2009年8月2日日曜日

キリストの肉と血


ヨハネによる福音書6・41~59

「ユダヤ人たちは、イエスが、『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか。』イエスは答えて言われた。『つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、「彼らは皆、神によって教えられる」と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」

いまわたしたちは、ヨハネによる福音書の6章を学んでいます。わたしたちの救い主イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚で五千人の空腹を満たしてくださいました。またその後イエスさまは湖の上を歩いて行かれ、嵐の中の弟子たちを励ましてくださいました。そしてイエスさまは弟子たちの前で「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。

これらの話は全部つながっています。そのように読むことができます。どのようにつながっているかを説明するのは難しいことではあります。きちんと納得していただけるほどきちんとお話しすることは、今日はできません。キーワードだけを申し上げておきます。それは、先週も用いた表現ですが、「イエス・キリストとの距離感」です。あるいは「親密度」と言っても構いません。言いたいことは「近づくこと」であり「距離がないこと」です。

友人、恋人、夫婦、親子と、いろんな人間関係がありますが、満足や納得が得られる関係になっていくためにどうしても必要なことは、「近づくこと」です。「距離がないこと」です。この「距離感」という点が、6章で紹介されているイエス・キリストと群衆との関係、ないしイエス・キリストと弟子たちとの関係においても問題になっていると考えられます。そのような言葉が書かれているわけではありませんが、事柄をよく考えてみれば、そのようなことだと分かっていただけるはずです。

「食べる」とは、口の中に入れることです。外のものを中に入れることです。そして、その日そのときまではこのわたしと縁もゆかりも無かったものが、このわたしの中に入り、このわたしと一体化することです。言葉にすると大げさな言い方になってしまうかもしれませんが、そこで起こっていることをじっくり考えていただくと、大げさでも何でもなく、そのとおりのことが起こっていることに気づいていただけるでしょう。

イエスさまがお求めになったのは、イエスさまの肉を食べるということであり、イエスさまの血を飲むということでした。「もうやめてください。勘弁してください」と大きな声で言いながら耳をふさぎたくなるようなことをイエスさまは言われました。しかしわたしたちがそのような感想を述べたくなるのは、イエスさまがお考えになっていることとは全く異なる事柄を思い浮かべているからです。

しかしそのことがイエスさまから求められているのですから、イエスさまを信じて生きようとしている者たちはイエスさまのその求めに何とかして応えなければなりません。イエスさまの肉を食べること、イエスさまの血を飲むことを達成しなければなりません。

それは、繰り返しますが、事柄の内容からすれば、イエスさまとの距離感の問題です。イエスさまを、このわたしの中に入れることです。あるいは、入っていただくことです。このわたしとイエスさまが一体化することです。イエスさまとこのわたしは一つの存在として永遠に離れない関係になっていると、信じることができる状態に達することです。肉を食べ、血を飲むとはそういうことです。

今日の個所は、イエスさまが御自分を指して「天から降って来たパンである」とおっしゃったことにユダヤ人が反発したという話から始まっています。あいつはヨセフの息子ではないか。あいつの父ちゃんも母ちゃんもよく知っている。なんであいつが「わたしは天から降って来た」などと言ってるんだ。バカじゃないだろか。デタラメも休み休みに言えと、小馬鹿にして笑っている人あり、むきになって怒っている人ありの状況だったと思われます。

しかし、このような反発の仕方にはいろいろな問題を感じさせられます。まず何よりも先に言えることは、イエスさまは事実を述べておられるのですから、それを笑ったり怒ったりすることは失礼に当たるという点があります。しかし、それだけではなく他にもいろんなことを考えさせられます。

その一つは、「天から降って来る」という言葉づかいを否定してしまうならば、宗教など一つも成り立ちようがないということです。聖書において「天」とは、神がおられるところを意味しています。ですから「天から降って来る」とは「神のもとから来る」とか「神によって遣わされる」と言うことと同じです。これを笑ったり怒ったりしはじめるとしたら宗教は成り立ちません。教会も牧師も存在する意義さえありません。

しかし他方でわたしたちは、逆の方向を向いている「天に昇っていく」という言葉のほうは、使いたくて使いたくて仕方がありません。宗教や信仰というようなものを全くもっていないし、信じてもいないと言っているような人々でも「天国に行きたい」という願いをもっているはずです。「ご冥福をお祈りいたします」などとも言う。冥福の「冥」は冥土の「冥」でしょう。「冥土」とはどこでしょうか。聖書で言うところの「天国」のようなところでしょう。そういうところがあるということ、そういうところにわたしたち人間が行く日が来るということは、非常に多くの人が認めたり願ったりしています。

しかし、その反対の方向の話になると、急に心を閉ざす人がいる。自分や他人が「天に行く」話は受け入れても「天から来る」人の話は受け入れない。よく考えてみれば、二つの話は本質的にほとんど違いがないということにお気づきいただけるはずです。事柄の中心にあることは天と地の関係です。すなわち、天上なるものと地上なるものとの関係、神とこの世界との関係です。天と地の間には相互関係があり、行ったり来たりできる関係があります。両者の間にコミュニケーションがあるのです。行くことができるなら、来ることもできるでしょう。「天から降って来た」という言葉を聴いて笑う人々は、宗教や天国といったすべてのことを否定しているのと同じなのです。

イエスさまが、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いてお渡しになりました。「パンを割いて弟子たちに手渡すこと」を、わたしたちの教会でも行っています。礼拝の中で行うあの聖餐式です。聖餐式のたびに牧師が読む言葉は「これはわたしの体です」、「これはわたしの血です」というイエスさまのみことばです。このみことばをイエスさまは、十字架にかけられる前の夜、弟子たちにパンとぶどう酒を手渡されながら言われました。そのときイエスさまが願っておられたことは、御自身の命を与えてくださることでした。イエスさまは愛する弟子に御自身の命を与えてくださったのです。

そしてとても大事なことは、イエスさまが愛してくださったのは今から二千年前の弟子たちだけではなく、その後の長い歴史の中でイエスさまを信じる信仰をもって生きてきたすべての人でもあり、これからイエスさまを信じて生きていこうとしている人でもあるということです。その中にはここにいるわたしたちももちろん含まれているのです。ですから、聖餐式のたびにわたしたちが知ることができるのはイエスさまの深い愛です。わたしたちはイエスさまに愛されているのです。

「わたしは神さまを信じている」と自覚できる人は、洗礼を受けましょう。また、幼児洗礼を受けている人の場合は、信仰告白をしましょう。そうすることによって、神さまが喜んでくださいます。そして洗礼を受けた人、信仰告白をした人は「聖餐式」に参加しましょう。

聖餐式はお祝いです。お祝いのときに暗い顔をしていることはマナー違反です。お祝いの席には明るい笑顔で参加しなければなりません。イエスさまは、わたしたち罪人が本当は受けなければならなかった神の罰を身代わりに受けてくださいました。イエスさまがわたしたちの代わりに十字架にかかってくださり、死んでくださったことによって、わたしたちの罪がゆるされました。わたしたちは、イエス・キリストが十字架の上で示してくださった愛によって救われたのです。わたしたちに求められることは、それらのことを喜びつつ聖餐式に参加することです。

聖餐式では、パンとぶどう酒が配られます。今日はとくに、ぶどう酒の話をします。前にもお話ししたことがありますように、ぶどう酒の代わりにぶどうジュースを用いている教会も、たくさんあります。どちらでなければならないという決まりはありません。大切なことはお酒かジュースかではなく、色であると言われます。イエスさまは「これはわたしの血です」と言われながら、ぶどう酒を配られました。それは、ぶどう酒が血の色の飲み物だったからです。

「赤い飲み物ならなんでもいいのか。たとえばトマトジュースでもいいのか」というような質問が出てくるでしょうか。難しい問題です。イエスさまが最後の晩餐のときに用いられたのが「ぶどう酒」だったので、教会は伝統的にぶどうを用いて来たのです。そしてぜひ安心してほしいことは、わたしたちの教会の聖餐式のぶどう酒は「これはわたしの血です」と言いながら配られるものであっても、血なまぐさい臭いがするわけではないということです。聖餐の食卓には、ぶどうのさわやかで豊かな香りがあふれています。それは、人の心を幸せにする、祝いの席にふさわしい香りです。

(2009年8月2日、松戸小金原教会主日礼拝)