2014年1月4日土曜日

「微妙な神学」の鍵概念としての「反射性」

ぼくが「微妙な神学」を目指すと言う場合の模範は、やはりファン・ルーラーの神学だ。彼の神学ほど微妙なものは過去に見たことがない。最初は何を言いたいのか分からなかった。「細かすぎて伝わらない○○」のような、徹底的にディティールにこだわる神学だ。この神学教授に鍛えられた学生たちは幸いだ。

「微妙な神学者」ファン・ルーラーが自分の教義学に持ち込んだ概念の一つはreflexiviteitだ。英語のreflexivityなのだが、なんと訳せばいいだろう、「反射性」か「再帰性」か、そのあたりだろうか。1950年代の社会学の概念らしい。出典はカール・ポパーではないかと思う。

社会学などで言われる「反射性」(reflexiviteit)は、事物の原因と結果が鏡面反射のような呼応的な相互関係にあることを指しているのだと思う。そういう概念をファン・ルーラーは教義学に持ち込んだのだ。これは「微妙な神学」にとっては、きわめて有用な概念だ。

「反射性」(reflexiviteit)の概念が教義学に有効であるということは、実際の教会生活をしていれば、すぐに分かることである。教会には、牧師と信徒が、説教を語る者と聴く者が、啓示と現実がまるで鏡面反射関係のように「向き合う」ないし「対峙する」場で満ち満ちているからだ。

そして実際の教会生活を体験すれば分かることであるが、同じ一人の牧師が語る説教を毎週のように聴いている人たちが、その牧師の説教を各人各様の聴き方をする。牧師自身の問題意識やその説教にこめた意図などどうでもいいことかのように、その説教を聴く人たちは、それぞれ自分の問題に当てはめる。

もし説教を語る者とその説教を聴く人々との関係を「鏡面反射関係」のようなものかもしれないと考えてみるとしても、それは「原本とコピーの関係」だと言っているわけではない。角度によって、その時々の光線の照度によって、鏡面のゆらぎ具合によって、写り方は異なる。同じ写真は二度と撮れないのだ。

同じ写真は二度と撮れない。説教を語る者と聴く人の「鏡面反射関係」は両者の同一性を意味せず、むしろ違いを担保する。説教者の意図は事実上無視される。「ぼく/あたしの説教はこういうふうに聴いてほしかった(のに、そういうふうに聴いてもらえなかった)」という愚痴は、牧師の日常茶飯事である。

しかし、それでいい。それでいいのだ。説教は、どんなふうに聴かれてもよい。各人の信仰は、説教者の思想のコピーによって成り立っているのではない。説教者の思想の影響が無いとは言わない。しかし、それを言うとしても、一人の説教者の影響ではありえない。複数の説教者の思想がからみあっている。

「説教者の思想」という、最も反発を受けやすい言葉を今はあえて使っている。説教は神の純粋な啓示ではありえない。そこにいろいろなものが混入する。説教者の思想も混ざって当然だ。しかし、その説教が説教者の口から放たれ、聴く人の耳に届いても、それで神の啓示が「目標」に到達したわけではない。

説教が、聴く人の耳に届き、「心」に届く。その場合おそらく脳に届き、そこで何らかの反応が起こり、一部ないし全部が記憶される。それが神の啓示の「目標」ではない。その人は礼拝堂の椅子から立ち上がり、帰宅する。そしてその日あるいは次の日から、神の啓示が混入した存在としての言動を開始する。

だから説教を語る者は説教を聴いた人々を「教会の壁の外」(extra muros ecclesiae)へ押し出す必要がある。むろん説教者自身も「教会の外」へ出ていく。教会の外は「世」と呼ばれる。外に出た人が、神の啓示が混入した存在としての言動を開始する。それが神の啓示の「目標」だ。

ファン・ルーラーは「神の啓示」について語ったり書いたりするときにはいつでも、いまぼくが書いたくらいの長いスパンのことを考えている。神の啓示は、聖書→説教→信仰→個人生活で終わらない。社会へと出ていくことでも終わらない。社会の中で神の啓示が「政治的な形態」を獲得するまで終わらない。

念のため書いておくが、教義学が「反射性」の概念を受容することは、牧師は教会員の日常行動を監視し、思想チェックをすべきである、というようなこととは全く異なることである。そのような恐怖政治は断固拒否すべきである。むしろ、「反射性」は信仰の自由を保障する。説教の聴き方の自由を保障する。

とはいえ、説教者自身に責任もあるだろう。それは単純素朴な因果律で説明できるものではないかもしれないが、仮に説教を「原因」とする「結果」なるものがどこかにあるとするならば、それは何なのか、どうなっていくのか、良い結果なのか悪い結果なのかに関心をもつというくらいの責任はあるだろう。

説教者は、毎週の説教が終わった後、「今日も分かりにくい説教でごめんなさい」と思っている。実際、その日の夜あたりは、説教を聴いた人の心に「今日は分かりにくい説教だった」という思いが残っている。その話題で家族で盛り上がる。牧師の体調の心配が話題になる。それも「反射性」の一種である。

新年早々ずいぶん長々と書いてしまいました。そろそろ休みます。ではでは。