(キリスト教)教義学の扱うべき範囲は、際限がありそうで無い。無さそうで、ある。そういう厄介な面があります。扱っているテーマが宗教の教義なのですから、宗教の主題としての神のみわざの全範囲を(とにかく何らかの仕方で)包括しているものでなければ、「教義学」と呼べるものではありません。
しかし、神のみわざの全範囲とは何でしょうか。それは「(「神が創造された」としか語りようがない)この宇宙の、最初から最後まで」というべきものです。それを一冊の書物にまとめることができる人間はいない。通常は、こういう前提から出発してよいはずです。
それでも「教義学」は、今日なお書かれねばならないものです。その理由は書き出すと長くなるので、今はやめます。それは現代においてもなお不可避的に書かれねばならない書物であり、また、それを書くのはいずれにせよ誰か人間です。
「誰にも書くことができない書物は、しかし、誰かによって不可避的に書かれねばならない。」もしこれをディレンマと呼んでよいならば、教義学は常にこのディレンマの中にあったし、今もあり続けていると言ってよいでしょう。
宇宙の最初から最後までを一冊の本にする。そのようなことは実際にはおそらく全く不可能なことであるわけですが、それでも20世紀まではさまざまな悪あがきがなされてきました。たとえば、タイトルの「教義学」の後に「概論」と付けておくことによって、「これは全体の要約としての意義を持ちうるのだ」と言い張ってみせる方法がしばしば用いられました。
あるいはまた、「教義学として書かれはじめた過去の書物は、いずれも未完結に終わったのである」という歴史的事実を引き合いに出すことによって互いに慰め合う(あのような偉い人たちでも成し遂げることができなかったことなのだから、わたしたち凡人にできなくても当然なのだという言葉をもって)というようなことも実際になされてきました。
しかし、そういうやり方は、私に言わせていただくと、何となくみっともなくて、見苦しいものです。「本当は書くことができたし、書くべき内容は山ほどあるのだが、時間切れで書けなかっただけである」と言う。悔し紛れか言い逃れとして言っているようにしか聞こえません。
わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。教義学を断念することは簡単です。この種の書物はとっくの昔から「サブカル化」しているわけですから、「新しい教義学を生み出す」などと息巻いている者は一笑・一蹴されるだけでしょう。16世紀や20世紀といった神学の黄金時代の書物を再版ないし再翻訳して、今の不毛な時代をやり過ごすしかないのでしょうか。