悲しいとか悔しいとかいうほどの強い思いはありませんが、教会が常に新しい価値を生み出していく姿勢(価値創出的)ではなく、既存価値を追いかけるだけの姿勢(価値追認的)であることは、なんだかつまらないです。はっきりいえば、教会なんかやってる意味ないです。世の価値を教会に持ち込んで「へ~」だ「は~」だ言ってるだけなら。
でも、だからといって、いかにもしょぼいものをつくってごく近い身内だけで自己満足にひたっているというのも、おかしいといえば、たしかにおかしい。
文脈は違いますが、青島刑事の言うところの「許してくれるのはな、パパのお友達だけだ」ってやつです。
「両方大事ですね」と、他の件なら大抵そう言うぼくですが、本音をいえば、どっちもイヤですね。でも、強いて選べば、後者(しょぼいほう)です。たぶん、だからぼくはダメなんでしょうけどね。
背負ってるものが、いまだにほとんどない。無責任の極みです。気楽ではありますよ。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(旧約聖書 ヨブ記1章21節)です。
あ、でも、ぼくがどうであるかはどうでもいい。問題は、教会はどうなのかです。
いちばん理想的なのは、真に価値創造的でありつつ、あらゆる価値を凌駕すること、かな。
それ、なんなんでしょうね。そういう何かこそ「権威」の名にふさわしいと、ぼくは思います。
「ガンダーラ」みたいだ。
その国の名はガンダーラ
どこかにあるユートピア
どうしたら行けるのだろう
教えてほしい
仏教化してきたのかな、ぼく。