2009年8月23日日曜日

わたしの時はまだ来ていない


ヨハネによる福音書7・1~13

「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。』こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」

ヨハネによる福音書に基づいてわたしたちの救い主イエス・キリストの生涯を学んでいます。先週までに学んだところに書かれていたことは、イエスさまがなされたわざと語られた御言葉がユダヤ教徒たちの逆鱗にふれるものとなり、彼らから命を狙われるようになったということです。詳しい内容は繰り返さないでおきます。

そして、今日開いていただいた個所から分かりますことは、イエスさまがユダヤ教徒たちから命を狙われるようになられたときにどのような行動をお取りになったのかです。三つのことが分かります。

第一に、イエスさまはユダヤ人が御自分を殺そうとしていることをご存じだったので、ユダヤ人の目を避けて行動なさることによって危険を回避されたということです。命を狙っている人々の目の前に出て行くような危ないことはなさらなかったということです。しかし第二にイエスさまは、ユダヤ人たちから逃げたわけではなく、ひそかにではありましたが、エルサレムに上って行かれたということです。第三に、イエスさまは、御自分の兄弟たちにさえ本当のことをお教えにならなかったということです。イエスさまが兄弟たちに「わたしは、この祭りには上って行かない」とおっしゃったあと、実は上って行かれたということになりますと、イエスさまは嘘をつかれたという話にも読めてしまいます。イエスさまがおっしゃったことを嘘と呼んでよいかどうかはあとでもう一度考えますが、このあたりが今日の個所の面白い要素でもあります。

イエスさまはガリラヤを巡っておられました。ガリラヤはイエスさまが伝道の最初の拠点を据えられた地域の総称です。都会ではなく田舎です。農村であり漁村です。イエスさまの命を育んできた家族や親しい友人たちが住んでいるところ、それがガリラヤです。

これに対してユダヤは都会です。ユダヤの中心には首都エルサレムがあります。エルサレムの中心にはエルサレム神殿があります。そしてその神殿の中心にはイエスさまの命を狙うユダヤ教団の指導者たちがいたのです。だからイエスさまは、ユダヤ人から命を狙われるようになってからは、少なくとも表向きは、ユダヤに近づこうとなさらなかったのです。

ところが、そのように慎重な行動を取っておられたイエスさまに向かって、事情を知らないイエスさまの兄弟たちが「ユダヤに行きなさい」と勧めました。彼らが言っている言葉は、次のように言い換えることができるでしょう。

「イエス兄さんはユダヤに行くべきだ。兄さんは、自分の言っていることやしていることに自信を持っているのだろう。悪いことをしているわけではなくて、良いことをしているつもりなのだろう。だったら、広い都会に出て行って、たくさんの人の前でアピールすべきである。こんな小さな田舎町で引きこもっているべきではない。一発当ててきてください」。

兄弟が有名人になってくれることによって自分たちにもいろんなメリットが生まれるかもしれないというような期待や野心が含まれていたかどうかは分かりません。しかし、彼らの言い分は全く理解できないというようなものではありません。とくに「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない」という点は事実であり、真理です。いま日本の政治家たちは来週の選挙のために必死です。彼らの仕事は公に知られることであり、自分を世にはっきり示すことです。ひそかに行動する政治家がいるとしたら、矛盾した存在であり、また不気味な存在でさえあります。「公に知られること」や「自分を世にはっきり示すこと」が悪いことであると言われてしまいますと、彼らは困ってしまうでしょう。

宗教の場合はどうでしょうか。兄弟たちがイエスさまに期待したことは、間違っているでしょうか。ここで少し脱線することをお許しください。東京に教文館というキリスト教専門の書店があります。その書店のホームページに「先月のベストセラー」を紹介しているコーナーがあります。私も先月、カルヴァンについて書いた一冊の本(共著)を出版したばかりですので、興味をもって見てみました。なんと残念なことに、わたしたちの本は二十位以内に入ることもできませんでした。先月の第一位に輝いたキリスト教書のタイトルは『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』というものでした。

実はかなりがっかりしました。「なぜ日本にキリスト教は広まらないのか」という本は売れている。この問題に悩んでいる人が多いからでしょう。しかしカルヴァンについての学術的研究書は売れない。これが現在の日本のキリスト教界の実情なのだと知らされるものがありました。

誤解されたくありませんので、はっきり申し上げておきたいのですが、わたしたちが本を出版した目的ないし動機は、有名になりたいからとかお金儲けをしたいからというようなことではありません。カルヴァンについての本を書いても有名人にはなりませんし、お金儲けはできません。それは誰でも知っていることです。

しかし、そういうこととはどうか区別していただきたいのですが、それでもなお、たとえば、本を出版するというようなことの目的ないし動機の中に、この個所でイエスさまの兄弟たちが言っている「公に知られること」や「自分を世にはっきり示すこと」が全く含まれていないのかと問われるとしたら、「いえいえ、そんなことはありません」と答えるでしょう。

「伝道」とは、神の言葉を「公に」宣べ伝えることです。「ひそかに行動すること」の正反対です。人目につくようなことをすることが伝道です。「公に知られること」や「自分を世にはっきり示すこと」が伝道と無関係であるはずがないのです。隠れてひそかに行動することが伝道ではないのです。

しかし、このことを確認したうえでなお申し上げねばならないことがあります。今日の個所に注目すべき言葉が記されています。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」。この御言葉は、イエスさまの兄弟たちの発言を受けて書かれています。つまり、彼らがイエスさまに「公に知られること」や「自分を世にはっきり示すこと」を勧めたことがイエスさまに対する不信仰の証拠であると言われているのです。

しかし、このように言われていることは、わたしたちにとっては、驚くほどのことではありません。むしろ至極当然のことを言っています。先ほども申し上げましたとおり、牧師たちが説教したり本を書いたりすることの中に「公に知られること」や「自分を世にはっきり示すこと」が含まれていないのかと問われれば「そんなことはない」と答えなければなりません。しかし、「それがあなたの人生の目的なのか」と問われるとしたら「断じてそうではない」とも答えなければならないのです。

私の話をしたいわけではありません。「伝道とは何なのか」という話をしているつもりです。いまの日本に「有名になりたいから牧師になる」という人はいないと思いますが(牧師になっても有名人にはなれません)、もしそういう人がいるとしたら本当に困った存在です。そういうのを本末転倒というのです。イエスさまは、そういう人が大嫌いなのだと思います。御自分もそのような目で見られることをお嫌いになりました。ただ有名になりたいだけの人は、伝道の仕事には向いていないのです。

そして、その次にイエスさまがおっしゃったことが「わたしの時はまだ来ていない」ということであったわけです。ここでの「時」に最も近い意味は、チャンスです。機会であり、時機です。もっと大胆に訳せば、「出番」とか「出る幕」です。「いまはまだ私の出番ではないのだ」と、こんな感じのことをイエスさまがおっしゃったのだと理解することができます。

しかし、もちろん、兄弟たちとしては、そのような言葉をイエスさまの口から突然聞いたときには、すぐに理解できるものではなかったと思われます。「わたしの出番はまだ来ていない。だからわたしはユダヤには行かない」と、そんなふうなことを言われても、意味不明の言葉で煙に巻かれた、というくらいのことしか感じなかったのではないでしょうか。たぶんそうだと思います。

しかし、わたしたちは、イエスさまがおっしゃった「わたしの時」という言葉の意味をはっきりと知っています。それはもちろん、わたしたちがよく知っているイエスさまの最期の一週間、なかでも全人類の罪の身代わりに十字架の上にはりつけにされ、贖いの死を遂げてくださったあの金曜日です。イエスさまのご生涯の目的は、有名になることでも、金儲けをすることでもありませんでした。あの十字架を目指して生きること、罪人を救うために十字架のうえで御自分の命をささげること、それがイエスさまの目標でした。十字架こそが、イエスさまの「時」であり、「出番」でした。イエスさまは有名になることにも金儲けをすることにも無関心でした。ただひたすら、御自身の命が人類の救いのために用いられる日を目指して生きておられたのです。

しかしまたイエスさまは、冒頭に申し上げたとおり「わたしは、この祭りには上って行かない」とおっしゃったあと、実はひそかにおひとりでユダヤに上って行かれたという話が続いているというのが、今日の個所の面白い点でもあります。イエスさまが兄弟たちに嘘をつかれたと言いますと、人聞きが悪すぎるかもしれません。しかしわたしたちはよく考えてみるべきです。イエスさまがつかれた嘘は兄弟たちに対する配慮や愛情から出たものではないだろうかとも考えさせられます。イエスさまはユダヤ人たちから命を狙われる身でした。イエスさまが彼らに逮捕されることになれば、兄弟たちの身にも当然いろいろな不都合が生じます。ユダヤ人たちから兄弟たちが共謀者呼ばわりされることもありえます。イエスさまとしては兄弟たちをかばう必要があったのではないでしょうか。このときのイエスさまのお気持ちはどのようなものだったかを思い巡らしてみることが大切であると思います。

(2009年8月23日、松戸小金原教会主日礼拝)