2013年4月14日日曜日

なぜ教会が必要なのですか


ローマの信徒への手紙1・8~15

「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」

先週からローマの信徒への手紙を学びはじめました。今日の個所は、まだこの手紙の冒頭部分です。ここに書かれていることを一言で言えば、パウロはローマに行きたいということです。ローマの教会の人たちに会いたいのです。

しかし、パウロはローマに行くことができません。行きたくても行けません。次のように書いています。「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられている」(13節)。何らかの妨害があると言っています。それが何なのかについては書いていません。しかし、考えられることは少なくとも三つあります。第一は人事の面、第二は経済の面、第三は文字通りの妨害です。

第一の人事の面とは、次のようなことです。パウロはかなり頻繁な移動を伴いながら、いろんな地で伝道し、そこに新しく教会を生み出すという仕事をしています。そして、新しく教会を生み出すためには、しばらく同じ地にとどまり、教会の土台を据える必要があります。その場合、いくらパウロでも、一つの地で伝道をしている最中に、他の地で伝道することはできません。パウロは人間ですので、体は一つしかないからです。どれほど強くローマに行きたいと願っても、今の仕事を終わらせてからでないと、次の場所に移ることはできません。だから、パウロはローマに行くことができないのです。

第二は経済の面です。今でも同じことが言えるわけですが、外国に旅行するためには、それなりのまとまったお金が必要です。一週間や十日ほどの旅行であれば少しがんばれば貯金できそうですが、一か月や数か月、あるいは何年かの滞在ともなれば相当まとまったお金が必要です。自費でまかなうにせよ、支援を受けるにせよ、まとまったお金を作るために時間がかかります。そのお金がまだないので、パウロはローマに行くことができないのです。非常に現実的な事情です。

しかし、もう一つあります。第三は文字通りの妨害です。パウロは、伝道旅行の行く先々で迫害に遭ってきました。数々の暴力、逮捕や監禁や鞭打ちまで味わいました。体も心もぼろぼろに傷つき、へとへとに疲れ果てています。彼の願いは、敵対する多くの人に文字どおり妨害され、ほとんど風前の灯の状態なのです。

しかし、パウロはあきらめることができません。次のように書いています。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(9~10節)。

パウロはどんな迫害にも負けない不屈の闘志を持っていたと、もちろんそのように言うことが可能です。彼は間違いなく強い人です。自分がいったん抱いた希望や願いを決して諦めない、燃えるような根性があったと表現することができます。しかし、闘志とか根性とか、そういう話になりますと、キリスト教信仰にそぐわない面も出てきます。パウロがローマに行きたいという願いを諦めることができないことは、「努力は必ず報われる」というようなスローガンで説明できることではありません。

わたしたちは、彼自身が書いている「神の御心によって」ということの意味をよく考えてみる必要があります。パウロはローマ行きの切符を、自分の努力や根性で勝ち取り、自分で道を切り開くのだと燃えているわけではありません。もし神が御心によってその道を切り開いてくださるならば行くことができるであろうと信じているのです。逆に言えば、今はまだローマに行くことができないのは、それはまだ神の御心ではないからであるということを受け容れてもいるのです。

「神がパウロのローマ行きを妨害しておられる」という言い方は、さすがに言いすぎかもしれません。皆さんにショックを与えてしまうかもしれません。しかし、ある意味でそのような面もありますと言わざるをえません。

わたしたちにとっても「神を信じる」とは、そのようなことでもあるのです。自分がしたいと願いさえすれば、その願いどおりに必ずなる、という人は、たぶん一人もいません。そういう人はスーパーマンかウルトラマンです。しかし、そんな人は現実にはいません。あるいは、そういう人はモンスターです。自分が抱く野望は何がなんでも実現しなければ我慢できないというのは怪物の状態です。自分の願い通りにも思い通りにもならないのが人生です。神がわたしたちの願いを邪魔され、妨害されることがありうるのです。それがわたしたちの人生です。

しかしパウロは、そのことを十分に理解し、受け容れたうえで、それでもなお、ローマに行きたいという願いを諦めることができません。彼がしたいのは観光旅行ではありません。彼の仕事としての伝道をしたいのです。ローマにいるキリスト者たちと合流し、彼らの教会を助け、彼らと一緒に福音を宣べ伝えたいのです。

そのことをパウロは次のような言葉で書いています。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(11~12節)。

このようにパウロが考え、信じ、願っていること自体を、周りの人はだれも妨げることはできません。それは彼の自由に属することです。彼がどこに行くことも、どこで伝道することも、彼の自由です。それは信仰の自由であり、伝道の自由です。

しかし、私はこのあたりで急ブレーキを踏んでおきたいと思います。少し立ち止まってじっくりと考えなければならないことがあると思えてなりません。それは次のようなことです。

パウロはたしかにローマに行きたいと願い、ローマの教会の人々と一緒に伝道したいと願っています。それは彼の自由ですので、誰も邪魔することはできません。しかし、そのパウロは、ローマの教会の人々に対して「“霊“の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」と書いています。

もしそうだとするならば、次のことを問わざるをえなくなります。それは、「“霊”の賜物」を持っているのはパウロだけなのでしょうかという問いです。パウロ以外にも使徒がおり、教師がいます。ローマの教会には長老がおり、執事がおり、多くの教会員がいます。その人々は、パウロに与えられているのと同じ“霊”の賜物を持っていないのでしょうか。何も無理にパウロでなくても、別の使徒や伝道者や長老や執事や教会員がお互いに励まし合えば、それで事が足りるのではないでしょうか。

何が何でも自分が行かなければならないと言い張り、そのことにこだわるのは、パウロの傲慢ではないでしょうか。他の人に任せることを考えることのほうが謙遜な態度ではないでしょうか。そのような厳しい問いを差しはさむことによって、この個所に書かれていることの意味をよく考えてみることが必要であると私には思われてなりません。

なぜなら、先ほど三点ほど挙げたとおり、パウロのローマ行きには実際に妨害があるのですから、その内容をよく考えてみなくてはなりません。人事の面のことを言えば、たとえば一つの教会の牧師として働いている人は「次の場所に行きたい」というようなことを教会員の前であまり言わないほうがいいです。そういうことをすると、今いる教会の人たちの心を傷つけてしまうことがありえます。これはあくまでもたとえですが、実際にそういうことがありうるのです。

もう一つの経済的な面は、ある意味でもっと深刻です。ローマに行くために、お金がたくさん必要です。そんなお金があるなら、別のことに使ってほしい。あなたは夢や希望を追いかけてばかりで、現実が見えていない。なぜあなたが行かなければならないのですか。もっと別の人が行くことの可能性を考えてください。そのように言われてしまうことが実際にあります。パウロが、ローマに行くことを「妨げられている」と書いていることの中に、いま私が申し上げたような内容が含まれているのではないかと考えてみることが重要です。こういうことは私の考えすぎだとか、思い込みだとは思えないのです。

しかし、それでもパウロは、自分がローマに行くことに強くこだわっています。他の人ではなく、自分が行かなければならないと信じています。現地に行くことは、必ず物理的移動を伴う行為です。そのことが必要であると言うことは、たとえば「手紙を書くだけでは駄目なのだ」と言っているのと同じです。パウロはこの手紙を書いている最中ですが、もし手紙だけで事が足りるのであれば、多くのリスクを乗り越えて現地まで行く必要はないからです。しかし、彼は現地まで自分の体を運ばなければならないと言っているのです。

また、パウロは「祈るときはいつもあなたがたのことを思い起こし」(9節)ていると書いていますが、それだけでは済まないと考えています。遠くで祈っているというだけでは駄目なのです。物理的に移動し、自分の体をローマまで運ぶ必要があるのだと言っているのです。つまり、パウロにとっては、手紙を書くだけでも祈るだけでも事は足りないのです。言い方を換えれば、精神的なつながりだけでは足りないと言っているのと同じです。今で言えば、メールを送るだけでは駄目だし、テレビ電話で話すだけでも駄目だと言っているのと同じです。

実際に出会うこと、顔と顔を合わせること、肉声で語り合うこと、手を伸ばせば触れ合える距離で、共に祈り、共に賛美し、共に御言葉に聴くこと。そのことがなければ、「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」(11節)という目的を果たしたことにはならないと、パウロは信じているのです。

今日の説教題を「なぜ教会が必要なのですか」としましたことは、いま申し上げていることに関係しています。教会というのは、そういうところだと申し上げたいのです。実際に出会うこと、顔と顔を合わせること、肉声で語りあうこと。そのような現実的なふれあいの場が教会です。そして、そのような「教会」が、わたしたちにはどうしても必要なのです。「“霊”の賜物」は、電線越しには相手に伝わらないのです。そのことを私は、パウロと共に、信じています。

(2013年4月14日、松戸小金原教会主日礼拝)