2015年1月30日金曜日

「バルト神学の受容」と「教会の戦争協力」の関係は「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのか

カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])
K先生

興味深い記事をご紹介くださり、ありがとうございます。まだ印象の段階ですが、私はかなり違和感を覚えながらリンク先の記事を読ませていただきました。私の長年の問題意識の琴線に触れる内容でもあり、この問題は深刻に受けとめています。その上で申し上げたいのは、違うのではないかということです。

150年余に及ぶ日本プロテスタント教会史における「バルト神学の受容」と「教会の戦争協力」との関係は、①前者「にもかかわらず」後者なのか、それとも、②前者「だからこそ」後者なのかという二者択一において、現在の多くの神学者(国内外問わず)は、かなり無批判に①を選択してしまっています。

しかし実際には、②の可能性もかなりあると考えるべきだと私は思います。はっきり言えば、私はどちらかというと②を選びます。その理由は、バルトおよびバルト主義者が第二次大戦後のヨーロッパにおいて「キリスト教政党」に対して採った態度ゆえです。彼らは「キリスト教政党全否定論」の立場でした。

バルトが起草したことでよく知られるいわゆる「バルメン宣言」や彼の影響下に書かれた諸文書のすべては「対教会的文書」です。それは「内向き」であり、その神学者が属する教派・教団と関係諸教会のメンバーたち、つまりキリスト者たちへの呼びかけです。直接的な「外向き」のアピールではありません。

もちろん、たとえそういうものであっても、まわり回って「対国家的文書」という意味の「外向き」の役割を果たすようになることは、もしかしたら、ありうるのかもしれません。しかし、それらの文書を埋めつくす概念のすべては神学と教会の専門用語であり、世間一般の人々には理解しようのない暗号です。

そういうものをもってバルト主義者たちは「反ナチ文書」と言いたがるかもしれませんが、それらの文書が実際に機能した場所は(せいぜい)「教会」の内部だけであり、「国家」や「社会」を動かした形跡はありません。

バルトとバルト主義者の「キリスト教政党」への全否定の態度はよく知られています。アメリカにも日本にも「キリスト教政党」は存在しませんので、バルト主義者たちの「キリスト教政党全否定論」の意味を理解できる素地がアメリカにも日本にもないため、これの問題性を認識しづらい面があると思います。

オランダの実例でいえば、第二次大戦後のオランダでバルト主義者が徒党をくんで始めたことは、19世紀に由来するオランダのキリスト教政党「反革命党」を政権与党の座から引きずり下ろし、「労働党」(共産党とコレスポンデンス)を支持すべきことをオランダのキリスト者に精力的に訴えることでした。

これが意味することは、オランダのバルト主義者(彼らはスイスのバルトと常に連絡を取り合っていました)は、キリスト者が「政党」という形で政治や社会にかかわることを中止させることに精力的に寄与したということです。言い方を換えれば、彼らのしたことは、キリスト教の政治的無効化への寄与です。

繰り返し言えば、バルトとバルト主義者がしたことは「キリスト教政党という形での教会の政治に対する直接的関与を否定すること」でした。それはキリスト教の政治的側面の無力化ないし「脱構築」を意味していました。代わりに彼らがしようとしたことは(せいぜい)「教会自身の政治的態度決定」でした。

それは、教派・教団の大会ないし総会で、多くの場合その議長名で、その国の総理大臣なり、大統領なりに宛てた文書を作成し、実際に郵送することです。それは、政府の側としては、官邸の郵便ポストに毎日届く大量の手紙の中の一通にすぎないものであり、まあたぶん、かなり確実に即ゴミ箱行きです。

そういう残念な結果に終わるであろうことは、その文書を書く人々の側でも、もちろん認識されています。それでも書こうというモチベーションが執筆者の中に保持されるのは、その人が書く文書には自分の属する教派・教団の人たちに対する「啓蒙活動」ないし「教化」としての意味があると思えるからです。

そしてまた、教会の「内向き」の文書に「対内的な政治的アジテーション」の意味は、なるほど確かにあるといえばあります。しかし、それは、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。私はいま皮肉や当てこすりを書いているのではなく、現実の教会が体験してきた事実を書いているだけです。

さて、くだんの「日本の教会の戦争協力」の問題に向かいます。当時の日本基督教団の「首脳部」(この表現おかしいですね)が発した文書が多くの人から糾弾の対象とみなされてきたことは、私もよく存じております。その人々を「かばう」意図は、私には皆無です。ただ、ここでの問題は、上記の二択です。

今考えているのは、70余年前の日本のプロテスタント教会の内部に起こった歴史的な事実は、かなり多くの人々がそう論じてきたように、はたして本当に、①バルト神学の受容「にもかかわらず」日本の教会の戦争協力だったのか、それとも、②バルト神学の受容「だからこそ」の戦争協力だったのか、です。

この二択において、あまりにも無批判に①を選択してしまう人たちの多さに、私は呆れる思いしかありません。まるでバルトとバルト神学は「常に正義」であるかのようです。この問題は、私にとってはどうしても見過ごすことができないものがありましたので、スレ汚しのコメントを書かせていただきました。

2015年1月29日

関口 康

2015年1月29日木曜日

緊急祈り会に出席させていただきました

日本基督教団富士見町教会(東京都千代田区)
今日は、日本基督教団富士見町教会で午後2時から行われた、日本基督教団の緊急祈り会「シリアで拘束されている日本人の解放とシリアの平和のために祈る会」に出席させていただきました。

正確な情報は、主催者発表をお待ちいただきたく思いますが、出席者は約80名くらいでした。私の勝手な印象で申し訳ありませんが、集まったみんなの心は熱く、でも良い意味で抑えの利いた、とても落ち着いた良い祈祷会でした。

シリアで拘束されている日本人の解放とシリアの平和のために祈る会
出席させていただこうと思った私の気持ちは、やや不遜かもしれませんが、「出席したい」という願いをお持ちになりながら、「東京ははるか遠いので願いが叶わない」という方々の「代わり」になれば、というものでした。

プログラムの内容は、石橋秀雄先生(日本基督教団総会議長)の奨励、佐々木美知夫先生(同副議長)の司式と祈祷、力強い会衆賛美、出席者の自由祈祷などでした。

帰り道のバス停で、学校帰りの高2の長女と鉢合わせしました。長女と二人でバスに乗るのは初めてかもしれません。

長女と二人でバスを下りて家まで一緒に歩き、「ただいまー」したとき「おかえりー」の声が聞こえ、手作りのシュークリームが待っていたりすると、ちょっとテンション上がりました。

おいしかったです

2015年1月22日木曜日

ケータイの形のスマホでも、それがスマホである以上、私は無理です

ケータイに戻して2年7ヶ月になります

スマホに換えて、懲りて、ケータイに戻して2年7ヶ月になります。ケータイのボディが、さすがに劣化してきました。そろそろ機種変したいのですが、我慢我慢。スマホへの逆行はないので、次のケータイはどれにしようかと夢をふくらませています。ケータイメールは相変わらず家族とのやりとりだけです。

スマホは手に馴染まなかったので、電話回線を止めて、今はWIFIカメラとしてだけ使っています。ケータイとタブレット(中古で購入)とパソコン(自作デスクトップ)を使っています。LINEは、アカウントだけはだいぶ前に取得しましたが、友達ゼロ状態で放置しています。誰も相手してくれません。

スマホに致命的な問題を感じたのは、「電話」と「他のもろもろの機能」とが並列関係で一緒くたにぎゅうぎゅう詰まっている状態の道具である点です。ケータイにもいろいろ付いているといえばついていますけど(写メとかです)、ケータイとは比較できないほど大量のアプリを、スマホは入れられますよね。

つまり、スマホが「電話」に与えている位置づけは、多くのアプリの中の一つにすぎないものでしかないと私には見えます。激しく相対化されている。全体の中の一パート。しかし私は、電話というのは、他のもろもろのアプリとは比較できないほど「別格の存在」だと思うんです、重要度と危険度とにおいて。

他のアプリの操作をしているうちにとか、スマホを胸ポケットに入れて歩いていたら、うっかり誤操作でかける意志のない相手に電話がかかってしまったなどということは、絶対にあってはならないことだと、私は思うのです。間違い電話やいたずら電話と、スマホ誤操作電話とは、受ける側の迷惑は同じです。

スマホを短期間使ってみて、これは無理だと思ったのは、「なんでもかんでも一緒くた感」です。特に「電話」と「他のもろもろ」は完全にベツモノとして分離されていなくては不安でたまらない。ひたすら恐ろしい。

そこが無理なので、「ケータイの形のスマホ」も、それがスマホである以上、私は無理です。

あと、スマホで電話かけようとする人を見ているとけっこう共通しているのは、取り出してから電話かけるまでに時間がかかること。「えーと、これ押して、ここ出して」。そのうち他のアプリのボタンを誤って押して、「あ、別のが立ち上がっちゃった。あ、メモリが少ない。え?あ?や?」イライライラ。

というわけで私、スマホに換えれないんじゃなくて(いえ、換えれないんです笑)、一度はスマホにしたけど、これはツールとして非常に危険なものだと察知するものがあったのでスマホは使わないことにしたんです。

こんな釈明文、他の方にはどーでもいいことですが、いつか書いておこうと思っていました。

私はとにかく「電話」と「他のアプリ」がバリアフリーですーっと移動できるような状態にあることに戦慄すら覚えます。遊園地に爆弾が仕掛けられているような感じとまで言うのは大げさすぎるでしょうか。「電話番号」は名刺に書くほどのものですよ。

大きな声では言えませんが(とネットに大っぴらに書く)私も「電話」はあまり好きではありません。心臓に悪いですね。メールかSNSでお願いします。

スマホを利用されている方への嫌がらせとかでは全くないですからね。スマホが「通話もできるパソコン」であっても構いませんけど、とにかく有料の電話回線とはメカ的にベツモノであってほしい。何の誤操作で課金が始まるか分からない不安とかは真っ平だと言いたいだけです。

2015年1月20日火曜日

両極の高低差をつけすぎるな

私のネットの書き込みが毒にも薬にもならない理由は、具体的な記述はほとんどなく、だいたいが抽象的で人を幻惑する内容で埋め尽くすくせがあるからだ。ネットごときに核心に触れることを書いたためしがない。「言質とったぞ」とかしたり顔されるのがとにかく嫌なので、尻尾をつかませない自信がある。

そんな私であるが、たまには具体的なことを書く気になるときがないわけではない。なぜ人は、自分で自分を死なせてはならないか。そういう質問を私にすると、ほぼ確実にけむに巻かれることを知っている人が多いらしく、その質問をされたことがない。しかし、質問されたらこう答えようと準備はしている。

その答えはこうだ。「死んでも楽にはならないからです」。そういうふうに、10年以上前ではあるが、あるパンフレットに書いたことがある。死んだら楽になるなんて、だれが言ったのか。いまの現実よりも高級で至福の現実が我々の死後に待っているなんて、だれが教えたのか。だまされちゃいけないよと。

詳細な議論を展開する気力はない。天上と地上でも、彼岸と此岸でも、形而上と形而下でも、自分の腹にはまる表現で構わない。二極の「連続性」と「非連続性」の関係の問題であるといえばピンとくる方もおられるだろう。私の考えは、ほとんど「連続性」の線である。天上の現実と地上の現実は、大差ない。

それは自らへの戒めでもある。地上の現実からのエスケイプを後押しするほど天国をキラキラに描きすぎるな。ウィークデーの現実は地獄の闇であるかのようにサンデーの現実を称賛しすぎるな。両極に高低差をつけすぎるな。なるべくフラットに描け。ふらっと教会に来て、ふらっと現実に戻れるほうがいい。

こういうこと書くと嫌われることは分かっている。変身願望のある方には特に。だけど私には譲れないものがある。宗教や神学の論理的整合性の問題ではない。「死んでも楽にはならない。だから生きていよう」は私の信仰だ。自分の「ありのままの」現実を受け入れろとは言わない。そんなえらそうなことは。

顔文字の肯定的意味

あとは推して知るべし
遺言をしかるべき人と場所に預けて厳重に保管してもらうことと、古代人が硬い石に字を刻んで後世に何かを伝えようとしたこととの共通点は「敵の存在」だよなということを最近読んだ本(マンガではない)で考えさせられた。空中に消える声だけでは、家族や味方が全滅した場合、あとに何も伝えられない。

自分にとって都合の悪いことを「どぞどぞ、遠慮なく書き残してください」と言える人はそんなにはいない。人は自分に都合のいい歴史を編む。しかしそれが歴史のすべてではありえない。裏側がある。側面がある。闇があり、恥がある。それを書き残し、後世に伝える責任を痛感する者が、どの時代にもいる。

しかし、今考えているのは、大げさなことではない。眼前のネットのことだ。「ネットに書いた」で大炎上。職や命さえ失う人が後を絶たない。思いつきで書いた字が「動かぬ言質」とみなされ、責任を厳しく問われる。削除してもダメ。「○○氏は○○と書いたがそれをあとで削除した」と永久に記録される。

それで考えさせられるのは、ネットの中で行き交う、字でも画像でも動画でもない、顔文字やスタンプの肯定的な意味だったりする。字なるものを「動かぬ言質」とみなして徹底追及の口上で襲いかかってくる人々の存在を熟知している人々が、「字ではないよ、字ではないよ」と明示しながらの意思表示方法。

すべての人が永久に仲良くて、だれに対しても温かい理解力と親切を示す世界でありえたら、石に刻んだ文字も、厳重に保管された遺言も、要らない。次元は違うかもしれないが顔文字もスタンプも要らない。しかし現実はそうでないので、それらのものが必要だった。それは「必要悪」などではありえない。

その意味ではやはり「字」だけでコミュニケーションが完結することは、当然のことながらありえない。ネットにしてますますその度合いが強まるとさえ言える。顔文字やスタンプなどのそれぞれの意味があることはさることながら、それを「使用することの意味」がある。それは「あとは推して知るべし」だ。

しかし「あとは推して知るべし」を意味する顔文字やスタンプを用いる相手との間に必要なのは、かなりの範囲の共通理解や共通体験でもあるだろう。そうでないかぎり、推しえないし知りえない。「読者よ悟れ」は迫害者の検閲や追及を免れるための暗号なのだから。真に分かり合ったもの同士の酌み交わし。

すみません、特定のだれかへの批判とかではありません。ネット生活17年の中で考えてきたことを「書き残し」たくなっただけです。

あとは前稿の続き。制度としての学校と教師から完全にエスケイプできる社会はないと私は(私も)考えているが、それを「見透かす」ような格好で漁夫の利を得る人々(それが誰だかは必ずしも明瞭でない)に縛られなければならない道理もない。引き算で考えられないものかと、いつも悩んでいる。

本さえあれば教師も学校も要らないか

私の読解力はきわめて乏しい
「書店や古書店で買ってきた本を読みさえすれば、その中に書いてある内容は誰でも分かるというなら教師は要らない、学校は要らない」ということを、私は、教師と学校の存在理由の擁護のためと同時に、何度読んでも理解できない本があるこの私自身の読解力の無さの自己弁護のために言ってきた面がある。

しかし、そんないかにも見苦しい自己弁護を繰り返しさえすれば事が足りるというわけではありえないことに、今夜ふと気づく。単純な話だ。それでは逆に、教師と学校があれば、字で書かれた本は要らないのかと考えてみた。本が紙でできているかPCやタブレットの画面かは、この際どうでもいいことだ。

字だけにこだわるものでもなく、写真や絵は大いに加えられてよい。ただ、音声や動画は、相当迷うところだが、話を単純にするなら、別にしておくほうがよさそうだ。しかし、音声や動画も、「本さえあれば誰でも分かるというなら教師と学校は要らない」という論理の中でいえば「本」の側だと私は思う。

「本を読んでも分からない」数多くの理由の中の一つは、本には著者が書かないことがあるからだ。考えることはできる、口では言える、黒板に書くことくらいはできる。だけど、印刷して配布する、書店で販売する、家庭の書斎や図書館に長期保存される物体になるようなものには書くべきでないことがある。

著者が本には書かないことがある。「だから」教師と学校が必要だ。ナマの語りが大切だ、トークライヴが必要だと、私は確かに考えてきた面がある。しかし本当にそうだろうか。教師と学校は本当に必要だろうか。もちろん無くては困るだろう。しかし教師と学校は我々にとって「どれくらい」必要だろうか。

教師と学校は我々にとって「どれくらい」必要かという問いは教会や宗教の話とダイレクトに結びつけないほうがいいかもしれない。しかし、そこはお許しいただこう。教会に一生通わない人はいくらでもいる。牧師の説教など聞いたことがない人も少なくない。それで困ったという人の話をほとんど聞かない。

教会がこれほど無視されうる存在なのであれば学校はどうか。「本さえあれば(紙でできているかどうかは問わない)教師も学校も要らない」。そういうことをもっと明言しうる可能性はないのだろうか。ただしいま書いているのは「教師不要論」や「学校廃止論」ではない。「字の可能性」を肯定することだ。

2015年1月17日土曜日

阪神・淡路大震災の記憶

1995年1月16日-17日「ニケア信条を学ぶ研修会」のレジュメ
このところ毎年同じことを書いていますが、20年前の今日の朝、私は実家にいました。前日1995年1月16日(月)から17日(火)まで日本基督教団蕃山町教会(岡山市)で行われた「ニケア信条を学ぶ研修会」(講師 関川泰寛先生)に出席していました。私は日本基督教団南国教会の牧師でした。

1月16日(月)の夜は実家で宿泊。さほど強くはないが不気味な地震で目を覚ましたのが1月17日(火)の早朝。枕が左右に揺さぶられて、なんとなく脳がくらくらした状態で、布団に潜っていました。テレビをつけた父が「康、神戸がたいへんだ!」と言った声と顔を、いまでも忘れることができません。

妻は、前年1994年12月26日に生まれた長男(生後2週間)と二人で、日本基督教団南国教会(高知県南国市)の牧師館で留守番してくれていました。岡山よりも高知のほうが強く揺れたようです。被害うんぬんというほどではありませんでしたが、そんなときに不在だったことを申し訳なく思いました。

当然「ニケア信条を学ぶ研修会」二日目のプログラムは中止。全員帰宅することになりました。しかし、少なからぬ参加者が兵庫、大阪、和歌山、三重の方面から来ておられました。鉄道も道路もストップしているとの報道を受けました。帰るに帰れない。しかし、家族と連絡が取れない。心配なので帰りたい。

そんな中、徳島港から出ている大阪南港行きのフェリーは動いているらしいという情報を得ました。その情報を信じて近畿地方からの参加者を何台かの自動車で徳島港までお送りしました。私の自動車にも乗っていただき、徳島港でお別れしたのち、高知南国の牧師館に戻りました。これが20年前の記憶です。

2015年1月12日月曜日

講演会のお知らせです

『途上』第28号(キリスト新聞社、2013年) 好評発売中

私もお話しさせていただく講演会のご案内を拝受しましたので、謹んでご紹介いたします。

主催者は雑誌『途上』(最新号は第28号、キリスト新聞社)の「思想とキリスト教研究会」です。

                   記

「思想とキリスト教研究会」 講演会のご案内

日時 2015年2月16日(月)午後2時~午後5時
会場 日本キリスト改革派 東京恩寵教会(東京都渋谷区恵比寿西1-33-9)
      JR 山手線 恵比寿駅より徒歩8分
      東京メトロ日比谷線 恵比寿駅より徒歩6分
      東急東横線 代官山駅より徒歩5分 地図(googleマップ)

プログラム

挨拶・礼拝(14:00)

講演Ⅰ(14:20)
「ファン・ルーラー研究の意義」 日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師   関口 康

休憩(15:10)

講演Ⅱ(15:20) 
「アリウス――人物・運動・教説」 京都大学名誉教授  水垣 渉
                                                                     
報告・話し合い(16:40) 

*講演の内容は、歴史的展開におけるキリスト教会・思想・神学に関する考察であり、時代的には現代(ファン・ルーラー、20世紀のオランダの神学者)、そして遠く遡って古代(アリウス、4世紀前半)がテーマになっています。大変、興味深い内容です.奮ってご来聴ください。
 
連絡先  常葉謙二 TEL:044-797-2581 mail:hamtokiwa@cilas.net




2015年1月10日土曜日

けんかをやめてほしいだけです

この一段分すべてファン・ルーラーの(of)/についての(about)本です
「両方大事」と言うと、両方から嫌われる。どちらからも「優柔不断」「裏切り者」「敵の味方は敵」「超然とした上から目線」と非難される。真ん中で接着剤になろうとすると、ニッチに立つことになりますよね(だれに同意求めてんだ)。接着剤は両方からブチュッとつぶされることで役を果たすものです。

両方からブチュッとつぶされる接着剤になろうとした神学者がファン・ルーラーです。それは一種の「ニッチの神学」です(これで意味が分かる人がいるのだろうか)。もっとも、彼は全キリスト教の接着剤になろうとしたわけではなく、オランダ改革派教会の内部分裂を食い止めようとしただけではあります。

私は、でもファン・ルーラーの神学は日本の全プロテスタント教会の接着剤にはなると思ってるんですけどね。「そう思ってるんだったら四の五の言ってないでさっさと翻訳しろ」とかどやされるんですが。でも、ブチュッとつぶされた神学者を紹介しようとすると「敵の味方は敵だ」とか思われてブチュッと。

とか書いてると「ブチュブチュうるせー」と、また怒られる。嫌われても嫌われても接着剤の位置関係にとどまり続けることに耐えられるほどもう若くないんで、どなたかやってくださいませんか。全部訳してくださるという証書にサインしてくださる方には私の蔵書のファン・ルーラー全著作をお譲りします。

有名な人になることも、人のほめる言葉も、私の心をひいたことはないですよ。ほんとですって。だいたい私、昔から今に至るまで、学業成績不良の勉強苦手人間なのですから。

けんかをやめてほしいだけです。けんかをやめて~、二人を止めて~、私の~ために~争わ~ないで~、もうこ~れ~以~上~です。

あーあ。

2015年1月8日木曜日

主の山に備えあり


「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名づけた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」
(創世記22:14、新共同訳)

「『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名づけた。」
(創世記28:17-19、新共同訳)

「『わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。』」
(創世記45:4-5、新共同訳)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
(ローマの信徒への手紙8:28、新共同訳)

「天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。」
(ハイデルベルク信仰問答 問1の答、吉田隆訳)

「『アーメン』とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。」
(ハイデルベルク信仰問答 問129の答、吉田隆訳)


2015年1月7日水曜日

私は「個人の行為」として説教原稿をネットで公開しています

私の説教ブログにはいろんな教会で行った説教が含まれています

ネット説教をグーグルで検索すると分かるのは、公開方法にタイプがあることです。最少でも二つのタイプがあります。(1)教会の行為として公開しているものと(2)説教者個人の行為として公開しているものです。さらに前者が二つに分かれます。(1a)説教者名つきのものと(1b)匿名のものです。

ネット説教を(1)教会の行為として公開していると言える根拠は、説教記事が掲載されているURL(ネット上の住所)に教会名が入っている、あるいは、教会の公式ホームページにリンクされている、というあたりです。その中に(1a)説教者名が明記されているものと(1b)匿名のものがあります。

教会の行為として公開されているネット説教が匿名になっている場合(1b)は、教会の公式ホームページにも牧師名もしくは説教者名が記されていない実例が多数確認できます。教会は人間のものではなく神のものである。説教は神の言葉であって人間の言葉ではないという態度表明ではないかと思われます。

私は(2)説教者個人の行為としてネットで説教を公開する方法を、意図的に選択しています。それは(1)教会の行為として公開する方法を批判ないし問題視してのことではありませんが(対抗意識は皆無)、説教文書の責任の所在や扱い方についてかなり悩み、熟考した結果として選んだ方法ではあります。

そもそも私がネットで(最初はメーリングリストやホームページ、最近はブログやSNS)説教を公開するようになった動機は「伝道目的ではない」と明言してきたことを覚えておられる方もいらっしゃると思います。そういう私の物言いに反感を抱かれた方もおられます。実際に面罵されたこともあります。

私が説教をネット公開しようと思った動機は、大別すると二つです。

(一)徹夜で書いた原稿も、一回限りで廃棄するものではある。しかし、原稿の保存は必要である。紙ではなくネットに載せておけば、かさばらなくて済むと思ったこと。

(二)「言った、言わない」論争で苦しんだ駆け出し時代があった。「あなたは○月○日の説教で私に個人的な当てこすりをした」「いやまさか、そんなことはしない」「いや、した」「いや、しない」。「そこまで言うなら、私の原稿を読んでみてください」といつでも言える備えが必要であると思ったこと。

ノートに手書きで原稿を書いていた頃は、「そこまで言うなら、私の原稿を読んでみてください」とは言いにくかったのですが、ブログやPDFの状態で保存しておけば、言いやすいです。しかし、ネットで説教を公開しはじめてからは、「言った、言わない」の論争に巻き込まれたことは、一度もありません。

私も決して、すべての説教者が説教原稿を公開しなければならないとは考えていません。「せずに済む」なら、それに越したことはないとも言えます。特に私は、(2)個人の行為としてネット説教を公開する方法を選択していますので、自由度は高いです。だれに強制されてしていることでもありません。

しかし、完全原稿でないものでも、たとえばメモでも、それはそれで公開すると、他の人の参考にはなると思います。説教の「内容」についての参考というよりも、説教の「形式」についての参考です。「おお、この方は、こういうメモで説教しているのか」ということがわかると、それはそれで面白いです。

他の人の説教との類似性という点も気にしなくていいと思います。ネット時代は複数の説教を並列的に読めます。複数の人が同じことを言っているほうが、かえって信頼感が増します。あの人とこの人が言っていることが全く違うと、何を信じればよいか分からなくなると言い出す人が増える可能性があります。

説教そのものと説教文書(紙の本であれ、ネットであれ)の関係を考えるとき、ポール・リクールの考察が役に立ちます。パロール(言葉)とエクリチュール(書)の関係は、預言「そのもの」と預言「書」の関係のみならず、説教「そのもの」と説教「文書」の関係を考えることに、そのまま当てはまります。

説教そのものは、空気の中で消えていく、目に見えない言葉です。それ以上でもそれ以下でもありません。しかしまた、その説教は少なからざる場合において容赦ない批判にさらされます。上記のような「言った、言わない」の不毛な論争に巻き込まれてみたり、揚げ足取りや告訴の言質にされてみたりします。

かくして説教者たちは、あらぬ噂や中傷誹謗の中で生活の根拠を失い、説教そのものをやめるか、人生をやめるかの二者択一の前に立たされます。そういったときに、エクリチュール(書)としての「説教文書」(紙の説教集であれ、ネット説教集であれ)が、小さからざる意味と役割を担うことがありえます。

エクリチュール(書)は、第三者の目に触れうるものであり、ある程度客観的に検証可能な物件です。「言った、言わない」の不毛な論争の原因となる発言を突き止め、対立する両者以外の第三者を加えて、言ったか言わなかったか、言ったとしてもどのような意味で言ったのかなどを論証することができます。

その上で、この説教者は資格や生活の根拠を奪われてもやむを得ないほどの過失や罪を犯したかどうかを、第三者機関で判定できます。しかし、説教がパロール(言葉)のままなら、それは不可能です。数人の(狭い)密室の中で処理されるだけです。説教者の側が保護されたケースは、ほとんどありません。

ネガティヴな話で終わってしまいましたね、すみません。これじゃダメだ。私がネットで説教を公開しはじめたのは、10年以上前です。今と状況が全く違います。私自身も10年前の動機のままではありません。もっとポジティヴな意義を感じています。客観情勢として、ネット説教の需要は増加しています。

虚しさは常にあるのです。ネット説教の需要の増加をネットで力説しても、読んでくださる可能性があるのはネットユーザーだけですよね。ネットユーザーにとっては自明のことをネットで主張してもほとんど意味ないですよね。ネットを使わない人には聞き流されるだけだし。虚しい、寂しい、苦しい言葉です。

またネガティヴな話に戻っちゃった。

ちなみに、今日は、午前中は通常の祈祷会がありました。午後は講演原稿を書いていました。来月(2月)と再来月(3月)に行われる、全く別の団体が主催する二つの講演会で、両方ともファン・ルーラーについての講演(内容は別々)をさせていただくことになっていて、そろそろお尻に火がついています。

「いまどうしてる?」を書かざるをえないのは、ツイッターやfacebookやブログに長い文章を書くとたちまち、ネットばかりやってるんだろう、他にやることあるだろう、教会員の顔が見えていないんだろうと非難されることが実際にあったし、いつでもありうるからです。

油断も隙もないネット界だ。

2015年1月6日火曜日

ネットの説教の需要は増加傾向にあります


「2015年新年礼拝説教」のアクセス数が「400」を超えました。ふだんの40倍です。

香山リカ先生がツイッターで、肯定的なコメントつきでリツイートしてくださったおかげです。

何が起こるか分からない2015年です。

今週の説教:2015年新年礼拝説教
http://yasushisekiguchi.blogspot.jp/2015/01/1.html

グーグルの検索結果が何を意味するのかは、いまだもって全く理解できていない私ですが、

(専門用語で私に説明しようとしても無駄ですからね、アルゴリズムだとかカタカナ見るだけでゾワゾワする人間です)

つい気になるのは「今週の説教」の検索結果です。

私の「今週の説教」は、なぜかしばらく最上位にランクされていましたが、ずいぶんサボっていた間は、検索しても何ページも出てこないほどランク落ちしていました。

しかし、このたびかろうじて1ページ目(第10位)に返り咲いたようです。

以下は、つい先ほど検索してみた結果の1ページ目です。

2位も3位も「富士見町教会」なのは悔しいですけど納得です。藤盛勇紀牧師の説教は絶賛に値します。私も毎週礼拝に通って藤盛先生の説教を聴きたいくらいです。

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Google検索「今週の説教」(2015年1月6日)

約 615,000 件 (0.23 秒)

検索結果

今週の説教 こうじ神父
blog.goo.ne.jp/knkouji

今週の説教 日本基督教団富士見町教会
www.fujimicho-kyokai.org/preach/index.html

今週の説教 日本基督教団富士見町教会
www.fujimicho-kyokai.org/sp/sekkyo/new.html

今週の説教 日本福音ルーテル大阪教会
www.geocities.jp/jelcosaka/service.html

今週の説教 カトリック伊丹教会
www.itami.net/sermon.html

今週の説教 日本キリスト教団 仙台青葉荘教会
www.aobasou.com/category/sermon

今週の説教 日本福音ルーテル天王寺教会
www.k4.dion.ne.jp/~tenno-ji/service.html

今週の説教 キリスト改革派東洋宣教教会
shining-hill.jimdo.com/今週の説教/

今週の説教 日本基督教団多度津教会
tadotsu-ch.com › メッセージ

今週の説教 (これです)
yasushisekiguchi.blogspot.com/

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クリスチャンの方々は、けっこうネットで、いろんな教会のホームページを見たり説教を読んだりしておられるようです。とくに年配のクリスチャンの方々は、ネットに期待するものはキリスト教と教会に関する情報が中心で、それ以外のことにはあまりネットは使わない、というケースが多いかもしれません。

とくに後期高齢者の方々で、自動車の運転免許証を返上なさった世代の方々、しかも「これからはクルマ社会になる」と言われていた(50年くらい前に造られた)郊外型の(当時の)新興住宅地(バスはかろうじてあるが、鉄道はない地域)に住んでおられるような方々から、ネットの説教の需要があります。

若い頃は、自分で自動車をすいすいと運転して、どんな遠い町でも、自分の教会に通っていた。しかし、今はそれが叶わなくなった。子どもたちは信仰をもって(くれ)ないし、同居もしていないので、だれも教会に連れて行ってくれない、というようなことになっていたりする場合が、少なからずあります。

配偶者も動けない、または召された。教会の仲間が迎えに来てくれていた時期もあるが、仲間もみんな(後期)高齢者になった。それでも説教に触れたい。そういうときに、ネットで説教を読んでおられるようです。これ、特定のだれの話というわけではありません。かなり多くの方が同様の状況におられます。

結語

こんなふうに私がネットの説教の需要を力説しなければならないことには、理由があります。牧師たちがネットを利用することに対していまだに根強い批判があるからです。しかし、いま教会に「通える」人たちと、ネットなしでいつでも最新情報を入手できる人たちは、ある意味で「幸せ」なのだと思います。

しかし、教会と牧師が「幸せな」人たちだけに関心をもつようになり、その人たちの益のためだけに動くようになったらおしまいだと私は考えています。教会に「通えない」人たちがどうしたら「通えるようになる」かを考えることも大事です。しかしそのベクトルだけではなく逆のベクトルの思考も必要です。

言い方は過酷かもしれませんが、時計は逆回しできません。人間の年齢は不可逆です。若い頃にできていたことができなくなった。それがまたできるようになる可能性は、あるものとないものとがあります。それは私だって同じです。抜けた歯は二度と戻ってこないし、進んだ老眼は二度と回復しないでしょう。

「これからはクルマ社会になる」という50年前の「予言」に基づいて描かれた教会と信徒の各家庭の関係(物理的距離や移動手段の問題が主)は全面的に見直される必要が生じています。ただ、その一方で、ネットは非常手段であると私自身は考えています。ネットを教会に置き換えることは考えていません。

子どもだからこそ真剣勝負です


前にも書きましたが、私が成人洗礼を受けたのが小学校入学前のクリスマス(1971年12月26日)でしたから、6歳でした。教会附属幼稚園の園児、日曜学校幼稚科の生徒。私は神さまのこと、聖書のこと、教会のことについて十分に考えていたし、十分に悩んでいました。早熟でもなんでもありません。

私が教会から離れて生きることはありえないことなのに、なぜ私は聖餐に与れないのか、仲間はずれにするなと怒りの念を抱き(6歳の幼稚園児)、牧師(当時70歳くらい)に直談判で洗礼を授けてもらいました。そういう私ですから、子どもを甘く見ることはありえません。子どもだからこそ真剣勝負です。

誤解がないよう言葉を足しておきますが、私は自分が受けた洗礼のあり方(6歳の幼稚園児が成人洗礼)を絶対化するつもりはありません。私の子どもたちには、生後まもなく幼児洗礼を授けました。上に書いたことの趣旨は、「幼稚園児も宗教問題で十分に悩みうることは私には分かる」ということだけです。

ありていに言えば、こと宗教問題に関しては、子どもに「子どもだまし」は通用しません。難解な専門用語を使え、という意味ではありませんが、事に即して正確に教える必要があります。不正確な情報しか教えられないなら、いっそ宗教に関しては何も教えないほうがまだましかもしれないと思うくらいです。

2015年1月4日日曜日

伝道が楽しいです


ごく最近の何ヶ月かのことでしかないのですが、いま日曜学校がとても元気です。今日も小学生以下11名でした。30年前の日曜学校は100名来ていたとか、そういう比較されても困るのですが。今の小学生は2002年生まれで6年生ですよね。1年生が2007年生まれですよ。なんだかすごいでしょ。

掛け値なしの「純21世紀生まれ」の小学生たちが、聖書の教えをものすごく豊かに吸収していますからね。真剣に聞いてくれます。私の質問に正確に答えてくれます。彼ら/彼女らの疑問に私もごまかしなしに答えてきたつもりです。日曜学校の小学生たちと聖書の話をしているときが、いちばん楽しいです。

日曜学校だけでなく(いわゆる大人の)礼拝の出席者も増加傾向です。現住会員数より多いです。同じ町内から来てくださる方が増えるのはうれしいことですね。私は「純・流浪系」の人間ですが、そんな私に公立中のPTA会長とかやらせてもらえたりした、若干(いやかなり)リベラルな町かもしれません。

とにかく伝道が楽しくて楽しくて仕方ない。今はそういう心境です。昔から不器用で、何の取り柄もないことでは人後に落ちない自信があるほどですが、「私のことは嫌いでも、神さまと教会のことは嫌いにならないでください」と言いたいです。これ真面目な話です。「この道しかない」は私のセリフですから。

2015年1月1日木曜日

2015年 新年礼拝説教

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂
PDF版はここをクリックしてください

エフェソの信徒への手紙6・10~20

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」

新年あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。

このところ毎年の新年礼拝で、教会の一年間の目標とする聖句(目標聖句)の解説をさせていただいています。

12月の定期小会で相談した結果、2015年度の目標聖句を「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソの信徒への手紙6・10)に決めました。今月1月25日の定期会員総会で承認していただきたいと願っています。

この聖句を今年の目標聖句にしましょうと提案したのは私です。もちろん理由がありました。教会はどのような力によって立っているのかを、改めて深く考える一年になることを願ったからです。

その答えがこの聖句に明言されています。教会は「主の偉大な力」によって強くされて立っているのです。「主」とは神です。教会は「神の力」で立っています。

そんなことは当たり前だ、キリスト教のイロハである、何を今さらこのことを強調する必要があるのかと思われるかもしれません。しかし、当たり前のことだからこそ、真剣に考えましょう。

「いや、そうではない。教会は人間の努力によっても立っている」。そういうふうに考えることは、もちろんできます。そのことを私は否定しません。そして、そのことは聖書の中でも否定されていません。11節以下を読めば、聖書が人間の努力を否定していないことが分かります。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)と記されています。神の武具を身に着けるのはわたしたちです。教会です。

そして、そのわたしたちが神の武具を身に着けて何をするのかというと、「悪魔の策略に対抗して立つことができるようにする」のです。悪魔の策略に対抗して立つのもわたしたちです。教会です。

悪魔の策略に対抗することも、立つことも、わたしたち以外の誰かがやってくれるわけではありません。わたしたち自身は戦わないし、自分で立とうとはしないが、わたしたちの代わりに神が戦ってくださり、教会を立ててくださるという話ではないのです。

「神の武具」の具体的な種類が14節以下に書かれています。

「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。

ここに出て来るのは、帯、胸当て、履物、盾、兜、剣です。こちらのほうだけ読めば、古代の軍人が鎧を着用した姿を思い浮かべることができます。しかし、これらすべてはたとえです。ここに書いてあるとおりのことをイメージするとしたら、この人は丸腰です。

帯くらいは締め、履物くらいは履いているかもしれません。しかし、胸当ても、盾も、兜も、剣も、目に見える形のものは持っていません。全くの裸ではないかもしれませんが、堅い金属のよろいではなく、ごく普通の服を着た人の姿でしかありません。

つまり、ここに描かれているのは武装した軍人の姿ではなく、文字通り丸腰の、完全なる一般市民の姿です。真理も、正義も、平和の福音を告げる準備も、信仰も、救いも、神の言葉も、わたしたちの目に見えないものだからです。

「それで何ができるのか」と思われるかもしれません。現実の武器や凶器を持った人もいる危険な世界の中に丸腰で出かけるのは、自ら死にに行くようなものではないかと思われるかもしれません。

しかし、教会とはそういうところなのです。わたしたちは「主の偉大な力」によって、すなわち「神の力」によって立っているのです。

教会では牧師だけではなく、長老や日曜学校の先生が聖書のお話をしてくださっています。また、聖書のお話をする人だけがいても、教会は成り立ちません。話を聞いてくださる人がいなければ、教会は成り立ちません。

言葉とはそういうものです。コミュニケーションです。キャッチボールです。相手がいない話は独り言です。独り言も言葉ではあります。しかし、そればかり続けていると虚しくなってきます。

「牧師の説教だけで教会が立っているわけではありません、そんなことはありえません」ということを言いたくて、今の点を付け加えました。教会の全員が神の言葉を宣べ伝えるために奉仕するのが教会です。

しかし、その神の言葉は、わたしたちの目に見えないものでもあります。何が、どんな力が、教会を立てているのかを、わたしたちは目で見ることができないのです。目に見えない神の力によって、神の言葉の力によって、教会は立っているのです。

「主に依り頼み」については説明が必要です。原文に「依り頼み」という表現は見当たりません。原文は「主にあって」(エン・キュリオー)です。「に依り頼み」は、訳者が補った表現です。

意味として間違っているわけではありません。しかし、今年の目標聖句の強調点は、原文にない「依り頼み」のほうではなく、後半の「その偉大な力によって強くなりなさい」のほうにあります。

教会は「神の力」によって強くなります。「神の力」で立っています。それは、神の言葉であり、聖書であり、説教であり、信仰です。

そこがおろそかにされたり、ないがしろにされたりすると教会は弱くなります。しかし逆に、そこが重んじられれば、教会は強くなります。

そのことを今年はぜひ深く考えたいと願っています。

(2015年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)