2014年1月3日金曜日

「微妙な神学」をめぐる三つの断想

あぁ、こういう感じかなと悟れるものがあります。

「パウロにつく」「アポロにつく」「ケファにつく」「キリストにつく」。パウロはどーれだ、という四択問題を出されることがありますが、正解はたぶんどれでもない。

出題自体が間違い。そうやって人をどの選択肢かに誘導しようとすること自体が間違い。

というか、「どれでもある」と答えるほうがいいのかも。パウロにもアポロにもケファにもキリストにもつけばいい。みんなリスペクトすればみんな相対化される。

ぼくがそうだと言ってるんじゃないですよ、パウロが言ってるのはそういう意味じゃないでしょうか、というくらいのことです。

 * * *

日本教会史上最大の誤訳は「弟子」ではないか。これほど発語するたびに苦痛を感じる言葉も珍しい。

ペトロやパウロといった人たちはイエス・キリストの「弟子」ではないと思うし、テモテはパウロの「弟子」ではないと思う。

まして、言わずもがなであることを十分すぎるほど知りつつあえて書くが、どう間違えても教会員は牧師の「弟子」ではありえないと思う。根本的な日本語の誤りを感ぜざるをえない。

ちなみにぼくは生まれた日から教会に通い始めて48年経過する者で、かつ、教会の牧会を始めて24年目を迎えようとしている者だが、いまだかつて誰の「弟子」になった覚えもなく、かつ、誰をも「弟子」とした覚えはない。

それはぼくの職務怠慢ではなく、むしろ職務への忠実さの現れであると確信する。

「弟子」という日本語のもつ独特の卑屈さやみっともなさは、ぼくに言わせていただけば目を覆うばかりである。

教会に限らずどの世界の人についても、「私は○○の弟子である」という言葉を平気で使える人に接すると、「よくもそういうことを、恥ずかしげもなく言えるものだ」と、ぼくは内心で感じている。

 * * *

「原資料の喪失が確実なので、原資料を根拠にして明瞭に語ることが不可能であるゆえに、あらゆる言説において、はっきり言いえないことを、はっきり言わないままにしておく」というのは、神学にとっては当然すぎるほどであるはずだが、そういう曖昧さを許そうとしない空気が神学の一部にあることは事実。

ただし、今のぼくは「神学論壇」のようなもの(がもし日本国内にあるのだとしたら、そのようなもの)からはすっかり離れた位置にいるので、そういう曖昧さを許そうとしない空気が神学の一部にあることは事実「のような気がする」としか、実は書くことができない。

曖昧なことを曖昧なままにしておく神学は「微妙な神学」だが、そういう神学、しかもそういう組織神学をぼくは目指したい。

「微妙な組織神学」とか「曖昧な教義学」というと、まるで概念矛盾のように思われてしまうかもしれないが、そんなことはない。それこそが神学本来の姿を取り戻すことだ。

「微妙な神学」というのは、神学の微分積分というべきことだ。数学的論理の神学的応用のようなことを言いたいのではない(数学は苦手なので)。

人の心理や行動、歴史的な事実や判断に接近し、そこに見られる曲線や曲面、しわやひだ、傷や血、汗や涙の意味や価値に目と手が届く認識が「微妙な神学」だ。