2008年8月30日土曜日

ここに書いた願いはすべて必ず実現するブログ

「ここに書いた願いはすべて必ず実現するブログ」があればいいのにと、時々思います。私が今、心の底から願っていることが、二つあります。

第一の願いは、松戸小金原教会の礼拝が現在の二倍以上の出席者で満たされるようになることです。

2000年ちょうどに立ち上がった新しい会堂は、百名の出席者なら余裕で対応できます。現在は一人一人が余裕で座っています。しかしこれからは、少し詰めて座らなければ入れないほどの人数になっていくことを期待しています。

余所から来た者には言いにくいことですが、松戸市も、小金原という町も、教会周辺の街並も、オプション的な魅力に満ちあふれているとは言い難いものです。純粋に東京のベッドタウンであり、街そのものに面白味は感じられません。

交通手段も、便利とはとても言い難いものです。JR常磐線「北小金駅」からも、JR武蔵野線「新八柱駅」からも、それぞれ15分ほどバスに乗っていただかなくてはなりません(駐車場は10台分ほどありますので、自動車での来会も可能です)。

「それでも構わない。松戸小金原教会は神の言葉を大胆に語り、福音を正しく宣べ伝えることにおいて熱心な教会であり、温かく安心できる教会である」と信頼し期待してくださる方々によって礼拝と諸集会が満たされるようになることを願っています。

第二の願いは、2006年7月に設立されたばかりの東関東中会に、東部中会にあるのと同じような、あるいはそれ以上の「神学研修所」ができることです。

これは私一人が願ってもどうしようもないことです。東関東中会の教師・長老、そしてすべての教会員と相談しながら進めていかなくてはならないことです。だれか突出した特定の個人が単独で暴走することによって始められたものは、後々禍根を残すものになりかねません。そのことは歴史が証明しています。

しかしまた、ここにいたって深く考えさせられることは、そこで教えるのは個々人としての人間であるということです。どんなに立派な制度や組織ができようとも、どれだけ多くの献金が集められようとも、そこで教えるべき教師一人一人が知識と敬虔において優れた者へと成長していくのでなければ一切は空虚です。

また東関東中会全体が、そこに属する教会員全員が、そのような「神学研修所」の設立を真に期待するのでなければ一切は空虚です。わたしたち教師である者たちが「そのうちだれかが始めてくれるだろう。それまでは黙ってじっと待っていよう」と手をこまねいていても自動的にどうにかなっていくというのであれば、そうしていたい気持ちが私の中にないわけではありません。

しかし、「神学研修所」(このまさしく究極的な非営利事業!)に限っては、勇気(と遊び心)をもっただれかが始めるのでなければ、永久に始まらないのではないか。大きな石も、自ら転がりはじめるまでの最初の一押しは、だれかが肩や腰を痛めてでも、必死になって手を突っ張らなければならないのではないか。そういうことも、しきりと考えさせられるのです。