先週は、遅ればせながらmixiに恐る恐る近づき、ついに参加してしまいました。次の問題は、このmixiに60歳代以上の人々(とくに牧師や神学者のような人)を誘い込むにはどうしたらよいかです。
慣れればどうってこともない感じですが、その世代の人々にとっては新しいものに慣れるまでが大変でしょう。
私がmixiに参加したいと願うようになった直接の動機は、つい最近アメリカ改革派教会(RCA)におけるファン・ルーラー研究の第一人者であるポール・フリーズ先生(Prof. Dr. Paul Roy Fries)からPlaxoというSNSに誘われて加わり、その様子を見て非常に驚いたからです。
そのグループの全員が、自分の顔写真を堂々と出しています。もちろんすべて実名公表。国はさまざま。これからいよいよ本格的に、インターネット上の神学者国際会議が行われる時代が始まるかもしれません。
日本に同様の試みや計画があるかどうかは知りません。もしまだ行われていないなら、これから真剣に実現の可能性を検討すべきではないかと思うばかりです。
まだよく分からないので全くの当てずっぽうですが、SNS(ソーシャルネットワークサービス)での議論は、掲示板やメーリングリストでの議論よりも、いろんな意味での安全性が高いような気がしています(ポジティヴすぎるでしょうか)。
「関口よ、お前はインターネットにこれ以上何を期待するのか。これまで九年半も続けてきたファン・ルーラー研究会メーリングリストが、一体何を生み出したというのか」と問われると、あまりにもつらすぎて私には答えられません。
しかし、なかには「参加してよかった」と言ってくださる方もおられます。「あのメーリングリストに参加するまではオランダ語の書物を自分で読むことなど、考えられないことでした。しかし、それを翻訳してくれて、解説してくれて、質問すれば答えてくれて。」(全部無料でネ!)
私の願いを一言で言えば、「本格的な神学を教会の手に戻すこと」です。
神学が「教会の神学」としての本来性を回復すること。それによって、とりわけ礼拝の説教が正確な神学的道筋の中で語られるようになること。そのために神学の公開性を高め、アクセスを容易にし、悪しき秘教化(esotericism)を打破すること。神学を大学や神学校の専有物にさせないこと!「神学(者/校/部)栄えて教会(人)滅ぶ」という本末転倒的事態に陥らないこと!
このような願いないし目標のためにインターネットを用いることが有効かどうかを、これまでほぼ10年近い時間をかけて検証してきたつもりです。もっと別の有効な手段があるならば、私自身にインターネットに固執する思いは皆無です。こんなの、いつでも止めます。
神学はキリスト者と牧師の日常生活の中に位置づけられるべきです。神学は学者だけのものではありません。神学は信仰について反省する学です。信仰をもって生きている人々ならだれでも取り組むべきです。
しかしまた、神学は主として伝道に直接携わる人々、なかでも牧師たちが一心不乱に取り組むべき学であることは否定できません。牧師がなぜ神学に取り組むべきなのでしょうか。牧師の仕事の中心には説教があるからです。説教の思想構造を神学が形成するのです。
逆も然り。神学なき説教には思想構造が存在しないのです。不断の神学研究に裏打ちされていないような説教は、多かれ少なかれ会衆に多大な苦痛を与えます。筋も構造もない話となり、思いつき・行き当たりばったり・支離滅裂・しどろもどろの迷走説教になります。日曜日の朝を教会で過ごそうと決心して集まってきた人々に「来なければよかった」という落胆の思いを与えます。
時間泥棒は犯罪です。信仰生活を長く続けてきた方々の中には、説教を一度聞くだけで、その牧師が神学に真剣に取り組んでいるかどうかを直感的に見抜いてしまう人々が少なくありません。理由は簡単です。神学を深めた人の説教は「分かりやすい」。神学研究がいいかげんな牧師の説教は「ちんぷんかんぷん」です。
しかし、です。牧師たち、とりわけ地方教会に仕える牧師たちが神学を継続するためにクリアすべき問題があります。
神学研究に必要なものは、当然やはり「本」です。とはいえ、近くに大学や神学校があるわけでない。神学に関する書物が簡単には手に入らない。キリスト教書店さえ存在しない、というようなことで悩んでいる牧師たちがいます。私も体験したことですが、日本の場合、「都会」と呼ばれる地域以外では神学に関して入手しうる情報があまりにも少なすぎるのです。それが牧師たちから神学への意欲を奪う一因となっています。
加えて言えば、「本」を通しての情報収集を行う場合には、言うまでもなく「本を買う」という行為を避けることができません。このことも神学への意欲という点で無視することができません。なぜ無視できないかと言えば、こと日本の場合、神学書がべらぼうに高い!高い割に内容が薄い!地方教会の牧師の中には、高すぎる神学書を前にして買い控えている人もいます。
その状況をなんとか打破したい。神学研究に関しての地方と都会の「格差是正」に取り組まねばならない。この願いがきわまり、「使ってみよう」と思いついたツールがインターネットでした。東京神学大学での同級生であり、理系の専門的知識をもっておられる清弘剛生先生(現在は日本基督教団頌栄教会牧師)は私のさまざまな相談に快く応じてくださいました。
現在までに行ってきたのは、ホームページやブログによる論文公開、メーリングリストによる原書講読会やディスカッションなどです。それらの情報のすべてを無料で提供してきました。もちろんまだまだ試行錯誤中です。私自身は、これインターネットは神学研究にも役に立つと感じてきました。しかし、可能性は依然未知数です。危険性ないしマイナス面のほうを数えはじめると、きりがありません。自分だけが「清く」ありたい人は、あまり向かないかもしれません。
しかし、です。ほぼ10年かけての実験の中で感じてきたことは、これは本当に大変なことだということです。最も大きな困難は(「やっぱりか」と言われそうですが!)、資金的な裏づけがあまりにも乏しすぎるということです。私が願ってきたことの中には「神学を大学や神学校の専有物にさせてはならない」という点が含まれていますので(批判や抵抗をもくろむ意図などは皆無ですが!)、資金的な援助を大学や神学校に求めることはできません。求めても断られるだけでしょう。
また、この種の活動は学校内行政(とくに大学や神学校の理事会の判断)の束縛やしがらみのようなものからできるかぎり自由であるべきです。その意味で、これはあくまでも私的(オランダ語のvrijのニュアンスに最も近い)に行われるべきです。そのことを私自身は痛いほど理解しているつもりです。
ところが、ここで浮上する問題は、「私的なもの」もしくは「独学的なもの」を、誰が信用し、(精神的にだけでなく資金的に)支援してくれるでしょうかということです。たとえば、独学者の著書や訳書を信用して購入してくれる読者はどれくらいいるでしょうか。ここに大きな不安要因がつきまとい続けています!
高名な学者たちの論文や訳文を無料で公開することはできません(させてもらえません)。無料で公開できるのは独学者の作品です(ここで「独学者」の意味は、肩書にProf. (教授)かDr. (博士)かが(あるいは両方が)付いていない人のことです)。
そもそもの動機として「地方教会のキリスト者たち(とりわけ牧師たち)の神学的な飢え渇きをいやしうる一杯の水を提供してみたい」という思いから関与を開始したインターネット活動は、何を隠そう、私自身の飢え渇きを自ら克服するための方法を編み出す試みでもありました。
口幅ったいかぎりですが、わたしたちの悲痛な叫びは、地方教会でお働きになったことのない教師、あるいは大学や神学校をもっぱら活動の場にしてこられた教師には、なかなか理解していただけないのではありますまいか。
しかし、しかし、です。ほぼ10年続けてきて分かることは、このようなささやかな神学活動にも、個人には手に負えないほど多大な資金が必要であるということです。
10年の間に、1台10~15万円程度のパソコンを4台買い換えました。これだけで50万円。プリンタは6台(3台は落雷で動かなくなりました)。安いのばかりですが、それでも1台1~2万円はしますので、ざっと10万円。OSがバージョンアップするたびに(ウィンドウズ98 → Me → XP → Vista)、大きな費用が発生しました。プロバイダ会社には10年間で150万円くらいは(もっとかな?)支払ってきたはずです。
私がメールのやりとりをする相手は、ほとんどすべてキリスト者たちであり、牧師や神学者たちです。それ以外の使い方は一切していません。オランダ語の神学書購入には、現時点で200万円くらいを注ぎ込んでいます。そこに電気代その他の諸経費を加えれば、おそらく500万円近い資金を個人的に負担してきた計算になるはずです。「一杯の水」のコストが、なんと500万円です!
「一杯の水」が500万円。これだけ自費を注ぎ込んでも、依然として、まとまった一冊の著書も、一冊の訳書さえも世に問うことができません。生まれたのは、数編の雑誌論文と、インターネット内の散文と、個人やメーリングリストに宛てて書いた一万通をゆうに超えたメールだけです。独学者であることの限界を超えることができません。
神学活動からはほとんど一円の収入も得ることができませんが、ご批判だけは結構いただきます。「ハイリスク、ノーリターン」です。おかげさまで多くの同志と知己を得、山のようなオランダ語文献を手にすることはできました。それはそれで私の誇りとしているところなのですが、しかしこのままだと、どう考えても生計が成り立ちません。
幸い、わが家には「負債」はありません。「本格的な神学」に取り組むためのプラスアルファの部分がこれ以上は捻出できそうもないと感じているだけです。これまでは二人の子どもたちが小さかったので無理や無茶がききましたが、そろそろ限界です。一般企業の場合は、資金繰りに行き詰った時点で、その事業は撤退ないし終了となるのでしょう。私も撤退すべきかもしれませんが、諦めが悪いタチなので、何とかならないものかと、毎日頭をひねっています。
これから取り組みたいと願っていることもあるのです。提供する情報が「本格的な神学」でありうるために、オランダ語のスキルを高める必要を痛感しています。東京の日蘭学会で行われているオランダ語講座(初級・中級・上級)に通いたいと何年も前から願いながら、費用的裏づけを得ることができないために、いまだその夢が叶わずにいます。
あとは出版活動です。ファン・ルーラーの論文や説教の翻訳をインターネット上で始めて以来、「独学者(教授でも博士でもない者)の訳書をどうしたら信頼して買っていただけるのか」をずっと考え続けてたどり着いた一つの結論は、訳書を出版するよりも前に訳者自身の著書を出版すべきではないかということです。
おこがましいかもしれませんが、まず最初に私自身の本(説教集など)を出版して広く読んでいただき、この人間の考えやスキルを知っていただく。そのステップを経た上でファン・ルーラーを紹介するという手順を踏むしかないのではないかということです。
しかし、出版活動も、とどのつまりはお金の問題です。今42才ですので、たぶんあと30年くらいは体が動くだろうと期待しています。オランダへの留学を本気で思い詰めていた頃は、留学の限界と言われる年齢までの日数を(まるで死刑囚のように)数えながら、ほとんど強迫観念の中で勉強していました。しかし、それも今は良い思い出です。
松戸に来て、よい教会、よい長老たちに恵まれました。多くのことを望まず、自分にできることをコツコツ続けていき、小さな何かを残せたらよいと思っています。