2009年8月28日金曜日

日記を小説のように/小説を日記のように

私がブログに何かを書くたびに“心配”してくださる方々がいるので、うれしいやら、慌てるやらです。

「これは暇つぶしです」と言うと「おまえはそんなに暇なのか」と怒り出す人が必ずいますので、「これもまた広い意味での牧師の仕事の一環です」と言い張ることにしているのですが、クソ真面目に受け取る人々は(クソは余計ですね、すみません)私の書くすべてが真実であると思ってくださるようですから迂闊なことは書けません。

9割はジョークです(ということにしておきます)。残りの1割は(ナンデショウ?)。

ですから、どうかあまり重く受けとめないでください。

ここに書くほとんどが私小説的な内容になってしまうことには自分なりの理由があります。

太宰治の作品の多くも私小説的なものですが、彼がある人々から「自己愛が強すぎる」という趣旨の批判を受けたことは知っています。きっと私も同じように見られているのでしょうけれど、私ほど自分のことを好きでない人間は少ないのではないか、というくらいの自覚を持って生きているのですが、このことは無理に知らせないかぎり自分以外の誰も知る由もないことです。

自分のことばかり書いてきた(かのように読めるようなことしか書けなかった)理由は、他人の文章の借用や盗用を極端なほどに避けてきたからです。他人に関する個人情報を紹介することについてかなり神経を尖らせ、細心の注意を払ってきました。よほど入念な仕方でご本人の許可ないし快諾を得ることができたときでさえ、公開を踏みとどまってきました。

インターネットには他人のことは何も書けないし、書いちゃあいけないと自分に言い聞かせてきました。ここに自由に書けるのは、結局のところ、自分に関する事実と、公表された他者の文書に対する自分の意見と、私の脳内の妄想のようなことだけです。

私が提案したい命題は「インターネット時代においてはすべては私小説化していく」というものです。

「牧師はいつも遊んでいる」だなんて非難を受けたくないぜ、と憤慨の思いが募ってくるときには今日一日こなした仕事のすべてをリストアップしたくなる衝動にかられますが急ブレーキを踏んで自制します。牧師の仕事の多くの部分は「個人にかかわること」だからです。「ハイ、今日も一日、ヒマでした。アハハ」と、別のことを書き込むのです。

「日記を小説のように/小説を日記のように」書いていくことが日課になりそうです。