2014年1月17日金曜日

阪神・淡路大震災の記憶


ぼくも「阪神・淡路大震災の記憶」を書きます。

1995年1月16日(月)と17日(火)、

ぼくは岡山市内にいました。

「ニケア信条を学ぶ研修会」(講師 関川泰寛先生)に出席するためでした。

その前日の1月15日(日)は、前年(1994年)12月26日(月)に生まれたばかりの長男に、父(ぼく)の手で幼児洗礼を授けた日でもあります。

つまり、当時、長男は生後3週間。

その子と妻を高知県南国市の牧師館に残して、ぼくは「ニケア信条を学ぶ研修会」に出席するために岡山市にいました。

一日目の学びが終わり、岡山市に実家があるぼくは、他の出席者と別れ、実家で宿をとりました。

翌朝5時46分。ぼくはまだ就寝中。

「枕が揺れる~」という違和感がありました。でも、目が覚めるというほどではなく、夢の中のようでした。兵庫県の隣県にもかかわらず、岡山市内の揺れはその程度でした。

その直後、テレビをつけた父が

「おお、康。神戸がたいへんだ」

と言ったことを忘れることができません。

それで飛び起き、眠い目をこすりながら支度して、

「ニケア信条を学ぶ研修会」の会場の蕃山町教会に行きました。

当然、二日目の学びは中止。この会の出席者は、遠くは和歌山あたりから大阪、兵庫くらいまでの教師・信徒でした。

自分の家と連絡がつかない!

道路も電車も止まっている。どうする。

それでみんなで思いついたのは、紀伊半島や大阪方面からの出席者を、岡山から瀬戸大橋経由で徳島港まで送り、フェリーで帰っていただくことでした。

ぼくは四国からの参加組でしたので、ぼくの車にも紀伊半島在住の何人かの方が乗り、徳島港まで行きました。

そのことに必死になっている間、意識の外に置いてしまっていたのは、高知の牧師館の二人のことでした。

高知もかなり揺れたそうです。

帰宅後、長男は「ああ、こわかったー」とは言いませんでしたが(生後3週間でしたので)、妻の表情が若干こわかったことを、忘れることができません。

大きな被害に遭われた方々のことを知るにつけ、胸が痛みました。

そして、「いろんな意味で」阪神・淡路大震災は、ぼくの人生の転機になりました。

1995年時点で父が「神戸がたいへんだ」と言ったことの背景には、その数年前からぼくと神戸改革派神学校(日本キリスト改革派教会立)との関係がありました。

2年後の1997年1月にその神学校の2年に編入しました。

編入後、神学生から震災時の苦労を教えてもらいました。