2009年8月29日土曜日

ファン・ルーラーと太宰治

ファン・ルーラーと太宰治。この二人の名前を並べて書くこと自体がすでにかなり強引であるということは否定しません。しかし、私はいま、いろんなことを考えさせられています。



「1908年(明治41年)生まれ」のファン・ルーラーと「1909年(明治42年)生まれ」の太宰は一歳違いの同世代です。現にファン・ルーラーの「生誕百年」の祝いは昨年12月に行われ、太宰のそれは今年行われています。ともかく辛うじて分かることは、両人が「ちょうど百年前に生まれた」という点で一致しているということくらいです。



彼らが「世に知られる」時期も重なっています。太宰の『斜陽』が大ヒットするのは1947年です。同年ファン・ルーラーは神学博士号を取得してユトレヒト大学教授になりました。それまでのファン・ルーラーは教会の牧師でした。「本を書く仕事」という観点から見れば、(牧師の本業は「本を書くこと」ではありません)、牧師時代の文筆業を「下積み」と呼び、大学教授になったときをもって「メジャーデビューした」と把えることは全く不可能な見方でもないだろうと思います。



ただし、翌1948年に太宰は自分の命を絶ちました。三鷹の川で。ファン・ルーラーが「さあこれからが私の出番である」と前向きに立っていた頃に、太宰は入水しました。「世に知られる」時期はほぼ等しい関係であるにもかかわらず、一方は希望に満ちて立ち、他方は絶望して倒れました。



オランダは、第二次大戦における「戦勝国」ではありません。戦前「中立国」の理念を掲げたところ、ナチス・ドイツ軍が侵攻してきました。ナチスの暴力的支配が国土から撤退した日が彼らにとっての終戦です。



日本は「敗戦国」です。太宰の死と第二次大戦との関係は、皆無かどうかは分かりませんが、(三島の死とは異なり)きわめて希薄であると思われます。



それでは太宰は何に絶望したのか。すべては藪の中です。猪瀬直樹氏の『ピカレスク 太宰治伝』(小学館、2000年)はだいぶ前に読みました。猪瀬氏の言うとおりでしょうか。



しかし、最晩年の「如是我聞」(1948年)の中に、私にとってはとても気になる言葉が出てきます。太宰の愛読者たちにはお馴染の言葉なのかもしれません(漢字と仮名遣いを現代的なものに改めました。原文にある改行は削除しました)。



「全部、種明しをして書いているつもりであるが、私がこの如是我聞という世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表しているのは、何も『個人』を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦いなのである。彼らは、キリストと言えば、すぐに軽蔑の笑いに似た苦笑をもらし、なんだ、ヤソか、というような、安堵に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。」
(『太宰治全集』第10巻、筑摩全集類聚、筑摩書房、類聚版第一刷1979年、361~362ページ)。



これを読むかぎり、ですが、鼻息の荒さが似ています!ファン・ルーラーと太宰は、義憤の抱き方というべきものが似ています。そっくりと言っても過言ではないくらいに。



太宰の実存とキリスト教の関係は太宰研究者の間でも議論され続けているようです。太宰が「全部、種明しをして書いている」と言いつつ明示している「反キリスト的なものへの戦い」という側面を真剣に取り上げてくださる方はおられないでしょうか。



太宰が死の直前に、あまりにもストレートすぎる義憤と共に告白した「反キリスト的なものへの戦い」の中身は何なのか。これを問うことは太宰をとらえる視点を単純化することにはならず、むしろより多角的で総合的な視点を与え、太宰研究に、いや、もっと言えば「現代日本思想史研究」により豊かな実りをもたらすのではないだろうかと思うのです。



「そういうことはお前がやれ」と(「マッタク、アホラシイ」とため息まじりに)言われるかもしれませんが、私が木に竹を接いだような太宰研究を始めるよりも、もっとふさわしい人がいるでしょう。私に思い当たることは全部書いておきます。