったのではと思う。論より実践が先。なんだかんだ言っている相手を無視するために(としか言いようがない)地面に何かを書いている姿はユーモラスでさえある。相手の論に乗らない。屁理屈に屁理屈で返さない。

その意味ではイエスは野球部向きかもしれない。もちろんスポーツ全般なんでも。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測、ジャンプしながらキャッチ。スポーツ音痴の私には全く不可能だが、球技の選手はそれをいつもする。立ち止まって考えるヒマなどない。

自分の目の前で今まさに処刑されようとしている人がいて、なおかつ、その人の生命を守らなければならないという判断をした場合、立ち止まって考えるヒマはたぶんない。えっと、法に照らし合わせてどうだろう、論理的整合性はどうだろう、などと考えているうちに、その人の処刑は終わってしまうだろう。

どうするか。野球部作戦だ。相手バッターがボールを打った瞬間にダッシュ。全速で走りながらボールの落下点を予測。ジャンプしながらキャッチ。相手の屁理屈が始まった瞬間にダッシュ。処刑する人とされる人の間に体をはさみながら議論の落下点を予測。話が飛躍していようとお構いなしに逃げ道を確保。

だれかの生命を守り、そのだれかの未来を生み出す努力には、その人の側に立ってその人を守ろうとする人自身の生命が脅かされるという皮肉な側面が絶えずある。その脅威に耐えられるようになることが、人としての成長ではないか。人を生み(狭義の出産に限らず)育てる役割を担いうる大人になるための。

しかしイエスは、だからといって、どんな人でも自分と同じようにできるとは考えていない。人をかばうどころか自分のことも持て余すほど余裕がない我々人間の現実を、イエスは熟知している。だからイエスは我々の屁理屈を無視する。たいていそれは我々の自己弁護にすぎない。傾聴に値しない戯言なのだ。

「紙の本」をめぐる心境の変化

自分なりに苦労してきたつもりですが
だめだ、今日もまだ本調子ではないようだ。血圧降下剤は飲んだがまだ高いのか、他の人が書いた「データベース」という字が「ダースベイダー」に見えて見えて仕方がない。胃と肝臓から悲鳴が聞こえる。脇腹がじくじく痛い。あと半日ゆっくりしていよう。明日からの勤務に支障が出ないようにしなくては。

あれほどこだわっていた紙の本の出版(「日本語版ファン・ルーラー著作集」)への関心を失っている自分に気づく。紙の本の数でポイント稼ぎする仕事ではないし、議論の場はネットで事足りる。オランダ語独習者の訳書など不買運動でも起こればたちまちアウト。絶えず新訳を打ち出せるのはネットならでは。

紙の本の需要と供給は、雲上人の「先生」が存在し、なおかつ、きちんとお支払いして「先生」のお言葉を押し頂き、拝読し、反芻したいと願う「読者」がいて成り立つ。だれが雲上人かはともかく、そういう関係性が日本のキリスト教界に見当たらない以上、紙の本は消える。上下関係を嫌忌する文化圏だし。

いつまで経っても「バルト、ティリッヒ、ブルトマン」と言い続けるのは、ふつうにそこいらに佇んでいるおばあさんおじいさんおばさんおじさんおねえさんおにいさんである日本の牧師や神学教師や教務教師がつまらない存在にしか見えず、そういう人の言葉は「研究する」価値がないと感じるからだろう。

前にも書いたが、今年(2016年)20歳の人(1996年生まれ)にとってのバルト(1886年生まれ)は110歳差。バルトにとってのシュライアマハー(1768年生まれ)の118歳差とほぼ同じ。徹底的に批判すべき存在以外の何ものでもありえないほど過去の人だという認識がどれほどあるか。

2016年7月17日日曜日

神さまごめんなさい

震度4で一冊も滑落しなかった神学書ジェンガ
今日は朝から体調不良で、思うように身動きがとれず、まことに申し訳ないことに、朝の礼拝はどこにも出席できませんでした。夕拝が行われる教会をネットで探しましたが、千葉県柏市から遠い教会が多くて、出席が叶いませんでした。神さま今日は本当にごめんなさい。火曜日までには必ず体調を戻します。

特に昨年の半ばからですが、かなり深刻に胃をやられていることはほぼ間違いないのですが、肝臓もヤバめだと自覚(まるでのんべみたいですが実態は決してそんなでないです)。ヘパリーゼのドリンク剤はけっこう効きますね。かなり安らげます(のんべじゃないです)。対人恐怖かも(どんな高校教師だ)。

血圧降下剤は朝飲みましたが、胃と肝臓を休めるためにユーチューブで「帰ってきたウルトラマン」のベムスター編を見ました。ウルトラセブンは出てくるわ、ウルトラブレスレットはもらえるわ、マット(モンスターアタックチーム)のかっこいい自動車は出てくるわで、血圧上がりました(んなことない)。

それにしても、私にとって日曜日の礼拝を欠席することは、「死にそうな体を引きずってでも聖日礼拝を守れ。講壇で尽き果てるのは本望だ」系の教えの流れをわりと生まれた時からずっと受け継いで来たところがあるので、なんとも言えない気持ちです。そういうのを人に強要したことは一度もありませんが。

今日13時24分に発生した地震(震源地:茨城県、千葉北西部:震度4)で、借家もかなり揺れました。ズッサズッサ揺れ始めてすぐに書斎から脱出しましたが、書斎の平積みの本(推定1トン強)は、一冊も滑落しませんでした。多少ピョンピョン飛び跳ねてはいましたが。神学書ジェンガの奇蹟バランス。

4月からの新しい生活の中、なんだかすっかり世事に疎くなってしまいましたので、欅坂46(けやきざかフォーティーシックス)の「サイレントマジョリティー」を、これもユーチューブで聴きました。おかげで、だんだん元気になってきました(なんて現金なボディー&ソウルなのだ)。

電車の駅から近くて(実利)、落ち着いているが停滞していなくて(要望)、聖書そのものと神学に飽くなき興味を持っていて(無謀)、偏執的でなくて(大事)、普通の(てナニ)教会、ないですかね。そういうのを目指していたはずだったけど。あ、この続きを書こうとすると泣きそうになるのでやめよう。

授業中に「日曜日以外の牧師さんの仕事ってなんですか」と聞かれたので「結婚式とかお葬式とかするよ」と答え、「自分の葬式は自分でするからね」と言ったら、けっこうウケて、「それ寂しいっすね」と言われた。私はネット葬でいいや。生中継流すんで。いいね押してね。「キター」とかコメントしてね。

夕方3時間ぐっすりねかしてもらった。ユーチューブの自動再生を流しながら安眠。ガーネット・クロウさんの「夢を見たあとで」からスタート。「君という光」「夏の幻」と続き、そのあたりでスヤスヤ寝落ち。目を覚ました頃は小松未歩さんの「謎」、ZARDさんの、って全部コナン主題歌じゃないか。

まるで自分たちの終わりと共に世界も教会もきっと終わるし、むしろ終わってほしいと願っているかのようにふるまう人がもしいるなら(いますね)、ただちに退散してほしいとひたすら望む。世界も教会もあなたたち自身の業績ですらない。もっとずっと前から世界も教会も存在するよ。何の勘違いなんだか。

19年ぶりに戻ってきた教団で「ちゃんと」教師をやるためには、学校の教員免許更新制度と同じように更新講習を受けて神学的知識をアップデートする必要がありそうだが、19年前とどのあたりが変わっているのだろうか。教務教師はよほど自分でアクションを起こさないかぎり誰も教えてくれないようだ。

2016年7月16日土曜日

教室の様子

イラストはイメージです
ネットで自分の身近な人たちへの批判や不満や愚痴を書けば、同じ境遇の人はほぼ必ずいるので共感を得やすく、記事として面白くなりやすく、書き手側にとっては手っ取り早く鬱憤の発散ができるかもしれない。でも、みっともないやり方だとは思う。私は、共感を得にくい、面白くない記事を書き続けたい。

仲良くなってくれた生徒が、私の授業が「弱腰だ」と言ってくれた。「そうだよ弱腰だよ。だって、受験生向けの学校案内パンフレットで、押しつけないと約束しちゃってるからね。手もみしながら、あのーみなさま、もしよろしければ興味を持っていただけませんでしょうかと言いたい気持ちだよ」と答えた。

一週間かけて担当クラスの答案返しをしたが、論述問題で私の採点に不服の意思を表わして教壇に詰め寄ってくれた生徒が数名いたので「ちょっと考えさせてほしい。とにかく自分の席に戻ってほしい」と言って考える時間を与えてもらって点の付け直しをした。その不服の意思表示自体が素晴らしいと思った。

見えていないわけでも言えないわけでもなく言わないでいるだけだが、授業中堂々と数学や英語の内職をしている生徒にこれからどう言うか考えている。「そういうことしていると将来社会に出たとき宗教の問題で悩んでいる人から相談を受けても心ここにあらずで内職してるんだろうな」とかイヤミ言おうか。

実際に教壇に立てば分かるが、試験監督の仕事を何度かやらせてもらってはっきり分かるのは、教室内で生徒がしていることはほぼすべて見えるということだ。生徒の目の動きや手の位置がおかしければ瞬時に分かる。授業中に内職している生徒も分かる。動きがおかしいもん。学校の教室とはそういうものだ。

しかし、だからこそ赦しが必要だ。「自分の意見に賛成する者に加点し、反対する者は減点する。それをファシズムという。そういうことを私は絶対にしない。なので、逆に言わせてもらえば、私がきみたちの答案につけたマルは、きみたちの意見への賛同の意思表示ではない」と昨日の授業で言ったばかりだ。

2016年7月11日月曜日

「採点の祭典」実行委員に加えていただきました

なんとも情けない50歳。夕方過ぎから脳内にブルースクリーンが出はじめたので、仕事の仕上げのクオリティがイマイチのまま放置して帰宅。ぐっすり休めばブルスク消えるので。いや、そんなに甘くないかも。脳内にブルスク出るの初めてじゃないし。脳の再起動ってどうやってやるんだっけ。気合いかな。

まあでも、毎日とっても幸せなので大丈夫。楽しくて楽しくて仕方ない。とっくに消費期限切れたポンコツ脳なんだから、ブルースクリーン出るの当たり前だし。もっと自覚しろよと自分に言いたい。というわけで、「幸せの黄色いハンカチ」改め「幸せの青いスクリーン」なので、ご心配には及びません。笑。

そう。私も遅ればせながら「採点の祭典」実行委員に加えていただいたのだった。全国の学校関係の諸先輩がたの「祭典」の様子をフェイスブックで拝見するたびにうらやましかった。よしいつか私も、と思っていた。今、その「祭典」開催中。終わったら後夜祭だな。行くぜ、ゲリラライブだ。どわっはっは。

土砂降りでもカンカン照りでも自転車やバスや徒歩で遠くから集まってくる生徒の姿に涙が出る。本当に(「本当に」などと書くこと自体失礼きわまりない)真剣に勉強しに来ているし、自分と世界の将来を目指している。くたばりぞこないの手負いの熊が、いつも応援している。もちろん「お祈り」している。

画像はイメージです

2016年7月10日日曜日

キリストの言葉が豊かに宿るようにしなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)
コロサイの信徒への手紙3・16~17

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

いきなり私事で恐縮ですが、今日開いていただきましたのは、私が過去に個人的に経験した出来事と強く結びついている箇所です。その出来事についてもお話ししたいと願っていますが、その前に、この箇所そのものの意味をご説明させていただきます。

現代の聖書学者たちは、コロサイの信徒への手紙を「使徒パウロが書いたものではない」と断言しはじめています。私は狭い意味での「聖書学者」ではありませんので、そういう話を何度聞かされても「へえ、そうなんですか」というくらいの反応しかできないのですが、それでも学者さんたちの意見は可能なかぎり尊重してきたつもりです。あえて逆らう気はありません。

パウロが書いたものでないなら誰が書いたのかといえば、パウロの名前を借りた別の人物が書いたものであるという話になります。当然といえば当然の結論です。そして聖書学者たちの意見としてもう一つ重要な点は、この手紙は実は狭い意味での「手紙」でもないということです。私が言っていることではないです。聖書学者たちの意見です。

「手紙」でないなら何なのかというと、キリスト教の教えを簡略にまとめたパンフレットのようなものだったのではないかという話になります。ここから先は多少批判的な言い方を含んでいますが、この手紙の中には教会の現実が見える具体的なことへの言及がほとんど見当たらず、もっぱら抽象的なことしか書かれていないので、そういうものは「手紙」であるとは言えないというような話です。

しかし、先ほど申し上げたとおり、私自身は狭い意味での「聖書学者」ではなく、聖書学の「門前の小僧」ですので、正確な議論は学者さんたちにお任せいたします。軽んじるつもりも無視するつもりもありません。ただ私は、教会で説教するときは、これを「使徒パウロの手紙」として扱うことにしています。そのことはご容赦いただきたいと願っています。

そうすることのほとんど唯一の根拠は、冒頭に記されている「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」(1・1)という言葉だけです。この言葉に基づいて、私は「パウロはこう書いています」「パウロはこう述べています」と申し上げます。

ですから、みなさんにお願いしたいのは、私が「パウロ」という言葉を発したときは、みなさんの頭の中でパウロにかぎ括弧をつけていただきたいということです。それで問題ありません。「かぎ括弧付きのパウロが書いた手紙」ということで、聖書学者のみなさまにご容赦いただくしかありません。

しかし、なるほどたしかに、この手紙の中には教会の現実が見えるような具体的なことへの言及はほとんど見当たらず、もっぱら抽象的で観念的で概念的なことが書かれていることは事実です。良く言えば「キリスト教入門」ないし「教会入門」のテキストとして扱いやすい内容です。悪く言う必要はないかもしれませんが、なるほどたしかに、教会の現実が見えない。

しかし、原理・原則というのは、いつでも悪者扱いされるべきではありません。とくに入門志願者や初めての人の中には、原理・原則をはっきり教えてもらうほうが戸惑わなくて安心できると考える人が一定数います。

会社や社会で「こうしなさい、ああしなさい」と命令ばかり受けてきて、教会でも「こうしなさい、ああしなさい」と命令されるのはまっぴらごめんだと感じる人は多いかもしれません。しかし、教会には原理・原則が存在しないというわけではありません。

前置きが長くなってしまいました。今日開いていただいた箇所は、今申し上げていることとの関係でいえば、キリスト教の基本中の基本が書かれているところであるといえます。キリスト教入門、教会入門における最も基本的で根本的な部分が、この短い言葉の中に集約されています。

私はこの箇所の説教をするたびにポイントを三つに絞ってきました。第一は「キリストの言葉が豊かに宿るようにしなさい」、第二は「詩編と賛歌と霊的な歌により神をほめたたえなさい」、そして第三は「イエスによって父である神に感謝しなさい」です。つまり、三つのポイントとは、みことば、賛美、お祈りです。

そして私は、こういう話をいつもします。キリスト教は、どういう場所でも、どういう集会でも、とにかくこの三つです。それは、みことば、賛美、お祈りです。毎週日曜の礼拝も、水曜の祈祷会も、結婚式も、お葬式も、どんな場所でもどんな集会でも、みことば、賛美、お祈りです。

それが基本中の基本であるという意味で、この三つはキリスト教の読み書きソロバンです。イロハです。それが、みことば、賛美、お祈りです。結婚式とお葬式で同じ聖書の箇所を読み、同じ賛美歌をうたうことも、しょっちゅうあります。その意味では、結婚式もお葬式も、礼拝そのものです。

そして、私がこの箇所の説教をするたびに繰り返し強調してきた点があります。それは、みことばについても、賛美についても、お祈りについても、すべては「わたしたち自身が真剣に取り組むべきこと」としてとらえる必要があるという点です。それだけ言っても意味が分からないと思いますので、このあと説明いたします。

過去の経験上、誤解が生じやすいのは、みことばについてです。賛美とお祈りについては、それが「真剣に取り組むべきこと」であるということを、比較的すぐに理解してもらえます。真剣に賛美することの重要性、真剣にお祈りすることの重要性は分かってもらえます。しかし、みことばについては誤解されることが多かったです。

私の説明を誤解する人たちは、決まっていました。みことばとは神の言葉であって、つまりそれは、神御自身がお語りになる言葉なのであって、みことばについての主導権は、徹頭徹尾神御自身にあるのであって、その神の言葉の前で人間はひたすら受け身であるのだから、いかなる意味でも我々人間はみことばに対して能動的な立場にはありえない、というような前提理解を持った人たちです。

私はそういう前提理解を持った人たちから、面と向かって不快感を表明されたこともあります。そのような経験を、私は実際にしてきました。

私はどこを強調してきたのかといえば、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」という新共同訳聖書のこの訳文はとても正確だと思うので、このとおりに考えてほしいということです。そして、「宿るようにする」のは、あなた自身ですよ、他のだれもやってくれませんよ、ということです。そこをとにかく強調してきました。

キリストの言葉があなたの内に豊かに「宿るようにする」ためにどうすればよいのでしょうか。それは自分で努力するしかありませんよと、私は説明してきました。主導権は、徹頭徹尾あなた自身にありますよと。聖書を自分で開き、自分で読み、繰り返し読み、たくさん学び、深く考えることが必要ですよと。

もっとも二千年前には、だれでも簡単に自分の聖書を買って持っているというような状況にはありませんでしたので、だれでも自分で聖書を開いて自分で読むということはできなかったと思います。その場合は、教会で説教を聴くという方法で聖書を学ぶわけです。しかし、それも自分ですることです。だれかが代わりにやってくれるわけではありません。

この「豊かに宿るようにする」の「する」の主語はあなた自身ですよということを、私は繰り返し強調してきました。しかし、この私の説明は、どの教会においても、どの牧師たちの中でも、一定の人々から強い違和感を表明され、拒絶されてきました。

でも、私はこの件に関しては譲ることができません。なぜ譲ることができないかといえば、それが最初に申し上げた、私が個人的に経験した出来事と関係しているからです。

個人を特定できるような具体的なことは伏せます。様々な外的要因が重なり、激しく落ち込んだ人がいました。その人のことを考えながら、私は礼拝で今日の箇所についての説教をしました。

そのとき私は、こう言いました。「人間の心は風船のようなものです。悪いものがたくさん入っている状態を緩和するには、その悪いもののほうを取り除くことはできませんので、良いものをたくさん詰め込んでいくしかありません。その良いものがキリストの言葉です」と。

その日、その人の心に変化がありました。私が今申し上げているのは、みことばが、あるいは私の説教がその人を救った、というようなことでは全くありません。キリストの言葉が豊かに「宿るようにした」のはその人自身であり、自分の心を開き、聴く耳を持ったのも、その人自身です。

そのことを今日みなさんにも言いたいのです。キリストの言葉が「豊かに宿るようにする」のは、みなさん自身です。礼拝中、別のことを考えていませんか。聖書への興味や関心を失っていませんか。「それどころではない」と思っていませんか。心は、耳は、閉じていませんか。

学校でも私は「こら起きろ、聞け」というような言い方はしませんし、できません。まして教会ではそういう言い方は全くできません。だからお願いです。どうかどうか聖書に関心を持ってください。拙い説教であることは重々承知していますが、どうか耳を傾けてください。キリストの言葉が豊かに宿るようにしてください。よろしくお願いいたします。

(2016年7月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)


2016年7月9日土曜日

少なくとも私個人は「魂の医者」ではありえない

午前中はずっと雨天でした
今日は早朝から昼過ぎまで仕事。昼食は家でひとりで自作炒飯。懐かしの名曲「ジュテームジュテーム」を聴きながらちょっと一休み、と思ったら川瀬智子さんの歌声に魅せられて目が冴えてきた。すごいいい。長く眠っていたなにかが目をさます。ノスタルジアではないので。ちゃんと向き合っていなかった。

かつてはこんなのしたことがなかったが、土曜の午後4時から9時まで爆睡。目をさますとだれもいない。みんな忙しい。夕食各自。「明星麺の底力烏賊煮干(イカニボ)醤油」を買ってみた。あと「サントリー伊右衛門特茶」。なかなかいける。これから説教の原稿書きに集中する。脳のオン/オフ大事大事。

10年近く前、外から見ても分からない虫歯をレントゲンで見つけられて「いま治療すれば何歳までに何本歯が残る」と言われた日、その歯医者に通うのをやめた。もっと前、20歳で脂肪肝を指摘されたが放置。やるべきことがストップされなければ今はいい。「必死」とは必ず死ぬことだと何度も書いた。

医者がことさら偉いとは思わないが、「魂の医者」とか呼ばれたり自ら名乗ったりするから勘違いが起こるのではないか。私個人は癒やしてもらったこともなければ癒やしたこともない。期待したこともないし期待されたこともない。聖書の一読者にすぎず、解説者にすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。

2016年7月8日金曜日

週末論的考察

何を書こうかと考えながらその内容がまとまらないので書けないほど体も心も疲れた一日の終わりの数時間を、冷たいミネラルウォーターをちびちび飲みながら過ごしています。明日(土)は臨時の出勤、明後日(日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)の礼拝で説教します。
聖書の位置が若干おかしい書斎


2016年7月7日木曜日

見よこれが聖書の先生だ

「今日の放課後は充実感」の巻。私と同期の聖書の先生(今年新採の常勤講師)が「聖書について何か質問ある?」コーナーを堂々開設。そこに私も誘ってもらえて、完全下校の19時まで生徒たちと聖書聖書聖書。見よこれが聖書の先生だ。ぐわし。


2016年7月4日月曜日

礼拝の意味(千葉英和高等学校)

ネヘミヤ記8・9~10

関口 康

「『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である』」。

3年生はこれからですが、今は毎年恒例の学校行事としての教会訪問を実施しているところです。人数を分散する目的から最初に2年生、次に1年生、最後に3年生という日程を組んでいます。日程を守ることも大事です。しかし学校としてはとにかく教会に行ってみてほしいという願いを持っているだけです。

1、2年生からはすでに、多くの教会訪問のレポートが提出されています。それを今、じっくり読ませていただいています。その中で、面白いなと思った感想がありました。他の感想が面白くないという意味ではありませんが。一人二人ではなく、多くの人が同じことを書いていました。それは「学校の礼拝と比べて教会の礼拝は良かった」という感想です。

その理由もちゃんと書かれていました。ご本人たちに無許可ですので、私の言葉で言い換えて紹介します。「本気で信じている人たちがこんなにたくさんいることを知って驚いた。教会の礼拝は本格的で真剣だった」「初めて行ったので緊張したが、教会の人が親切にしてくださったので、安心できた。あのような親切な大人になりたいと思った」など。

他にもたくさんの感想を寄せていただきましたが、どちらかといえば、肯定的な感想のほうが多かったです。「行ってよかった」とはっきり書いてくれた人もいました。否定的な感想が全く無かったわけではありません。それはそれとして尊重されるべきです。でも、多くはありませんでした。

しかし、このことは面白がるだけで済む問題ではありません。「学校の礼拝と比べて教会の礼拝は良かった」という感想には、学校の礼拝に対する厳しい問いかけが含まれているということを見逃すわけには行きません。もし教会の礼拝が本物の礼拝だということであれば、学校の礼拝はその逆だということになるわけです。

そういう感想をいただいて残念だとは思いません。でも、ちょっとひとこと言いたくなります。「学校の礼拝も本物の礼拝です」と。擬似礼拝でも似非礼拝でもありません。しかし、そのことをただ一方的に言い張って済む問題ではありません。「学校の礼拝も本物の礼拝です」ということを納得してもらえるようにするにはどうしたらよいのかを、真剣に考えなくてはなりません。

そのようなことを考えながら今日の聖書の箇所を選ばせていただきました。先ほど宗教委員の方々に朗読していただいたのは、旧約聖書のネヘミヤ記8章9節から10節までです。

ここに描かれている場面は、大昔に行われた「礼拝」の様子です。今から約2500年前です。ユダという国が隣国バビロニアに占領されました。神を礼拝するための神殿も、王の住む城も、バビロニアの軍にめちゃくちゃに破壊されました。そして、ユダ王国の住民の多くが捕虜としてバビロニアに連れて行かれました。それはとてもとても辛くて悲しい出来事でした。

しかし、その70年後、ユダの人々が元の町に帰れることになりました。そして、壊れたままだった神殿や城の壁を、みんなで力を合わせて建て直すことができました。今日の個所に登場する泣いている人々は、神殿と城の壁を建て直した人々です。そうすることができたことがうれしくて、涙を流しています。

しかし、その涙には別の意味もありました。70年もの間、自分の国の神殿も城も壊れたままでした。その間、人々は自分の町に戻れませんでした。故郷に帰ったとき思い出されたのは70年間の屈辱と苦悩、そして苦渋に満ちた日々でしょう。彼らのうれし涙の中に複雑な涙が混ざっていたに違いありません。

これまでいろんなことがありました。嫌な目にもさんざん遭いました。でもそれらすべては神が導いてくださった結果であると信じる。そして神に感謝するために礼拝する。それがこの箇所の場面です。ここで言っておきたいのは、礼拝はそういうときにも、いえ、そういうときにこそ行うものである、ということです。

学校の礼拝は毎週行っています。先週の月曜日は文化祭の代休でしたので、今日の礼拝は2週間ぶりです。2週間前のわたしたちは今のわたしたちとは全く違います。文化祭の楽しい思い出がわたしたちの心に刻まれました。それだけではありません。学校でも、学校以外でも、わたしたちはいろんな体験をしました。

その中には、うれしいこと、楽しいことだけでなく、悲しいこと、嫌なこともあったでしょう。どう考えても否定的にしかとらえることができないこともたくさん含まれていることでしょう。しかし、それらのこと一切を神が導いてくださったと信じる(この「信じる」が難しいことではありますが)。過去のすべてを思い起こし、涙を流す場所が礼拝です。

それは、うれし涙の中に複雑なものが混ざり合った涙です。その涙を流すことで神の前に心の重荷をおろし、安心する場所が礼拝です。良かったことについては感謝、悪かったことについては反省、そして次なる課題と目標を思いめぐらす場所が礼拝です。

この礼拝の中で説教しているのが、この本の書名になっているネヘミヤとその仲間たちです。彼らが語ったのは、「今日はあなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」ということでした。これは、泣くことを禁じているのではなく、すでに泣いている人を慰め、喜んでいいのだと励ます言葉です。

「良い肉を食べて、甘い飲み物を飲みなさい」とも言っています。今日はうれしくて楽しい日だから、美味しいごちそうを食べて笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。学校の礼拝でごちそうや飲み物が出てくれば、みんなもっと元気になるでしょうか。現実には不可能ですが、何かのヒントになるかもしれません。「聖なる日」とは楽しい喜びの日であるということです。

わたしたちの「聖なる日」はいつでしょうか。礼拝を行う日がその日です。つまり今日です。礼拝は喜んでもよい、楽しんでもよい場所です。学校礼拝も同じです。ただし、げらげら笑って大騒ぎしてもよいとか、礼拝中に自分の好き勝手におしゃべりしてもよいという意味ではありません。そういう楽しみ方は、自分たちは楽しいかもしれませんが、他の人は楽しくありません。

神の恵みを感謝し、心の中で静かに喜ぶことが大切です。そしてお祈りする場所が礼拝です。

明日から第2回定期試験です。第1回試験のとき、1年生のあるクラスの試験監督をしました。みんなとても緊張しているのが分かったので、言いました。「みんな人事は尽くしたんだからね。最後はお祈りするしかないんだよ」と。

私は皆さんのためにいつもお祈りしています。定期試験、がんばってください。

(2016年7月4日、千葉英和高等学校 学校礼拝)

2016年7月3日日曜日

小金教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月3日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金)の主日礼拝に出席させていただきました。今泉幹夫牧師の力強い説教を伺い、聖餐式に与りました。礼拝後、楽しいお茶の会に加えていただきました。ありがとうございます。

2016年下半期と2017年の「教会」での説教予定

各位

現在までに決まっている、2016年下半期と2017年の「教会」での説教予定です(勤務校の礼拝等は除いています)。下記以外の日曜日の予定はありません。小さなしもべを貴教会の説教者として用いていただけますと幸いです。

2016年7月3日

関口 康

日本基督教団教務教師(正教師)
yasushi.sekiguchi@gmail.com

【2016年】
 7月10日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 8月14日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 8月21日(日)日本基督教団阿佐ヶ谷東教会(東京都杉並区)
 8月28日(日)日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)
 9月11日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
10月 9日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
11月13日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
12月11日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)

【2017年】
 1月 8日(日)日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
 1月22日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 2月12日(日)日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
 2月26日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 3月12日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)

よろしくお願いします

2016年7月2日土曜日

豊島岡教会南花島集会所で説教することになりました

先週日曜(2016年6月26日)に初めて礼拝に出席した日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(松戸市南花島4-61-17-102)で来年1月8日(日)と2月12日(日)に説教することになりました。新京成線「上本郷駅」徒歩9分(800m)、JR常磐線「松戸駅」徒歩16分(1200m)。→地図

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)