2016年6月18日土曜日

「非指示的説教」をしてきました

記事とは関係ありません
私はそもそも教会の牧師として毎週日曜に定期的に説教していたときすら「だから何」を必ずしも明確に語らないやり方を意図的に選択していた。それで不満を表明されることも少なくなかった。まして宗教団体ではありえない学校での私は、「だから何」を明言することを極力抑えている。ご批判もあろうが。

「聖書にこう書いてある。最近こういう事例がある。だからあなたはこうしなさい。そうすればあなたはこうなるであろう」という語り方を私は意図的に避けた。そんなの説教ではないと言われても。「「あとは推して知るべし」だとか言いたかったのではない。説教とはそういうものだと確信していただけだ。

そういう私の説教スタイルに自分で名前をつけたことはまだないが、いま思いつくままに命名すれば「非指示的説教」と呼んでもらって構わない。「非指示的」という語の並びを見た瞬間に、ロジャースの「来談者中心療法」を連想できる方々がおられると思うが、それに近いかと問われれば「はい」と答える。

いわんや学校をや、である。「非指示的教育」とか「非指示的授業」とか「非指示的講義」というのは究極の矛盾概念かもしれないと思いつつではあるが、他方で思うことは、カウンセリングマインドをもって教育のわざに就くとは結局そのようなことを意味せざるをえないのではないか、ということでもある。

幸か不幸かどう間違えても私自身は「理想の牧師」にも「理想の教員」にもなりえない。なりたいと思ったことがないし、その場合の「理想の」とは何を意味するのだろうかと、そのあたりで面倒くさくどんよりと考えこんでしまうたぐいで、ますます「理想のなんちゃら」から遠い、不スマートな人間である。

ただ、そんな私が比較的はっきり語りうるのは、私自身もまた、遠い過去においても、近い過去においても、「教会」でも「学校」でも深い心の痛手を負った経験があるし、進行形の現在においても、おそらくは近未来においても遠未来においても状況は変わらないだろうという予測を持っているということだ。

そんな「教会」と「学校」のある意味ど真ん中で、私は「非指示的説教」と「非指示的授業」をすることで自分自身の心の痛手の問題を解決しようとしているのかもしれない。「教会(の支配)からも学校(の支配)からも救い出されたい」と願う人は潜在的に多い。問題は、救い出されてどこに行くのか、だ。

いま書いていることにも結論はない。「非指示的ツイート」だ。お互いをよく知りもしないのに、ずいぶんと一方的な指示や指南をしたがる人を苦手とする私でもある。自分にしてほしいと思うことを人にもせよ。自分にしてほしくないと思うことは人にもするなと、だいたいいつも考えている。今日は土曜日。