2016年6月18日土曜日

「真の謙虚が堕落に見え、真の堕落が謙虚に見える」かもしれない

とても暑い一日でした
2016年6月18日土曜日18時50分、千葉県柏市の借家の書斎から見た千葉県北西部および東京都上空の映像をお届けいたします。現在の当地は気温26度、湿度77パーセント、風速2メートル毎秒(Googleのデータ)。本日最高気温32度。

唐突に書きますが、フィリピの信徒への手紙2章6~11節の「キリストは神の身分でありながら」以下の箇所は、「キリスト者は謙虚であるべきだ」ということを主張するために「実はキリストも(ものすごく特別な意味で)謙虚だった」と説いている点で、《道徳的な》話として理解していいことですよね。

それで私が何を考えたのかといえば、神の身分であられたキリストが、神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり、人間と同じ者になられたことが、キリスト者がそうであるべき「謙虚」のモデルだというなら、牧師たちなどは率先して「人間的」であるべきですよねということです。

しかも(ここから先が新作の産みの苦しみ)その場合の「人間的」の意味は「本来的には神的であるべき存在の人間化」でなくてはならないと思われますが、たとえそうだとしても、その「人間化」は「堕落」を意味すべきではない。キリストは「本来神だった」が「堕落」して「人間になった」わけではない。

この「謙虚」と「堕落」の区別というのは、字で書くだけなら、直感的には誰でも分かるし、納得してもらえそうなことですが、実際の見分けは意外に難しいし、現実の見てくれ的にはもしかしたら逆に見えるかもしれないと私は思います。「真の謙虚が堕落に見え、真の堕落が謙虚に見える」かもしれません。

そういうことを今日は朝からずっと書斎に引きこもって考えていました。本を開くでもなし、鉛筆やボールペンを持つでもなし。大量の本も宝の持ちぐされ。ぼーっと空を見上げ、ネットの字を読み、ネットに字を書いただけ。昼食は家族揃っていました。それが慰め。明日の夜までには体調戻すぞ。気合いで。