2009年8月16日日曜日

永遠の命の言葉


ヨハネによる福音書6・60~71

「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。』イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。『こういうわけで、わたしはあなたがたに、「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言ったのだ。』このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」

今日の個所には、わたしたちにとって残念であると感じられることが、繰り返し書かれています。それは、イエスさまの説教を聴いた弟子たちの多くがイエスさまから離れて行ったということです。また、イエスさまは最初から、イエスさまのお語りになる御言葉を信じて受け入れることができる人と、信じることも受け入れることもできない人とがいるということをご存じであったということです。そして、イエスさま御自身がお選びになった十二人の弟子たちの中にさえ、イエスさまを裏切ろうとしていた人がいたということです。

このことを読みながら思わず考え込んでしまいますことは、イエスさまはなぜ、そのような御言葉をお語りになったのだろうかということです。イエスさまはなぜ、誰にでも受け入れることができ、すべての人が信じることができるような御言葉をお語りにならなかったのだろうかということです。

このことは、教会の牧師の仕事をしている者にとっては、かなり深刻な問題でありえます。また、牧師でなくても教会の働きに積極的に参加してくださっている方々にとっても、大きな問題でありえます。なぜなら、教会の働きの中心は、イエス・キリストの御言葉をこの方がお語りになったとおりに宣べ伝えることだからです。別の言い方をしますと、教会がなすべきことはイエスさまの側に立つことだからです。

そのとき何が起こるかと言いますと、イエスさまが多くの弟子たちから受けた反発を、イエスさまの側に立っている教会も同じように受けるということです。なぜなら、イエスさまがお語りになった多くの人々から嫌われた言葉を、教会もイエスさまと同じように語るからです。教会がイエスさまの側に立つということは、多くの人々から嫌われたイエスさまの側に立つことによって、イエスさまと同じように多くの人々から嫌われるようになるということを意味しているのです。

しかし、果たしてそのようなことがわたしたちに可能でしょうか。わたしたちは、人から嫌われるということにどれくらい耐えられるでしょうか。このことは、ここに集まっているわたしたちだけに当てはまることではないと思いますが、おそらくは、なるべくなら人から嫌われないようにしたい。そのように思うことのほうが、わたしたちにとって当然の願いではないでしょうか。

しかし、そういうわけには行きませんというのが、どうやら今日の個所がわたしたちに教えていることです。そしてこのことは、わたしたちも体験的に知っていることでもあります。それは、イエスさまを信じることと同時に求められることがある、それは、イエスさまを信じない人々から嫌われる覚悟をしなければならないということです。

イエスさまは、なぜ嫌われたのでしょうか。ここに記されていることは、多くの人々はイエスさまがお語りになった言葉を聴いたとき、聴くに堪えないひどい話であると感じたということです。その内容は、これまで学んだ個所に記されていました。イエスさまは、御自身を指差して「わたしは命のパンである」(6・48など)とお語りになりました。そして「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(6・53)と言われました。この御言葉を聴いた多くの人々が、これをとても気持ちの悪い話であると受け取ったのです。

しかし、この御言葉の真の意図は、イエスさまと真の意味で一体化することの必要性であると私は説明したつもりです。それは、イエスさまとの距離がゼロになること、イエスさまがこのわたしの心と体の中で生きて働くようになることです。イエスさまがわたしたちの外側におられるままであり、わたしたちがそのイエスさまのお姿を遠目に、ないし客観的に眺めている状態にあるままであるときには、わたしたちはまだ救われていないのです。わたしたちに求められているのはイエスさまと真に一体化するということであり、そしてまたそれこそが先ほど申し上げたイエスさまの側に立つということの、さらに先にある目標です。

これは決して抽象的な話ではないと私は信じております。なぜなら、教会がイエスさまの側に立つこと、そして究極的にはイエスさまとわたしたち教会の者たちが完全に一体化するということが意味していることは、イエスさまがその生涯において味わわれた苦しみをわたしたち自身も味わうということに他ならず、また、イエスさまがお感じになる喜びをわたしたち自身も喜ぶということに他ならないからです。もっと単純な言葉で言い直せば、イエスさまと共に生き、イエスさまと共に死ぬことがわたしたちに求められているのだ、ということです。

ここから先は少し言いにくい話をします。それは、私がこれまでに教会の牧師として体験してきたことです。このことは松戸小金原教会に限ったことではありませんが、教会というこの場所には実は非常に多くの人々が集まっています。ただしこれは一度だけとか、二度三度だけ、という方も含めての話です。私がこの教会に来てからの五年半の間だけを数えても、たった一度だけこの教会の礼拝に出席なさったという方は百人以上になります。しかし、とどまってくださる方はわずかです。その後、他の教会に出席なさっているということであるならば、わたしたちは慰められます。しかし、実際はどうでしょうか。一度の礼拝出席だけで、これは私の居るべき場所ではないとお感じになって、このようなところに二度と足を運ぶことはありえないと確信なさった方もおられるかもしれません。そのように考えますと、わたしたちは非常に大きな責任を痛感させられます。あのときわたしは何を語り、何をしたのか、わたしたちのどこに人をつまずかせる要素があったのかと自責の念にかられるばかりです。もっと魅力的で、もっと人の心にとどく言葉を語れる牧師となり、そのような教会になれたらよいのに、と思わされます。

しかしまた、そのような自問自答のなかで苦しみを感じながらも、いくらか言い訳がましい思いを持たないわけでもありません。それが、先ほどから申し上げていることです。わたしたち教会がなすべきことは、イエスさまの語られた言葉をそのまま宣べ伝えることであるという点です。その肝心のイエスさま御自身の御言葉そのものの中にもし人を躓かせる要素があるのだとしたら、その御言葉をそのまま宣べ伝えることが求められている教会のほうだけが責任をとらされるというのは、少し厳しすぎるところもあるのではないかということです。

もう少し別の言い方もしておきます。イエスさまが人々から嫌われた理由は、お語りになった言葉が誤解されやすいものであったということもさることながら、その内容において人々に一つの大きな決断を迫るものであったという点にあったと言わなければなりません。イエスさまが迫られたのは、「このわたしを信じなさい」ということです。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰をもつことへの決断です。信じるか信じないかという二者択一、「あれかこれか」をイエスさまは迫られました。信じることと信じないことの中間はありません。どちらでもないという未決定の状態、モラトリアムの状態はありません。イエスさまは、イエスさまのことを信じようとしない人々や、信仰と不信仰の中間にとどまろうとした人々に対して「信じること」を迫ったゆえに、嫌われたのです。

これは「敵か味方か」という話とは違うものです。聖書には「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(マルコ9・40)、あるいは「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」(ルカ9・50)というイエスさま御自身の御言葉が出てきます。これも大切な真理ではあります。しかし「敵か味方か」という話と「イエスさまを信じるか信じないか」という話は別の話です。「信じないが敵でもない」という人々が存在するということを受け入れることと「無理して信じなくてもよい」とわたしたちが語ることは違うことなのです。わたしたち教会は「信じない人々は敵である」とは語りません。しかし、だからといって「信じる必要はない」とは、決して語りません。なぜなら、イエスさまが人々に迫られたことは「信じること」だけだったからです。

多くの弟子たちがイエスさまから離れてしまったとき、イエスさまは十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と質問なさいました。この御言葉に何となくではありますが、イエスさまがお感じになったかもしれない“寂しさ”のようなものを読み取ることは、あまりにも人間的すぎるでしょうか。イエスさまという方の本質を考えてみれば、たとえ弟子が一人もいなくなったとしても「寂しい」などとお感じになるような方ではなく、御自身おひとりですべてのことをなさる方であると考えるほうが正しいでしょうか。もしかしたら、そうなのかもしれません。

しかしその一方で、イエスさまはたしかに十二人の弟子たちをご自身でお選びになったという事実も無視することができません。おひとりで何でもなさることがおできになる全能の神であられる救い主イエス・キリストが、御自身の働きを助けてくれる仲間を、たしかに必要となさったのです。

ペトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えたとき、イエスさまはきっととても心強くお感じになったであろうと私は信じます。しかしまた、その十二人の弟子たちの中に、イエスさまが「その中の一人は悪魔だ」(70節)とまで言われた裏切り者のユダが含まれていたことをご存じであったイエスさまが深く悲しんでおられたであろうとも信じます。

イエスさまはわたしたち一人一人にも、いま、決断を迫っておられます。「わたしを信じなさい」と。わたしをあなたのものにしなさい、そして「わたしに従いなさい」と。

(2009年8月16日、松戸小金原教会主日礼拝)