2009年8月8日土曜日

「国旗・国歌法 成立10年 踏み絵としての斉唱」の論旨に賛成

今日の朝日新聞の朝刊(13版)の文化欄(25面)に掲載されている「国旗・国歌法 成立10年 踏み絵としての斉唱」という記事を読みました。まことにそのとおりと思いましたので、連帯の意志を表します。



この記事は東京都の公立小学校に勤めるキリスト者の音楽教員(59歳)の苦悩を紹介しています。記者は磯村健太郎氏です。



「君が代の歌詞は天皇制をたたえる内容であり、入学・卒業を祝う場にはそぐわないと思っている。有無を言わせずに強いられると、まるで天皇を『神』とする宗教のように感じてしまう。君が代のピアノ演奏を命じられることは棄教を迫られるのに等しく、思想・良心の自由とともに、いわば信教の自由の問題にもかかわる問題であるという」。



「それでも、心は揺れた」とあります。「戒告と減給の処分を計4回受けたが、次に予想される停職1ヵ月の処分は避けたかった。定年を来春に控えた彼女にとって児童と過ごす時間は宝物のよう。わずかの間でも引き離されるのは耐えられなかった」。



心は「揺れない」わけではなく「揺れる」。これは信仰の弱さの表れであるとか、首尾一貫性の無さであるというような冷酷な言葉で批判的に追及されるべきことではありません。日本で公務に就いているキリスト者たちの思いを正しく表しているものと思いました(私が生まれる前からキリスト者であった我が両親も公務員でしたので、微妙なニュアンスまで手に取るように分かります)。



「そこで05年4月以降は入学式と卒業式の当日、休みを取ったり、君が代斉唱が終わったあとに途中入場したりした。式典で起立や演奏を拒否したのではないため、処分はなかった。しかし『私は子どもたちを式場に残したまま逃げたのです』と自分を責め続けている」。



そして、この記事は次の言葉で締めくくられています。「(校長の職務)命令に痛みを感じる者がわずかでもいる限り、その心に思いを巡らすことが民主主義には決定的に大切であるはずだ」。



日の丸・君が代の問題は、「信教の自由」という観点から見られるときこそ、問題の核心が端的に姿を表します。我々キリスト者が「信教の自由」を主張するときには、強い自戒と反省の思いを抱いています。なぜならそれは、欧米の歴史の中では主として「キリスト教会の(悪しき)政治的支配力から解放されたい」という市民の願いによって獲得されたものでもあるからです。そのことを我々教会の者たちは、知らずにいるわけではありません。



しかしまた、我々には「そうであるからこそ」言えることもあると思っているのです。「宗教を有無を言わせずに強いられること」に耐えがたい思いを抱き、徹底的に抵抗することこそが(「古代」や「中世」の人間ではなく)「近代」ないし「現代」の人間の特徴であるということをおそらくどこよりも誰よりも深く自覚しているのはキリスト教会自身なのです。



最近は少しぐらいは傾向が変わってきているらしいと聞くことがあるのですが、私の幼い頃(「昭和」で言えば40年代から50年代にかけての記憶)の日本にはキリスト教に対する偏見や反発が非常に強くありました。その中で私は教会の日曜学校をほとんど休んだことがない人間でしたが、それこそまるで常に被告人席に座らされているかのような気分に苛まれながら、小さく丸まって生きていました。マイノリティとしての悲哀を味わった、というようなどこかしらC調な言い方では説明し尽くせないほどの精神的なダメージを少なからず負いながら生きていました。



もちろん、立場を逆にしてみれば、キリスト教が支配的な国の中では、他の宗教の人々が小さく丸まって生きることを強いられていた(いる)かもしれない。しかし、まさにそのときにこそ「民主主義」が本来の機能を発揮すべきです。民主主義が許さないのは、特定の宗教・思想・信条を「国家ないし警察権力をもって」有無を言わさず強制することです。現在の日本の公立学校の教員たちに強いられていることは、まさにそれです。



私自身は「右翼」でも「左翼」でもないと思っています。というか右翼の人からも左翼の人からも違和感を覚えられる存在に見えるでしょう(「中道」でもないので宇宙人に見えるかもしれません)。しかし、現在の日本政治のあり方に対しては手放しに肯定している面(いろんな点で便利になり、生活していくことにほとんど不自由を感じていないゆえに)と、根源的な次元で否定している面(日の丸・君が代などを強制しようなどという、ありえないほどいかがわしい面が残り続けているゆえに)とがあります。



私は日本国内からほとんど出たことがありませんが、ふだんは「日本の」旗や歌とは全く無関係なところで生活していますので(はっきり言ってどうでもいいと思っているところがある)、「国旗・国歌」なるものに関して「ポジティヴな代案」を提出できる立場にはいません。独立国家には自国のシンボルとなる旗や歌が必要不可欠なのだという言葉を聞いても何の説得力も感じませんが、何が何でも必要であるということであるならば、天皇賛美(それは宗教です)につながらない全く別のものに変えてほしいと願っています。



だんだん自分の身の上話になってしまいました。すみません。この記事をお書きになった磯村健太郎氏にも感謝します。