「神学」は万人に公開されているもので、だれでも取り組むことができます。
ファン・ルーラーは「神学」を「最もポピュラーな学問」と呼んでいます。
することは、本を読むことと、字を書くことです。他にどうすることもできません。
本を読むことは、立ってでもできるし、座ってでも、歩きながらでもできます。
字を書くことは、どうでしょう、なるべくなら座ってのほうがいいような気がします。
でも、立ってでも歩きながらでも字を書くことができる人がいるなら、それもよし。
とはいえ、はっきりしていることは、
神学への取り組みとして本を読むことと字を書くことには、長大な時間がかかる、
ということです。
そして、それは「没頭すること」なしには、たぶんモノになりません。
しかし、困ったことがあります。
本を読み、字を書いている人の姿は、
ハタから見ると「何もしていない」ように見えることがあります。
だから、その人は「売れる本」を書かねば「仕事している」と認められません。
ですが、「売れる本」を書くために、たとえば小説家のような人は、
ほとんどすべての時間を「本を読み、字を書くこと」に費やしています。
「神学」も、たぶん同じです。
そうすることが「仕事」であると認めてもらう《権利》を獲得することなしに、
長大な時間を「本を読み、字を書くこと」に費やすことはできません。
しかし、その《権利》は、どのようにして獲得すればよいのでしょうか。
やっぱり修道院が必要でしょうかね。
インディーズ系の神学は、いつまで経ってもオタク呼ばわりですかね(自暴自棄)。