2009年8月30日日曜日

これは純粋な愚痴ですが同時に提案でもあります

インターネットを自分でも使いながら、インターネット上のブログに「インターネット批判」を今さらながら書くことの無意味さは知っているつもりです。でも、これ(インターネット)は本当にヤバいものであるという自覚なしにいることもできません。



インターネットは「全知全能」(何でも知っているし、何でもできる存在)ではありえませんが、そのようなものに何とか近づいてみせようという強い意志を持っているかのようです。一人一人の目の前に置かれているものは「ただパソコンのみ」(sola machina)なのですが、じっと動かないままでもほとんどのことが間に合ってしまうような錯覚に陥ります。



ちょっと前まで使っていた不便な(CPUが遅いなど)パソコンには依存心を抱く余地がないほどイライラさせられっぱなしでしたが、ハード面が快適になればなるほど、その便利さの深みにはまります。



・パソコンに近づかないこと。



・ブラウザやメールソフトを開かないこと。



・届いているメールも無視すること。



仮にそのようにでもすれば(お酒を飲む人に医者が定期的な「休肝日」を勧めるのに似ているかもしれません。「休コン(ピュータ)日」ですかな)、上記のような錯覚から一時的に解放されてはっと“我に返る”ものがあるような気がしますが、私の体験からいえば、一日も経てば錯覚の状態に戻ってしまいます。



「中毒」や「依存」という表現が、やはりいちばん近い。錯覚は、さらに「倒錯」でもある。



前にも書きましたが、私はかつてパソコンもメールも使っていなかった頃、年賀状を除けば一年にせいぜい5通、多くて10通くらいしか手紙もハガキも書かない人間でした。非常識で失礼な人間だと思われても仕方がないほどに。とにかくそういうことが億劫で、筆不精でした。



それが、今や毎年2千ないし3千通くらいのメールを書くようになりました。その状態が全く切れ目なく10年以上続いています。



ひそかに願っていることは、10年前の状態に戻ればいいのに、ということです。ただし、「手紙やハガキに戻せ」という意味ではありません。そうではなくて、届いたメールにすぐに返信しなくても許されるルールが社会通念になることです。じっくり時間をかけて返事してもよいし、または返事しなくてもよいルール。う~む、ありがたい。



受け取って最も不愉快なメールは、自動的に「開封確認通知」を迫るあれです。メールを「○月○日○時○分○秒」に開封したことをチェックされる。会社等の経営者が従業員の出社時刻をタイムカードで管理しているあれと基本構造が同じです。あのメールが特に同僚である人から送られてくると「あなたはいつから私の上司になったのか」と言いたくなります。慇懃無礼とはあれのことかといつも思う。私は必ず「開封確認を通知しない」を選択するようにしています。送られてきたメールを開封するかどうかは私が決めることであって、監視など一切されたくありません。



また、こちらが書いたメールの送信時刻が相手のパソコンに表示されるのも、実はかなり不愉快です。我々人間の情報交換に関する行動を時系列で管理することを容易にする表示ですから、GPSで個人の行動を逐一見張られているのに匹敵するほどではないでしょうか。



具体的に言えば、「急いで返信してあげなきゃ」という気持ちで未明や明け方までかかって必死で書いて送ると、「関口さん、夜更かしはダメですよ」と咎められる。私の体を心配して言ってくださっている方が多いので、ほとんどの場合は有り難く拝聴しますが、「あんなにがんばって書かなきゃよかった」と後悔するときもあります。



「牧師を引退したらパソコンを棄てることができる。晴れて自由の身だ」。こんな言い方をすると10年前は変な顔をされるだけでしたが、今では納得してもらえるはずです。



他方、「わたしはパソコンもインターネットも使わない“主義”である」と言い張る牧師たちに対しては、今となっては「職務怠慢」の嫌疑をかけなければならないほどです。