このたび「改革派神学研修所 東関東教室メールマガジン」を創刊させていただきました。
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このたびオランダの新しい『ファン・ルーラー著作集』の出版社の特設サイトに、昨年12月10日(水)アムステルダム自由大学で行われた「国際ファン・ルーラー学会」(Internationaal Van Ruler-congres 2008)の様子を知らせるフォトアルバムが公開されました。私のスピーチしている写真も紹介されています。たいへん光栄に思いました。正直言って嬉しいです。
特設サイト
フォトアルバム
スピーチ冒頭の動画(You Tube)
スピーチ全体の音声
スピーチ全文
オランダ日報Nederlands Dagbladの記事
○ フォトアルバムの見方
「Album bekijken」(アルバムを見る)をクリックすると開くページに縮小サイズの各写真があります。各写真をクリックすると拡大します。
最もエキサイティングな思いをもって拝見したのは、最後のモルトマン先生(独)とファン・アッセルト先生(蘭)とロムバルト先生(南ア)とファン・ケーレン先生(蘭)が楽しそうに映っておられる写真です。まさに「国際会議」です。私の名前は紹介されていませんが(ここだけちょっと残念)、「groet uit Japan」(日本からの挨拶)と書いていただいています。もちろん十分満足しています。たった5分くらいのスピーチだったのですから。
明日は「ファン・ルーラー研究会結成10周年記念日」です。ほんのささやかなサプライズを計画しています。お楽しみに。
最近気になっていることは、私の説教のブログ「今週の説教」の「人気記事ランキング」です(同ブログの画面右の真ん中あたりにあります)。残念ながらこのランキング表示の仕組みがよく分かっていないのですが、表示されているのは当然、アクセス数のランキングでしょう。たとえば、本日時点の順位は、以下のようなものです(このランキングは常に変動しています)。
1位:「世の罪を取り除く神の小羊」
2位:「初めに神は天地を創造された」
3位:「わたしはどうしたら救われるのか」
4位:「人生は礼拝のために、礼拝は人生のために」
5位:「苦しみを乗り越える力、それがキリスト」
6位:「あなたの涙がぬぐわれる日」
7位:「死と葬儀―あなたを独りで死なせない―」
8位:「来なさい、そうすれば分かる」
9位:「あなたの人生の目標は何ですか」
10位:「親身になってあなたを思ってくれる人は誰ですか」
「こういうことが分かって、だから何なのですか」と問われると言葉につまってしまう私がいます。しかし、いろいろ考えさせられることはあります。学校や事業の成績はもちろん、テレビ番組の視聴率、映画の入場者数、音楽のCD売り上げやダウンロード数。まさにありとあらゆるものが「順位」で計られ、競争している時代です。あるいは、大学の教師たちの講義やゼミの内容、さらに宿題やテストの出し方に至るまでを学生たちから厳しく評価され、その克明な評価結果がインターネット上に公開されている時代です。牧師たちも少しくらいは「競争」の中に身を置くべきかもしれません。
ただし、「甘いねえ」と言われそうなことは、この「人気記事ランキング」で分かるのは他の牧師の説教との比較ではないということです。すべてが自分の手で書いた説教原稿なのですから、ある説教が他の説教に「負けた」(?)からといって「悔しい」という思いは起こりません。
しかし、なんというか、ランキングというのは、実にシビアで面白いものだなあと思います。なるほどたしかに、私なりに思い入れのある説教が「生き残って」います。
このような様子を見るかぎりではありますが、かつて直感したことが今や確信に変わりつつあります。それは牧師たちが自分の説教をブログで公開すること、そして「人気説教ランキング」を公開することは、きわめて実質的かつ効果的な「説教訓練」になるに違いないということです。
「説教の塾」に通っていない私ですが、塾長先生からの手厚いご指導をいただくことよりもはるかにシビアな審判をインターネットの世界においては期待できると思うのです。
コメント欄やトラックバック欄は最初から意図的に閉じているのですが、だからこそ、この「人気説教ランキング」が物を言います。ランキングを見ながら説教者が真剣に考えるべきことは、「なぜこの説教は読まれるが、他の説教は読まれないか」です。
原稿の出来不出来は、書いた人が最もよく分かっているはずです。しかしまた、説教者自身は「良い」と思って書きかつ語ったことが、それを読むないし聴く人々にとっては「良くない」と判断されることもありえます。そのことを「人気説教ランキング」から非常にシビアな仕方で教えてもらえるのです。
このことが分かるだけで、本当にただそれだけで、改善されていく説教もあるのではないかと思わされます。しかしもちろん評価できる点だけではなく、問題点もあるでしょう(私はまだほとんど問題を感じていませんが)。21世紀の説教学の教科書には、ぜひとも「説教のブログ公開」に関する一章を設けていただき、学的に検証していただきたいものです。
ちなみに私は、この「人気記事(説教)ランキング」を別のことに生かすことができないものかと密かに考えています。たとえば、ベスト10までにランキングされているものをきちんと校正したうえで印刷所に印刷・製本してもらい、絵の上手な方にきれいな表紙イラストを書いていただいて、『関口康説教パンフレット』(仮称)として、一冊300円とか400円くらいの値段(高い?)をつけて、インターネットで販売するとか、まあそんな感じのことです。
私は自分が書いたものを一冊の本にして売ったことがまだありませんので、不安ばかりが募りますが、そういうこともいつの日かやってみたいという気持ちがあることを正直に書いておきます。
ブログを一年以上も書いてくると、前に何を書いたかを忘れてしまいます。繰り返しになっていることがあるかもしれません。でも、それはたぶん恥じることではなくて、私が結局最後に言いたいことは何かが、自分の中でよりクリアに言葉化されていくプロセスなのでしょう。
ここに何万字書いても原稿料をもらえるわけではありませんが、ここには字数制限もないし、編集長の方針に合わせる必要もない(私自身が編集長であるという意味です)。読まれる当てもありませんが、ただの暇つぶしで書いていることでもなく、ある方(それは「あなた」です)に読んでいただける日を待ち望みながら書いているものでもあります。
私は何を言いたいのか。それがはっきりと分かるくらいならブログなど書きはしないわけですが、私は何を言おうとしているのかとintend toという感じのニュアンスが加わってくるのであれば、ちょっとくらいは見えているものがあります。ただ単なる「自分探し」のようなことをしているわけではないつもりです。もう少し対社会性を有したいと思う。しかし、自分自身で大した実地調査や時間をかけた取材をしているわけでもないのに、政治や社会の問題に直接コメントするような評論家然とした書きっぷりも、なるべく避けてきたつもりです。私が直接かかわっている事柄は、狭くて小さいものです。
ずっと考えてきたこと、というか意識的に目指してきたこと、しかしそれは「ブログで」目指してきたことというのではなく、大学に入学してからの「人生で」目指してきたことについては、少なくとも一つだけははっきりしています。これを前にここ(ブログ)に書いたかどうかを忘れたなあと、さっきから苦にしているわけです。もし一度でも書いたことがあってそれを忘れて同じことを繰り返し書いてしまったら悔しいなあと。一年分のすべてを読み返す時間はないし(その気力もない)。
まあしかし、繰り返して書いて悪いわけでもないので、よし、書きましょう。今やっとそういう気になりました。
「人生で」目指してきたことは、我々キリスト者にとっての「日曜日」を苦痛なものにしないために、「今日も教会の礼拝に出席することに意味があった」と思ってもらえるような説教ができるようになりたいという、このことだけです。あ、ついに書いてしまった。
「日曜日を迎えるのがツライ(なぜなら、またあの教会に行かねばならないから)」と感じているキリスト者は、今はどれくらいいるのでしょうか。トレンドは、教会とは「ぼらんたりいあそしえいしょん」なのだそうですから、教会なんて「出入り自由」だと思っている人は多いはず。自主的・自発的に行きたい気分のときに、行きたい教会に行けばよい。行きたくない教会には当然(naturally)行かない。行きたい教会を選んで行くか、行きたくなければ「行かなければいい」と思っているかのキリスト者は多いのではないでしょうか。逆に、ツライケド、ツラクテモ、また「あの教会」に行かねばならないと思っているキリスト者は、今では少なくなっているのかもしれません。
しかし、です。「え?教会は『出入り自由』なのですか、はあ、そうですか」と、怒っているというよりも、笑っちゃうほど、ただただあきれる気持ちになること、しばしばです。教会は「ぼらんたりいあそしえいしょん」などでは決してありません。その種のガクセツを熱心に提唱する学者たちは何か勘違いしておられるようです。
とはいえ・・・いや「だからこそ」です、苦痛で苦痛でたまらないのに、イヤでもオウでも、目をつぶり、鼻をつまみ、耳をふさいででも、日曜日の朝の数時間を「教会の礼拝」というあの独特の時空の中で過ごさせられなければならないという(やや拷問めいた)目に遭わされている人々への同情が全く無いわけではありません。
私の関心は、昔から「その人々の救済」にあります。その人々に少しでもハッピーな日曜日を過ごせるようになってほしい。「今日は意味ある(「意味ある」です)日曜日を過ごすことができた」と思ってもらえるような説教ができるようになりたい。
私が取り組んできたいわばすべてのことは、その中心的関心事の周りをただひたすら、ぐるぐるぐるぐる回り続けてきたのです。神学も、オランダ語も、他のあらゆることも。
ですから、私にとっては「神学」そのものも、また「オランダ(語)」そのものも、あらゆる取り組みや関わりも、単なる手段(means)にすぎず、通過点にすぎません。それ自体が目的(purpose)であると考えたことは一度すらありません(私のことを身近に感じてくださっている方々は、私がそういう人間であることをよく知っています)。
その意味で私は「神学者」というような者になりたいと思ったことは一度もないのです(なれるとも思っていませんが)。「説教者」とも「伝道者」とも、実はあまり呼ばれたくありません。では何と呼ばれたいのか。これがまた難しいのですが、いろいろありすぎて難しいわけではなく、適切な表現が見当たらないので難しい。
強いて言えば「教義学者」(≠「神学者」)と呼ばれる者になれるものならなってみたいのかもしれませんが、そんな大袈裟な感じのでもなくて、もう少し手前のところでいい。うまく日本語に訳せませんが、「カテキズム教師」くらいかなと思わなくもない。
「日曜学校教師」でもいいのですが、それを職業的に最高度に極めた形のものになりたいのかもしれない。日曜日に教会に来る人々に、キリスト教信仰の核心部分を「その喜びに至るまで」精密かつ分かりやすく解説できるようになりたい。その働きを通して、(日曜日を苦痛に思ってきた!)多くのキリスト者たちに、「今日は意味のある日曜日を過ごせた」と思ってもらえるようになりたい。まあ、とりあえず、そんなところです。
私が言いたいことは、技術社会そのものの否定とか、テレビそのものの否定ではないのです。まだ十分うまく言えませんが、嫌だと感じていることはテレビの「一方通行性」です。その押しつけがましさや強圧性です。
インターネットは、この点が全く違います。そもそも「テレビが嫌だ」と私はインターネットのブログに書いているわけです。つまり、技術社会の英知の賜物をある意味最大限利用しながらの発言でもあるわけです。
インターネットの場合は、まさに「嫌なら見なきゃいい」し、批判したい相手がいれば、自分でどんどん書き込んだりできます(私はそういうことは滅多にしませんが)。 ある程度の「双方向性」が確保されています。
前の記事に書いたことも、「地デジ切り替えの日に、いっそテレビそのものを捨てて、インターネット一本にしようかなと思わなくもない」という意味です。 インターネットを無批判に礼賛する意図はありませんが、この横暴なテレビよりはインターネットのほうが「人にやさしい」と感じます。
そもそも私には「技術社会には神を冒涜する要素が著しい。そのため神を信じる者たちは古い時代への回帰を志向すべきである。みんなで一緒に古き良き時代に帰りましょう!」というような発想そのものが皆無です。
そのような過去への回帰願望やアナクロニズムは「神学的に」間違っているとさえ考えています。それどころか、我々は事柄をもっともっと前へと・先へと進めていくべきであって、後戻りも後ずさりもすべきではないと思っています。人間に可能なことならば何でも(重大な犯罪以外は)積極的に行うべきであると信じています。この点で私は「希望の神学」です。
団塊世代より少し上の戦争体験者たちが何か誇らしげに「今の若い人は、あの戦争の苦労を知らないし、便利になった世の中に生きてきたから、だらしない」みたいなことを言っているのを聞くたびに、内心でむかっ腹を立てています。
あるいは、テレビからよく聞こえてくる「昭和生まれ」と「平成生まれ」の性格の違いとか、そういう説明を聞くと馬鹿らしく思えます。天皇の代が変わったら、この国の人間一人一人の個人的な性格まで変わるとでも言いたいのでしょうか。くだらない。まさに非科学的言説そのものです。血液型占いに匹敵するくらい馬鹿げています。関係ありえないことを強引に関係づけ、何度も何度も繰り返し映像と音声とゲラゲラ笑いで押しつけてくる、そういうテレビのやり方が嫌いです。
テレビの(時代遅れ的な)強圧性は、チャンネルの少なさ、つまり選択肢の少なさに起因しているとも思います。インターネットにはチャンネル(選択肢)はたくさんあるではありませんか。
「テレビ帝国主義」とまでは言いませんが、「科学忍者隊ガッチャマン」に出てくる、何か悪いことをするために公共電波をジャックする(今なら「ハックする」と言うかな)ベルク・カッツェが凶悪な人だったので、「悪い人ほどテレビに出たいんだなあ」と、子どもの頃から理解しておりました(「テレビに出ている人のすべては悪い人である」と言っているわけではありません)。
水曜日は、日本キリスト改革派教会東関東中会が独自で企画する最初の2・11集会、「東関東中会 第一回平和の集い」(講師 袴田康裕先生)でした。私は主催者の一人でした。けっこう盛り上がった有意義な集会でした。
子どもたちのせいにするつもりはありませんが、ここ10年くらい私はテレビなどほとんど全く見ていませんでしたのに、何となくつられて昨年くらいから見るようになりました。テレビなど見る暇もなく、まさに10年間、家では時間の許すかぎりメールを書いていました。ニュースもウェブで得ることで十分でした。実際今は、ウェブとテレビがほぼ同時に、同じ出来事を報じているようです。
何よりテレビのあのうるささが嫌でした。人のことは言えませんが、相当下品だという自覚のあるこの私でさえ「テレビは下品だ」と思う。ファン・ルーラーは、息子さんの話によるとテレビをよく見ていたようですが、見るのはサッカー番組でした。昔のサッカー番組は今と比べるとはるかに「上品」なものだったと思います。というか、つまらない。最近のビデオカメラで親が我が子の運動会を撮っているのと同レベル(かそれ以下)の映像がテレビで流れていたはずです。私の子どもの頃の(「昔の」とそろそろ言える1970年代くらいの)サッカー番組でも臨場感ゼロ。カメラが遠すぎて、選手一人一人が小さくて、表情とかも全く見えなくて、キーパー以外の20人が右に左にぞろぞろ移動している姿がかろうじて見えるというようなもので、退屈でしたが、サッカーが好きな人にとっては、あんなのでも面白かったのでしょう。
しかし、メールといい、ウェブといい、ずっとこれだけを続けていると、心理的な放出感というか「出ていく感」のようなものが募り、だんだん寂しくもなりました。シーンとした無音状態の中で、自分が叩くキーボードのカチカチ音だけがこだまする。独り言はなるべく言いたくないので、だれかにしゃべっていてもらいたくなる気持ちも起こる。そんなときに、たまーにテレビをつけてみる。でも、すぐにうるさくなって消すといった感じでした。テレビに出ている人々独特の「したり顔」というか「『わたしたちは勝ち組です』顔」みたいなのを見ていると不愉快になるという面もありました。
見るものを変えればいいという話なのかもしれません。「そんなに嫌ならNHK見れば?」とか「放送大学見れば?」とか。たしかに、テレビそのものを悪者にするつもりは私にもありません。テレビに出てくる人々を「見下げる」つもりもない(逆でしょ、と思う。たぶん彼らから見下げられているのは我々のほうです)。
しかし、そのうちテレビそのものと訣別したい。「もうええわ」と心底思う。尾崎豊っぽく(?)いえば、「テレビなるものの支配」から卒業したい。尾崎氏と私、同い年です(1965年11月生まれであることも同じ)。バットでぶち割るわけにはいきませんが(環境破壊だ)、これで終わりという儀式でもしたい気持ちです。「すべて地デジに変わる日」をもってテレビそのものからお別れするというのも、一つの選択肢かもしれません。
「お笑い芸人」なる職種の人々の出るテレビ番組が、今日ほど耐えられないと思った日はなかったかもしれません。
うちの子たちがテレビを見たい盛りの年頃でもあるので、ついスイッチを入れっ放しになり、結局付き合ってしまうのですが、今夜ばかりは「小学1年(!)の子供と母親(40)が二人で踏み切りをくぐった」と伝える短いニュースの直後にあのゲラゲラ声を聞くと、さすがに頭に血が上りました。
人間には「悼む」とか「喪」というような次元がどうしても必要です。なぜその子はお母さんについていったのか。そのときその子はどんなことを考え、何を思い出していたのかと想像するだけで胸がしめつけられます。しかしまた、そのような一つ一つを落ち着いて考える時間がわたしたちには必要です。
と思った次の瞬間にゲラゲラゲラ。その押し付けがましい大音量の笑い声の圧力によって「喪」の思いがあっという間に相対化されてしまいます。悪意さえ感じます。
そういう笑い声に支配されている番組なんか見なきゃいいと言われるだけでしょうけれど、最近はあんなのが出てこない番組を探すのが難しいと感じるほどです。
「悼み」や「喪」の思いを大切にしたい日もあります。たとえ見知らぬ人の死であっても。
だから、思いました。今日から私は、意識的にテレビを見ない日を作ります。
あの鬱陶しいゲラゲラ声から、私は早く解放されたい。
カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールトマンスに関しては、神戸改革派神学校の図書館には、パーフェクトかどうかは確認していませんが、たぶんほぼ全部揃っているのではないかと思います。
だから、私は神学生たちのことをとても羨ましいと感じているのですが、在学中にオランダ語の本に没頭する神学生が、残念ながら少ないのです。「宝の持ち腐れだ!」と言いたくなる面もあるのですが、3年3か月のうちにやらなければならないことが山ほどありすぎるので、彼らを責めるのは酷というものです。ただし神戸にはファン・ルーラーのものがあまりありません。これからの課題です。
(1) 私の書斎には、カイパーが住んでいません。『カルヴィニズム』の英語版と日本語版くらいしかありません。
(2) バーフィンクのものとしては、『改革派教義学』(GD)全4巻の原著オランダ語版の全部と英語版の一部をもっています。また、聖恵授産所出版部から『信徒のための改革派組織神学』という題で出ているMagnalia Dei(神の大いなるみわざ)の原著と日本語版(ただし下巻のみ)と、『啓示の哲学』(Wijsbegeerte der Openbaring)の原著と日本語版は持っています。このMagnalia Deiと『啓示の哲学』は、どちらも非常に重要な書物なのですが、残念ながら日本の教会においては全く軽んじられています。見た目(装丁)で負けているというか。
(3) トレルチは、昔の『著作集』(Gesammelte Schriften、GS)全四巻はありますが(※出戻り品)、現在刊行中の新しい著作集はありません。日本語版の著作集は全部あります。
(4) バルトは、『教会教義学』(KD)の原著と日本語版の全巻が揃っています。と言いたいところですが、原著が一冊だけ欠けています(残念!)。英語版(Church Dogmatics、CD)は持っていません。日本語版『カール・バルト著作集』も一冊欠け。ドイツ語版の著作集は10冊くらいあるだけです。バルトを取り上げた博士論文のうちオランダ語のものを集めているところですが、まだ10冊くらいです。
(5) ノールトマンスは、原著『著作集』(VW)が全部揃っています。と言えません。これも一冊欠けています。ノールトマンス研究書(博士論文)が、5冊ほどあります。
こんな感じの、かなり残念賞な書斎なのでした。
しかし、ファン・ルーラーに関しては、出版されたものについては、95%くらいは所有しています。
まさに「少しずつ少しずつ」です。お互い励まし合って行きたいものです。
私の交友関係によるところも大きいのですが、「私は丸山眞男の本を読んだことがない」という言葉を語ることに、つい最近までかなりの躊躇や抵抗がありました。人前でカミングアウトできずに来ました。しかし。
あはは、実は私、丸山氏の本を全く読んだことがありません。買ったこともありません。本を手に取って頁をめくったことくらいはありますが、3ページも、いや、2ページも読んだことがありません。
「嫌いなのか」と問われたら「別に嫌いではない」とたぶん答えますが、現時点では「ほとんど関心がない」としか答えられません。
理由は自分でも分かりません。難しい本ならけっこう読んできたほうだと思っています。最近はオランダ語の本を読むことがあまり苦にならなくなりました。日本語の本もわりと読んでいるつもりです。
しかし「丸山眞男を読んだことがない」。やっとこういうことを口に出して言えるようになったことを(その際おそらく私は「何かの呪縛から解放される」というプロセスを通り抜けているはずです)私の神に感謝しています。
解放のきっかけは、親友である(と私は思っている、ちょっと年上の)大学教員の言葉です。「ぼくはジャック・デリダを読んだことがない。」
ああ、こんなふうに言える文化系の知識人に会ってみたかったのだと、そのとき感じました。ちなみに私は、デリダのほうは20年くらい前から、関心をもって読んできました。
このたび「改革派神学研修所 東関東教室」(世話人 安田恵嗣、三川栄二、持田浩次、小林義信、関口 康)は、東関東教室のホームページを立ち上げましたので、謹んでご連絡申し上げます。
改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
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