2009年8月30日日曜日

説教とは何か

ヨハネによる福音書7・14~31

「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう』と言うと、イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。』群衆が答えた。『あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。』イエスは答えて言われた。『わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。』」

今日は長めに読みました。描かれている場所はエルサレムです。そこで祭りが行われていました。先週の個所で、イエスさまが兄弟たちに「わたしは行かない」とはっきりとおっしゃっていた、あの祭りです。ところが、イエスさまは、兄弟たちが出かけた後、こっそり隠れるようにして上られたのです。

「行かない」と言っておきながら行かれたのであれば、嘘をついたと思われても仕方がありません。しかしこの件については、兄弟たちに対する配慮と愛情をイエスさまがお持ちであったと考えるほうがよいでしょうと、先週の最後に申し上げました。イエスさまは命を狙われていたのです。兄弟たちを巻き添えにしたくないとお考えになったに違いありません。

しかし、理由はこれだけではなさそうです。少なくとももう一つあることに気付きました。それは、これまでのイエスさまの行動から推測できることです。カナという町で行われた結婚式で、母マリアが「ぶどう酒がなくなりました」(2・3)と言ったとき、イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2・4)とお答えになりました。ここに「わたしの時はまだ来ていません」という重要な言葉が出てきます。

イエスさまはだれかの依頼や指図や命令に従って行動なさることをお嫌いになったのです。どんなことであれ、イエスさまはすべてのことを御自分の意志で行われたのです。しかもイエスさまは、ただ単に「御自分の意志に従って」ということではなく、父なる神の御意志に従いつつ、イエスさま御自身の意志で行動なさったのです。イエスさまの「時」は、イエス・キリスト御自身と、御子の父なる神だけがご存じだったのです。

そして今日の個所でイエスさまは、驚くべき行動をおとりになりました。エルサレム神殿の境内にお立ちになって、堂々と説教をお始めになったのです。すでにこのことだけではっきり分かることがあります。それは、イエスさまは御自分の命など少しも惜しいとは思っておられなかったのだということです。命を狙っていた人々の目の前にお立ちになり、最も目立つ行動をおとりになったのです。

そのこと――自分の命など少しも惜しいと思わないこと――が善いことなのか悪いことなのかは、私には分かりません。もし私がこの場面に居合わせていたイエスさまの弟子の一人であったとしたら、「イエスさま、そのような無謀なことはおやめください。御自分の命をもっと大切にしてください」と言って止めようとしたかもしれません。しかしおそらくイエスさまはそのような言葉を聴き入れてくださらなかったでしょう。イエスさまは、だれの依頼も指図も命令もお受けにならない方なのです。ただおひとり、父なる神の御意志のみに従って行動なさる方なのです。だれが止めても止まらない。すべての人々はイエスさまのお姿をただ見守るしかありません。

イエスさまの説教を聞いたユダヤ人たちが、ある意味で興味深い感想を述べています。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。ここで彼らが言う「学問をする」とは、ユダヤ教のラビ(教師)になる人々が当時通ったとされるエルサレム神殿附属の律法学校に在学して聖書を勉強することを意味していると考えられます。この学校の卒業生として我々が知っている一人は使徒パウロです。その学校でのパウロの教師の中にガマリエルという名の人がいたことなども使徒言行録に記されています。

その学校で教えられていることは聖書であり、ユダヤ教の信仰もしくは神学と呼んでもよいものでした。ですから、ユダヤ人たちが言っている「学問をする」は、今のわたしたちが「神学校で学ぶ」という言葉で言おうとしていることと内容的には同じであるということが分かります。つまり彼らは「この人は、神学校で学んだわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言っているのです。

彼らが述べていることは、なるほど事実です。イエスさまがエルサレム神殿の律法学校に通われた形跡はありません。それでは、どうしてイエスさまは、そういうところで学ばれたことがなかったにもかかわらず、人々が驚くほどに聖書をよくご存じだったのでしょうか。

もちろん最初に考えなければならないことは、イエス・キリストは神の御子であり、全知全能の方なのだから、学校などに通わなくても、あるいは教会などに通わなくても、聖書に書かれていることなど全部知っておられる方なのだ、というようなことです。このような事情であるという可能性を、別に否定する必要はありません。

しかしまた、もう一つの見方として、全く不可能とは言い切れない見方がありうると、私は考えています。それは、イエスさまが聖書を学ばれた場所は、おそらく幼い頃から両親や兄弟と共に通っておられた会堂(シナゴーグ)であるという見方です。このことを私があえて申し上げる理由は、教会の皆さんにお伝えしておきたいことがあるからです。

今年わたしたち松戸小金原教会ですでに二回行った教会勉強会のテーマは「聖書をどう語るか」というものでした。三回目の学びを10月11日から12日までの一泊修養会で行います。

これまで学んできたことは、教会の特に礼拝の中で行われる説教ないし奨励のわざは、牧師だけの務めではなく信徒の務めでもあるということでした。しかし、このことを考えていこうとする場合にどうしても避けて通ることのできない問題が「わたしは神学校に通ったわけでもないのに、どうして?」ということでしょう。この問いに明確な答えが与えられないかぎり、わたしが多くの人の前で聖書の話をすることなど絶対に不可能である、と確信しておられる方々もおられるのではないでしょうか。

しかし、ここはどうかご安心いただきたいのです。教会に通っておられるすべての方々が聖書の話をすることができます。ぜひお考えいただきたいことは、わたしたちは一体、教会というこの場所に何年通っているのだろうかということです。もちろん、ある方々は半年、一年、三年、五年といったところです。しかし、長い方々は三十年、五十年、七十年です。「わたしは長いばかりでちっとも・・・」と謙遜なさる方は多いのですが。しかし、わたしたちはこれまでに一体、何回の礼拝、何回の説教を聴いて来たのでしょうか。指折り数えてみていただきたいのです。

たとえば私がこの教会に参りましたのが5年半前です。主の日の朝の礼拝でまもなく三百回の説教を行ってきた計算になります。次の質問は、私にとっては恐ろしいものです。私がこれまで皆さんにお話ししてきたことは、皆さんの心の中に全く何も残っていないでしょうか。もしそうでしたら私はかなり真剣に苦しまなければなりません。

なるほど教会は学校ではありません。ここに通っても資格や学位を取得できるわけではありません。成績表も教会にはありません。礼拝の説教は大学や神学校の講義とは区別されるものです。しかし、それにもかかわらずわたしたちは、ここ、教会で、かなり多くのことを学んできたはずです。何年も何十年も通って来られた皆さんが、いま、ここで聞いたことを、多くの人々に語り伝えていくこと。それこそが説教なのです。

二つの例を挙げておきます。一つは、その姿を私はまだこの松戸小金原教会に来てから見たことがないということを残念に思っていることです。かつてはどこの教会にもいたものですが、牧師の祝祷の口真似が上手な子どもたちがいます。教会ごっこのような遊びをしている中で、牧師よりもよほど上手に祝祷の言葉をそらんじることができる子どもたちがいます。説教などは聞いても何のことやらちんぷんかんぷん分からない。それでも子どもたちは礼拝の中でたしかに何かを聴き、たしかに何かを憶えて帰るのです。教会の子どもたちとは、そういう存在なのです。

もう一つは、地方裁判所で長年、書記官を務めた方から教えていただいた話です。その方によると、まだ最近のことだが、書記官を長く務めた人々は、司法試験の合格者でなくても裁判官の席に着いて事裁きを行うことができるという新しい制度ができたということでした。そのお話を伺いながら、法に基づく判断において大切なことは知識だけではなく、経験こそが物を言うのだと教えられました。とても良い制度だと思いました。これと同じことが、聖書にも説教にも当てはまるのです。

脱線しすぎたかもしれません。イエスさま御自身が「わたしが聖書を学んだのはシナゴーグである」とおっしゃったわけではありません。イエスさまがおっしゃったのは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」ということです。これもまた確かな真実です。イエスさまが聖書をご存じであられるのは、いつ、どこで、だれから学んだというようなこととは関係ないとおっしゃっているのです。「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、父なる神がわたしに「語れ」と命じておられることを、わたしは語っているのだと、おっしゃっているのです。

しかし、このことも、わたしたちに当てはまるところがあるでしょう。私の場合も、生まれてから44年間、教会に通ってきたことになりますが、いつ、どこで、だれが私に聖書を教えてくださったかというようなことを全く憶えていません。それが何先生の説教であったかというようなことは完全に忘れています。私はそれでよいと思っています。自分に九九(くく)を教えてくれた小学校の教師の名前を憶えているという方がどれくらいおられるでしょうか。それを誰が教えてくれたかは、忘れてもよいことではないでしょうか。

説教にも同じことが言えるのです。主なる神が、聖書を通して、代々の教会を通して、このわたしに真理を教えてくださったのです。それこそが説教の正しい聴き方なのです。

(2009年8月30日、松戸小金原教会主日礼拝)