2008年9月6日土曜日

説教の改善方法について

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「説教の塾」は苦手



日本には、とても有名な「説教の塾」があることを、私ももちろん知っています。そこのいちばん偉い塾長さんに私も直接教えていただいたことがあります。ただし、私が教えていただいたのは、「ドイツ語Ⅱ」と「実践神学概論」だけです。説教そのものを教えていただいたことは一度もありません。ちょうど私が在学している頃に教授をお辞めになりました。辞職の理由などは全く知る由もありませんでしたし、興味もありませんでした(いまだにそうです)。そんな感じでしたから、牧師になってから7年くらい経ったころ福岡県内で開かれた講演会でお目にかかったとき、「あのー、関口と申します」と名乗りましたところ、あのギョロッとした眼で睨まれて「知ってるよ!」と(ニヤッと笑って)返され、ちょっと感動したことを、今も忘れることができません。でも、私はその「説教の塾」には参加したことがありませんし、参加する気にはちょっとなれません。説教の塾そのものには直接参加したことがないので、そこでどんなことが行われているかについて、正確なことは知りません。しかし、なされていることはだいたい分かります。私はあのような場所には参加したくありません。初めから「批判してやろう」という意図をもって座っている人々の前で説教者たちが一人また一人と「血祭り」にあげられていく姿を見ることに耐えがたい思いをもつからです。この問題点に関しては私自身がこのようにずっと感じてきたという面と、イミンク先生がハイデルベルクグループの説教学に対して発した批判からの受け売りという面とがあります。説教は、あんなふうな酷い仕方で吊るし上げられるべきではない。そう思っています。



説教の改善方法



私の考えでは、説教に対する批判的なレスポンスは、第三者がいない場所でその説教者個人に対して「そっと」伝えられるべきです。それに、説教は「塾」に通っても良くなるとは思えません。説教を良くするために最も効果的であると現時点で私が考えている方法は(それを私は実践しているわけですが)、自分の説教原稿をブログやメールマガジンなどですべて公開し、さらに可能なら説教の音声や映像までもネット上で公開し、とにかくできるだけ多くの人々の耳と目の前にさらすことです。ただし、ブログの場合は、コメントの欄は閉じておく。メールアドレスのみ公開しておき、「ご意見・ご感想がありましたらメールでお寄せください」と書いておく。そうすれば、心ある方々は必ず意見や感想を寄せてくださいます。また、「これは多くの方の耳と目の前にさらすものにするのだ」という明確な意識と自覚のもとに取り組まれた説教は、分量や表現、さらにもちろん内容的な質や深みの面で真剣なものになっていくはずです。説教を悪くする最も大きな原因(であると私が確信しているの)は、少人数の教会のなかで、耳の肥えた出席者たちが「またか」という顔で睨みつけ、または目を閉じている中で「どれほど努力しても、どうせ今日限り、この場限りのものである」という惨めな思いの中で(何となく適当に)書き下ろされた原稿を読み上げることに慣れてしまうことです。言い方を換えれば、自分自身の説教に価値を見いだせなくなることです。毎週の原稿執筆に意味を見いだせなくなることです。牧師であること、説教者になったことの目的意識を失い、自信を無くすことです。そのような説教者たちを、ここぞとばかりに「血祭り」にあげるべきではない。かえって逆効果です。



説教のカジュアル化は「教会の私物化」に通じる



「説教の塾」について私が考えていることは神学校での説教演習には全く当てはまりません。神学生の説教演習は「演習」であって、なんら「実戦」ではありません。自動車教習所のなかで運転のマネゴトをしているのと、(法に基づく)免許を取得して運転しているのとでは、意味が全く違います。また、私にとっては説教への指導をネガティブな言い方で行うか、ポジティブに言うかというようなこと自体は関係ありません。私が申していることは「なんぴとも牧師の説教を批判すべきでない」というようなことでは決してありません。むしろ批判は徹底的になされるべきです。ただし「リンチ」や「吊るし上げ」や「糾弾」のような仕方ではなく、正規の「教会法廷」(church court)において、正規の「信仰規準」(confession or standard)に則って、それはなされるべきです。説教の口調という点も、私にとってはほとんど問題ではありません。カジュアルの反対はフォーマルでしょうか。もちろん礼拝出席者の人数や会堂の様式(天井が高いチャペルか普通の民家かなど)によって説教の口調が変わって来ることは当然ですが、私自身はできるだけフォーマルに、またパブリシティを重んじて語るよう心がけています。説教をカジュアルに語ることは礼拝空間の「私物化」、ひいては教会そのものの「私物化」に通じます。その道を私は歩むことができません。いずれにせよ、「まるで友人同士であるかのように(実際はそうではないにもかかわらず)馴れ馴れしく語ることだけはするまい」と心に誓っています。説教者と礼拝出席者との(批判的)距離感を重視しています。電車やバスのなかで携帯電話を使用することが嫌がられるのと同じように、公共の場に私的で一方通行のおしゃべりの声が響きわたっているのは、不愉快極まりないものです。礼拝も然りです。緊張感のない即興(アドリブ)を交えたおしゃべりで、ひとさまの貴重な時間を無駄に使わせるような愚に陥ることを最も恐れています。私は昔から「教会が大嫌い」でした。教会はすぐにでも「私物化」されやすいからです。しかし私は牧師になりました。「教会の私物化、または私物化されやすい教会」と徹底的に戦うために牧師になりました。



「日本の説教はアメリカの教会より30年遅れている」という批判は当たっていない



「知的」か「実践的」かという点については、「教理的」か「倫理的」かという区別に置き換えて考えることができるでしょうか。これについては、あれか・これかに陥らないように、なるべく両方のバランスを重んじているつもりです。しかし私自身は、強いて言えば前者(知的ないし教理的)の要素を重んじるようにしています。後者(実践的ないし倫理的)の要素は、語らないわけではありませんが、いくらか抑え気味に語ることにしています。そして、説教において私は、最初から最後まで「問い」を発し続けます。「答え」は決して語りません。それ(答え)を私は知らないし、いろんな可能性があると思うし、「答え」は説教を聴く一人一人が自分で出すものであると信じているからです。私のような説教と、それを裏打ちしている説教学が「30年前のアメリカ状態」かどうかは、アメリカに一度も行ったことがないので分かりません。しかしまた、「30年前のアメリカ状態」という(おそらくは批判的な意味が込められている)表現が実際に何を意味するかは、そのように言っている人々に聞いてみなければなりませんが、なんだか非常に大雑把で乱暴すぎると感じるし、かなり意味不明です。また、そもそも私は、アメリカを基準にして「あの国で行われていることに比べて日本は遅れている」と語るロジックはステレオタイプだと考えておりまして、そのような言葉には聞く耳をもたないことにしています。それに、30年前のアメリカはある部分においては「ヒッピーブーム」だったでしょうし、「神の死の神学」や「革命の神学」や「聖書の非神話化」や「キリスト教の非宗教化」が流行していた頃ですし、「人間ジーザス教」への傾向が進んでいた頃です。かたや、伝統的な制度的教会(institutional church)のあり方に対するそのような破壊的流れに反対する動きもありました。もしかしたら、「30年前のアメリカ状態」という表現を批判的な意味で用いる人々は、当時の流行に乗らないで伝統的な制度的教会のあり方に固執した(ように見えた)人々を指して言っているのかもしれません。教会とそこで語られる説教は「テレビよりも退屈」でしょうか。私の感覚は相当違います。テレビほどステレオタイプな存在は他にありません。ステレオタイプは退屈です。説教者は、彼らよりも自由に(非制約的に)語ることができます。



説教は人心掌握術ではない



どうしてでしょう、言葉尻をつかまえて何かを言いたいわけではありませんが、先生のお考えのなかに「説教とは人心掌握術(マインド・コントロール・テクニック)である」という点が見え隠れしているような気がしてなりません。「聞く人にとって一番わかりやすい言葉を語る」。「聞く人が一番リラックスして心を開く言葉を語る」。「標準語よりも方言のほうが聞いた事を受け入れやすい」。「娯楽番組に慣れ親しんだ人々を30~40分惹きつけ続けて語らなければならない」。私の感覚から申しますと、この手の“配慮”は、相手にとっては余計なお世話であるし、相手をナメている態度です。自分は常に上にいて、周りのすべての人をみくだしている態度です。「オマエたちのように何にも分かっていない連中のところまで、オレサマが降りて行ってやる。柔らかく噛み砕いて教えてやる。ありがたいと思え」と言っているようなものです。「いや、わたしは決してそんなことを言っているわけではない」と、こちらがいくら言っても、相手の耳と心にはそのように響きます。私なら、そのような説教に吐き気をもよおします。椅子を蹴っ飛ばして出て行きたくなります。その礼拝に出席してしまったことを生涯後悔し、二度とその教会に近づくことはないでしょう。すべて逆ではないでしょうか。「説教者が、自分が実際には何を語っているのか、自分が語っている言葉を自分で理解できているのか、自分で理解できていないままの言葉を語っていないかを、徹底的に吟味して語る」。「説教者が一番リラックスして、自分が喜びと感謝をもって受け入れている福音の真理を、(準備不足の言い訳でしかないようなアドリブまじりのフリートークでお茶を濁すのではなく)落ち着いて丁寧に語る」。「方言が用いられることによってその方言を用いる人々以外の人々が“心理的に締め出される”ことがないように、できるだけ標準語を語る」。「1、2分おきに『ギャハハ』と爆笑(の録音音声)が聞こえる(ように仕組まれている、アメリカナイズされた)テレビの娯楽番組(のステレオタイプ的な盛り上げ術)に飽き飽きした人々に、聖書と向き合いつつ物事を落ち着いてじっくり考えるための、静かな時間を提供する」。



説教の核心は現代用語で置き換えうるか



「マインド・コントロール」ではなくて「配慮」であると言われるかもしれません。私もつい先ほど、「そのような“配慮”は・・・余計なお世話である」と書きました。先生が「配慮」しておられることが良く分かるからこそ、その「配慮」の内実を問うているのです。先生は「教会用語は、一般的な用語に置き換えて語らなければ現代人に伝わらない」とお考えのようですが、もちろんそのとおりの面があることを、私も了解しています。しかし、熟達した説教者であればだれでも、教会用語を教会用語のまま、説教において語ることはしません。教会用語をその時代に理解可能な言葉で定義しようとします。初めて教会に来た人に「言葉が難しくてさっぱりわからなかった」と言わせてしまう説教者がいるとしたら、その説教者はこの定義(definition)に失敗しているのです。ところが、もっと大きな問題は、この先です。「神」は、どの現代用語で言いなおすことができるでしょうか。「罪」は、「救い」は、「終末」は、現代のどの用語で正しく置き換えることができるでしょうか。「もちろんできますよ」とお答えになるかもしれません。しかし、私が問いたいのは、「その言いなおし、その置き換えは、神学的・内容的に正しいものでしょうか」という点です。この問いの意図は、こうです。説教者自身は「自分が用いた譬えは絶妙であった。ウケタ(=笑いと関心を獲得しえた)」と満足できたかもしれない。しかしまさにその譬えそれ自身が、説教を聴いている人々を途方もない誤謬や異端へとミスリードしてしまっている可能性があるのではないでしょうかということです。「聖書の言葉は現代用語へと容易く置き換えうる。我々は分かりやすく語りうる」と考えている説教者がいるとしたら、その人は、現代人をナメていないのだとすれば、神学をナメているのです。



正しい情報が伝えられることを願う



あるいはまた、もし先生がおっしゃっていることが私の言う「教会用語をその時代に理解可能な言葉で定義すること」と同じことであるとしたら、日本の説教者と教会と神学校はすべてそのことに日夜、汗と涙を流しながら真剣に取り組んでいます。「30年前のアメリカ状態」とか「知的であるが実践的でない」などというような(それ自体は意味不明な)印象批評は全く当たりません。日本の状況についてのそのような誤解と悪意に満ちた情報を先生に吹き込んでいる人々には、その考えを直ちに撤回していただきたきたいと強く願っています。もしそれが神学校の教授のような人であるとしたら、そのようなことを学生たちに吹き込んでいる教授やその神学校の学的権威を私は決して認めません。なんとつまらないことを教えている人々なのでしょうか。ウェブ上で聴くことができると言われる先生のメッセージをいまだに聴かないでいるのは、私の申し上げていることが(まだ一度もお目にかかったこともない)一個人としての先生のお考えを批判しようとしているものではないことを明らかにしたいからです。



「日本の教会」のイメージは一律ではない



私は42年間「日本の教会」と付き合ってきましたが、先生の存在をこのたび初めて知りました。先生も私をご存じなかったと思います。つまり、これまではお互いの間に接点は無かったということであり、「日本の教会」と一口に言っても、付き合ってきた人の範囲や関係は違っていた。先生が付き合ってこられた「日本のキリスト者」と私が付き合ってきた「日本のキリスト者」とは違っている。耳にしてきたコメントも違う。だから、「日本の教会」あるいは「日本のキリスト者」に対して抱いているイメージも違う。結論はそういうことでよろしいのではないでしょうか。先生は先生なりの方法で御自分の畑を耕す。私は私なりの方法で自分の畑を耕す。それで良いのではないでしょうか。私は、「自分の説教を聴いてください」などと、同じ仕事をしている相手に押しつけたりはしません。そういうことができてしまう先生とは、持っているエートスもかなり違うようです。内容は何であれ、他人から何かを強く押しつけられることは苦手です。先生が説教なさる相手は、私ではなく、御自身の教会の方々ではないでしょうか。私には「日本の教会」を庇う責任がありますので、批判や侮辱に接すると、聞くに堪えないものがあります。



「改善点の指摘」は自分自身に向けるべきである



それとも、このたびお書きになったことが「吹き込まれたこと」ではなく御自身の考えであるとおっしゃるなら、先生御自身にはっきりとお伝えせねばならなくなります。日本の教会を「客観的に」眺めて、どうぞ論評し続けてください。ただし、先生のような、狭い見聞(聞きかじりだとか)に基づく無責任な評論家の言葉には、誰も耳を傾けないでしょう。説教についての考え方の違いは、私なりに説明させていただきました。ほとんど正反対とも言いうる説教理解の持ち主であると分かりました。それはそれで尊重します。しかし、先生の説教(とその理論)も完璧なものではないでしょう。もしそのこと(先生の説教は完璧なものではないこと)をお認めいただけるようでしたら、御自身の説教をどうぞとことん改善していただけばよいのであって、赤の他人の説教の改善の必要性を力説しなくてもよいでしょう。もし先生が仮にも説教者ならば、「改善点の指摘」は、他人に向けるのではなく、自分自身に向けるべきです。そこが余計な御世話だと思っているのです。「説教を向上する一番の方法は、優れた説教者の説教を聞くことである。牧師が他の牧師から学ぶ姿勢を忘れたら成長しない」とおっしゃっている点は、同意いたします。しかし、文脈から読み取るに、先生は御自分が「優れた説教者」であると思っておられるご様子です(それ以外にどのように読めるでしょうか)。この点があきれます。ある意味大したものです。しかしおそらくは先生のパーソナリティに起因する何かではなく、出身教会か神学校あたりで身につけられた何かではないかと感じます。この種の勘違いに陥っている人を他にもたくさん知っているからです。しかしまた、まさにこの点が先生と私の間の決定的なギャップを作りだしています。私も「優れた説教者の説教」ならば喜んで聴きますが、へんに自信過剰なだけの、押しつけがましい、見知らぬ説教者の言葉を聞くつもりはありません。謹んでお断りいたします。もう十分でしょう。ひとまず終わりにしましょう。